澤木
文字数 4,632文字
二月に入り、冷え込む日が続くようになった。気温が氷点下二十度を下回るほどになると、家の前でもダイヤモンドダストが見られる。小さな光の粒が音を吸い込んで煌いているみたいに静かな朝を彩る。澄んだ空気の中に無音が響きわたる。
深雪のスマートフォンに着信があったのはそんな冷え込みの厳しい日曜日の朝だった。マナーモードのスマートフォンが机の上で鳴動する。めったに使われることのない電話としての機能が目を覚まし、その機能が搭載されていることをアピールするように振動していた。画面には氷月風音という名前が表示されている。深雪のスマートフォンに電話番号が登録されているのは風音だけだ。友達から電話がかかってくるということが深雪には新鮮だった。
「はい」
深雪は着信に応答した。
「もしもし、深雪? わたし、風音。おはよう」
電話の向こうで風音が言う。
「おはよ」
深雪は挨拶の後、今朝は寒いね、とかダイヤモンドダスト見た、とかそういう話をしようと思ったのに、風音はすぐに用件を畳みかけてきた。
「実咲が会うっていうんだけど深雪今日出てこられる?」
「あああっと、いいよ」
言おうと思っていた言葉をあいまいな音の中に捨てて深雪は答えた。
「じゃ、お昼ごろ涼月で」
「うん」
深雪は相槌を打った後でお昼って何時ごろかを尋ねようと思ったのに、すでに電話は切れていた。思わず耳から離したスマートフォンの画面を見てしまった。もちろんそんなところに何も表示されているはずはない。単に通話が終わったことを示す画面が表示されているだけで、それさえも数秒すれば元の待機画面に戻る。
「風音、せっかちだなあ」
深雪は声に出して言った。
深雪は慌ただしく通り過ぎた会話の中でいったい何を話したのか思い出していた。実咲が会ってくれる。風音がきっとうまく深雪のことを紹介してくれたのだろう。どんな人だろう。風音をあんなふうに撮る人。そう思って、深雪はまだ風音の写真を撮ったことがないことに気づいた。
風音の言うお昼ごろが何時なのか考えるのは早々に諦め、深雪は早めに行って待っていることにした。
ゆっくりと景色を楽しみながら、時にシャッターを切りながら歩いて涼月を目指す。かなりゆっくり歩いたつもりだったのに、深雪が涼月にたどり着いたとき、その重い扉には準備中という札がかかっていた。あたりにはコーヒーの豊かな香りがにじみ出ている。文字通り準備をしているのだろう。
深雪はあまり迷わずに扉を開いた。
「こんにちは」
開いた扉のすぐ脇に澤木がかがみこんでいた。澤木の前では大きな機械が作動音をまき散らしている。
「おお、いらっしゃい」
澤木は深雪を見上げて言った。
澤木はコーヒー豆を焙煎しているところだった。大きな篩のような網の上にコーヒー豆がたくさん入っていて、機械がそれをかき混ぜている。ハロゲンランプでライトアップされたコーヒー豆は混ぜられるたびに独特の光沢に撫でられ、砂浜に打ち寄せる波のような音を一定のリズムで奏でている。そこから発せられた芳醇な香りが一帯に充満していて、深雪はコーヒーの中を泳いでいるような気分になった。
「いい匂いですね」
「だろう? コーヒーは焙煎してるときに一番いい匂いがするよ」
いつものように低くジャズが流れている。オーディオセットのところに今流れている作品のジャケットが飾ってある。ジャズをよく知らない深雪にはさっぱりわからない。今日飾ってあるジャケットは真ん中で斜めに区切られて上が黄色、下が水色というコントラストの楽しいデザインで目を引いた。深雪は作業をしている澤木の横に立ってそのジャケットを眺めていた。
「あれ? カウンター、座らないの?」
「え? ああ、準備中って書いてあったからまずいかなと思ったんです」
深雪が答えると澤木は笑った。
「あのね。普通は準備中って書いてあったら入ってこないんだよ。入ってきたんだから座ったらいいんじゃない?」
「そうさせてもらいます」
深雪も笑って答えた。
「今日は寒いですね、朝ダイヤモンドダスト見ましたよ」
コートを壁にかけてカウンターに腰を据えた深雪が言う。
「ぼくはこの町へ来て初めてダイヤモンドダストってものをこの目で見たよ。それまで映像でしか見たことがなかった」
