鏡の中の別人

文字数 950文字

 鏡に映る自分に違和感を感じたのは、ある日突然のことだった。
 
 そこには醜い老婆の姿が映っていた。私は八十五歳。誰でも歳をとればこんな姿になる。当たり前のことである。
 でも違うのだ。私の脳裏に映る自分の姿は、五十年前の私だった。鏡に映る私と、脳裏に映る私。どちらが本当なのか? 私は混乱した。
 娘が訪ねて来た。あのボディコンに身を包み闊歩していた娘も、シワと白髪が目立つ風貌になっていた。ということは、息子も禿げ上がった老人になっているのだろうか?
 私はどうしてしまったのだろう? 五十年前のことが、現在のことのように感じられてならない。 
 
 あの頃に戻りたい……
 こんな姿はイヤだ!
 
 いくら叫んでも時の流れを戻すことはできない。鏡に映るこの姿に心も順応していくしかないのに……
 
 外へ出てみても、何かおかしい。脳裏に映る景色と目に映る景色が明らかに違うのだ。こんなきれいな町並みではなかったはずだ。
 隣のおばさんはどこだろう? ああ