澤木もカウンターのところへ来て、コーヒー豆を挽き始めながら言った。
「ケンさんはこの町の出身じゃないんですか?」
深雪は少し驚いて聞いた。
「ああ。ぼくはもともと関東の出身だよ。ある時思い立って引っ越してきたんだ」
「思い立って」
深雪は繰り返した。思い立ってこんなに遠い場所へ引っ越してくるというのはどういう感覚なのかよくわからなかった。
「どんなきっかけでこんなに遠いところへ引っ越してこようと思ったんですか?」
「簡単に言えばそうね、悩んだんだな、ぼくなりに」
ドリッパを用意しながら澤木が答える。
「聞かせてくれますか? その話」
「あんまり楽しい話じゃないかもしれないよ」
深雪はゆっくり頷いた。
「もう何年か前になるけど、ぼくは自分の将来に行き詰まりを感じてね」澤木は火にかけたポットを確認しながら話し始める。「息苦しい都会でせわしく目まぐるしく頑張ってきてさ。自分を信じて突き進んでたんだ。自信もそれなりにあった。でもあるとき、もしかしてぼくが思っているほどぼくはすごくないかもしれないって気づいてしまった。そう思ったらとたんに空が重くてね」
澤木は言葉を区切り、ポットを取り上げてドリッパに湯を注ぐ。
「空が重い」
深雪は自分でもその言葉を口にして感覚を想像してみたけれどいまいちうまくいかなかった。
「東京の空はね、重いんだよ。普段はそびえる高いビルが支えているから空の重さには気づかないけどね。フルスピードで走っていたエンジンがへこたれてくると空を見上げる余裕ができるんだな。そうするとビルの支えを飛び越えて空が落ちてくる。重苦しい空がさ。ぼくはそれに耐えられなかった」
「なにかあったんですね。嫌なことが」
「いや。特に嫌なことは何もない」
澤木の手がドリッパの上でらせんを描く。落とされた湯が挽かれた豆の間に浸透してドーム状に膨らむ。
「ぼくは東京でバンドをやってた。プロを目指してやってたんだけど、生活するためにプログラマみたいな仕事をしてたらそれはそれで面白くてね。そこそこプログラマをやりながらそこそこバンドをやってた。要は中途半端なわけだ。どっちもそれなりに上手にはできる。でもどっちも一流じゃあない。何もかも悪くない。だけどとびきり良くもない。その状態がいやになったんだね。ぼくは」
「それをとびきり良い状態にしようと思ったっていうことですか」
深雪にはいまいち、澤木が何もかも捨ててこんな田舎へ引っ越してくるほど何を嫌ったのかわからなかった。
「ん。そういうわけでもない。ぼくは要するにね。いろんなものから逃げたんだよ」
澤木はそう言いながら深雪の前にコーヒーを出した。深雪はそれを受け取りながら入口の扉の方を見る。
「まだ準備中になってると思いますよ」
「いいんだ。もうしばらく準備中にしておこう」
澤木はそう言って片目をつぶった。深雪はこんな風にマンガみたいにウィンクをする人を初めて見た気がした。
「ね、深雪ちゃん。器用貧乏って言葉、知ってる?」
「はい。器用なばっかりにどれも中途半端な状態になっちゃうっていうことですよね」
「そう。ぼくはまさにそれ。手先はいくらでも器用な方がいいけどね。生きるのに器用な人はだいたい器用貧乏になる。不器用な人から見ると羨ましいみたいだけどさ。うらやましがられることも含めて当人には辛いのよ」
澤木はコーヒーを一口すすった。
深雪の脳裏に麻夕のことが浮かんだ。なんでもできる麻夕。深雪は麻夕のことを羨んでいた。そこそこ止まりだと言っていた麻夕。一つのことを極める覚悟がないと言っていた麻夕。
「それでぼくはね」澤木が続ける。「なんとなく憧れてた北海道へ引っ越そうと思ったわけ。空のきれいなところへ。ってね。重苦しい空じゃなくて、広くて高い空が広がっているところ。そしてここへたどり着いた」
「それでコーヒー屋さんを始めたんですか?」
「いや。最初は家でプログラマをしてた。プログラマの仕事ならインターネット回線さえあればどこでもできるからさ。東京や札幌から仕事をもらってきてやってたんだ」
「じゃどうしてコーヒー屋さんを始めたんですか?」
「それはね。家でこの町と関係ないところから仕事を請けてやっているとさ、この町で生活はしてるけどこの町で生きてる感じはしないなって思ったんだ。もっとこの町で生きるにはどうしたらいいかなって考えて、それで若い人向けのコーヒー屋さんをやろうと考えたの」
「え? ここ若い人向けだったんですか?」
深雪は驚いて聞いた。初めて来てから今まで、この店を若い人向けだと思ったことは一度もなかった。重厚なカウンターテーブルが薄明かりに鈍く輝き、大掛かりなオーディオで低くジャズが流れていて、カウンターの向こうには模型メーカーのエプロンをした男がいる。時間と一緒に歩むことを放棄したようなこの空間は遠い過去から切り取られてきたみたいだった。若い人向けという要素は一つも見当たらなかった。
「若者向けに見えないかい? でも深雪ちゃんは若いよね。風音ちゃんも若い。若い人がちゃんと集まってきているだろう?」
そう言われてみるとそうだった。若い自分たちが気に入って通っている。それは若い人を惹きつける何か魅力があるからに違いなかった。
「いわゆる若者向けのカフェっぽいものはいくらでもあるからさ。若い人が体験したことのないような雰囲気をね。中学生や高校生でも来られるぐらいの値段でやるっていうコンセプトね、コンセプト」
澤木はいたずらな顔をしてみせた。
「でもこの店でわたしたち以外のお客さんに会うことってめったにありませんよね」
深雪は言ってしまってからちょっと失礼だったかもしれないと反省した。澤木は豪快に笑った。
「一応他のお客さんも来るよ。だけど正直に言うと一番よく来るのは風音ちゃん」澤木はそう言って深雪の顔を見つめ、「と、その仲間たち」と付け加えた。
「北町高生はけっこう来るよ。どちらかというと少々クセのある子が多いかな。うちへ来るのは、あまり学校で目立つタイプじゃないだろうなっていう子が多いね。それから風音ちゃんのお父さんも仕事が休みの時にはよく来るよ」
「風音のお父さんですか」
「ここね。実は店の裏の倉庫がラジコンのコースになっててさ。それは実はぼくの趣味なんだけどね。風音ちゃんのお父さんも趣味でラジコンをやってて、よくここへ来て走らせてるよ。飛ばすやつを持ってくることもある」
「ドローンっていうやつですよね」
「そう。北町高のドローン部の子も練習しに来たりするよ」
「へえ。なんかつながってるんだなあ」深雪は感心して言った。
「小さな町だからね」
澤木は微笑んだ。
深雪のスマートフォンに着信があったのはそんな冷え込みの厳しい日曜日の朝だった。マナーモードのスマートフォンが机の上で鳴動する。めったに使われることのない電話としての機能が目を覚まし、その機能が搭載されていることをアピールするように振動していた。画面には氷月風音という名前が表示されている。深雪のスマートフォンに電話番号が登録されているのは風音だけだ。友達から電話がかかってくるということが深雪には新鮮だった。
「はい」
深雪は着信に応答した。
「もしもし、深雪? わたし、風音。おはよう」
電話の向こうで風音が言う。
「おはよ」
深雪は挨拶の後、今朝は寒いね、とかダイヤモンドダスト見た、とかそういう話をしようと思ったのに、風音はすぐに用件を畳みかけてきた。
「実咲が会うっていうんだけど深雪今日出てこられる?」
「あああっと、いいよ」
言おうと思っていた言葉をあいまいな音の中に捨てて深雪は答えた。
「じゃ、お昼ごろ涼月で」
「うん」
深雪は相槌を打った後でお昼って何時ごろかを尋ねようと思ったのに、すでに電話は切れていた。思わず耳から離したスマートフォンの画面を見てしまった。もちろんそんなところに何も表示されているはずはない。単に通話が終わったことを示す画面が表示されているだけで、それさえも数秒すれば元の待機画面に戻る。
「風音、せっかちだなあ」
深雪は声に出して言った。
深雪は慌ただしく通り過ぎた会話の中でいったい何を話したのか思い出していた。実咲が会ってくれる。風音がきっとうまく深雪のことを紹介してくれたのだろう。どんな人だろう。風音をあんなふうに撮る人。そう思って、深雪はまだ風音の写真を撮ったことがないことに気づいた。
風音の言うお昼ごろが何時なのか考えるのは早々に諦め、深雪は早めに行って待っていることにした。
ゆっくりと景色を楽しみながら、時にシャッターを切りながら歩いて涼月を目指す。かなりゆっくり歩いたつもりだったのに、深雪が涼月にたどり着いたとき、その重い扉には準備中という札がかかっていた。あたりにはコーヒーの豊かな香りがにじみ出ている。文字通り準備をしているのだろう。
深雪はあまり迷わずに扉を開いた。
「こんにちは」
開いた扉のすぐ脇に澤木がかがみこんでいた。澤木の前では大きな機械が作動音をまき散らしている。
「おお、いらっしゃい」
澤木は深雪を見上げて言った。
澤木はコーヒー豆を焙煎しているところだった。大きな篩のような網の上にコーヒー豆がたくさん入っていて、機械がそれをかき混ぜている。ハロゲンランプでライトアップされたコーヒー豆は混ぜられるたびに独特の光沢に撫でられ、砂浜に打ち寄せる波のような音を一定のリズムで奏でている。そこから発せられた芳醇な香りが一帯に充満していて、深雪はコーヒーの中を泳いでいるような気分になった。
「いい匂いですね」
「だろう? コーヒーは焙煎してるときに一番いい匂いがするよ」
いつものように低くジャズが流れている。オーディオセットのところに今流れている作品のジャケットが飾ってある。ジャズをよく知らない深雪にはさっぱりわからない。今日飾ってあるジャケットは真ん中で斜めに区切られて上が黄色、下が水色というコントラストの楽しいデザインで目を引いた。深雪は作業をしている澤木の横に立ってそのジャケットを眺めていた。
「あれ? カウンター、座らないの?」
「え? ああ、準備中って書いてあったからまずいかなと思ったんです」
深雪が答えると澤木は笑った。
「あのね。普通は準備中って書いてあったら入ってこないんだよ。入ってきたんだから座ったらいいんじゃない?」
「そうさせてもらいます」
深雪も笑って答えた。
「今日は寒いですね、朝ダイヤモンドダスト見ましたよ」
コートを壁にかけてカウンターに腰を据えた深雪が言う。
「ぼくはこの町へ来て初めてダイヤモンドダストってものをこの目で見たよ。それまで映像でしか見たことがなかった」
澤木もカウンターのところへ来て、コーヒー豆を挽き始めながら言った。
「ケンさんはこの町の出身じゃないんですか?」
深雪は少し驚いて聞いた。
「ああ。ぼくはもともと関東の出身だよ。ある時思い立って引っ越してきたんだ」
「思い立って」
深雪は繰り返した。思い立ってこんなに遠い場所へ引っ越してくるというのはどういう感覚なのかよくわからなかった。
「どんなきっかけでこんなに遠いところへ引っ越してこようと思ったんですか?」
「簡単に言えばそうね、悩んだんだな、ぼくなりに」
ドリッパを用意しながら澤木が答える。
「聞かせてくれますか? その話」
「あんまり楽しい話じゃないかもしれないよ」
深雪はゆっくり頷いた。
「もう何年か前になるけど、ぼくは自分の将来に行き詰まりを感じてね」澤木は火にかけたポットを確認しながら話し始める。「息苦しい都会でせわしく目まぐるしく頑張ってきてさ。自分を信じて突き進んでたんだ。自信もそれなりにあった。でもあるとき、もしかしてぼくが思っているほどぼくはすごくないかもしれないって気づいてしまった。そう思ったらとたんに空が重くてね」
澤木は言葉を区切り、ポットを取り上げてドリッパに湯を注ぐ。
「空が重い」
深雪は自分でもその言葉を口にして感覚を想像してみたけれどいまいちうまくいかなかった。
「東京の空はね、重いんだよ。普段はそびえる高いビルが支えているから空の重さには気づかないけどね。フルスピードで走っていたエンジンがへこたれてくると空を見上げる余裕ができるんだな。そうするとビルの支えを飛び越えて空が落ちてくる。重苦しい空がさ。ぼくはそれに耐えられなかった」
「なにかあったんですね。嫌なことが」
「いや。特に嫌なことは何もない」
澤木の手がドリッパの上でらせんを描く。落とされた湯が挽かれた豆の間に浸透してドーム状に膨らむ。
「ぼくは東京でバンドをやってた。プロを目指してやってたんだけど、生活するためにプログラマみたいな仕事をしてたらそれはそれで面白くてね。そこそこプログラマをやりながらそこそこバンドをやってた。要は中途半端なわけだ。どっちもそれなりに上手にはできる。でもどっちも一流じゃあない。何もかも悪くない。だけどとびきり良くもない。その状態がいやになったんだね。ぼくは」
「それをとびきり良い状態にしようと思ったっていうことですか」
深雪にはいまいち、澤木が何もかも捨ててこんな田舎へ引っ越してくるほど何を嫌ったのかわからなかった。
「ん。そういうわけでもない。ぼくは要するにね。いろんなものから逃げたんだよ」
澤木はそう言いながら深雪の前にコーヒーを出した。深雪はそれを受け取りながら入口の扉の方を見る。
「まだ準備中になってると思いますよ」
「いいんだ。もうしばらく準備中にしておこう」
澤木はそう言って片目をつぶった。深雪はこんな風にマンガみたいにウィンクをする人を初めて見た気がした。
「ね、深雪ちゃん。器用貧乏って言葉、知ってる?」
「はい。器用なばっかりにどれも中途半端な状態になっちゃうっていうことですよね」
「そう。ぼくはまさにそれ。手先はいくらでも器用な方がいいけどね。生きるのに器用な人はだいたい器用貧乏になる。不器用な人から見ると羨ましいみたいだけどさ。うらやましがられることも含めて当人には辛いのよ」
澤木はコーヒーを一口すすった。
深雪の脳裏に麻夕のことが浮かんだ。なんでもできる麻夕。深雪は麻夕のことを羨んでいた。そこそこ止まりだと言っていた麻夕。一つのことを極める覚悟がないと言っていた麻夕。
「それでぼくはね」澤木が続ける。「なんとなく憧れてた北海道へ引っ越そうと思ったわけ。空のきれいなところへ。ってね。重苦しい空じゃなくて、広くて高い空が広がっているところ。そしてここへたどり着いた」
「それでコーヒー屋さんを始めたんですか?」
「いや。最初は家でプログラマをしてた。プログラマの仕事ならインターネット回線さえあればどこでもできるからさ。東京や札幌から仕事をもらってきてやってたんだ」
「じゃどうしてコーヒー屋さんを始めたんですか?」
「それはね。家でこの町と関係ないところから仕事を請けてやっているとさ、この町で生活はしてるけどこの町で生きてる感じはしないなって思ったんだ。もっとこの町で生きるにはどうしたらいいかなって考えて、それで若い人向けのコーヒー屋さんをやろうと考えたの」
「え? ここ若い人向けだったんですか?」
深雪は驚いて聞いた。初めて来てから今まで、この店を若い人向けだと思ったことは一度もなかった。重厚なカウンターテーブルが薄明かりに鈍く輝き、大掛かりなオーディオで低くジャズが流れていて、カウンターの向こうには模型メーカーのエプロンをした男がいる。時間と一緒に歩むことを放棄したようなこの空間は遠い過去から切り取られてきたみたいだった。若い人向けという要素は一つも見当たらなかった。
「若者向けに見えないかい? でも深雪ちゃんは若いよね。風音ちゃんも若い。若い人がちゃんと集まってきているだろう?」
そう言われてみるとそうだった。若い自分たちが気に入って通っている。それは若い人を惹きつける何か魅力があるからに違いなかった。
「いわゆる若者向けのカフェっぽいものはいくらでもあるからさ。若い人が体験したことのないような雰囲気をね。中学生や高校生でも来られるぐらいの値段でやるっていうコンセプトね、コンセプト」
澤木はいたずらな顔をしてみせた。
「でもこの店でわたしたち以外のお客さんに会うことってめったにありませんよね」
深雪は言ってしまってからちょっと失礼だったかもしれないと反省した。澤木は豪快に笑った。
「一応他のお客さんも来るよ。だけど正直に言うと一番よく来るのは風音ちゃん」澤木はそう言って深雪の顔を見つめ、「と、その仲間たち」と付け加えた。
「北町高生はけっこう来るよ。どちらかというと少々クセのある子が多いかな。うちへ来るのは、あまり学校で目立つタイプじゃないだろうなっていう子が多いね。それから風音ちゃんのお父さんも仕事が休みの時にはよく来るよ」
「風音のお父さんですか」
「ここね。実は店の裏の倉庫がラジコンのコースになっててさ。それは実はぼくの趣味なんだけどね。風音ちゃんのお父さんも趣味でラジコンをやってて、よくここへ来て走らせてるよ。飛ばすやつを持ってくることもある」
「ドローンっていうやつですよね」
「そう。北町高のドローン部の子も練習しに来たりするよ」
「へえ。なんかつながってるんだなあ」深雪は感心して言った。
「小さな町だからね」
澤木は微笑んだ。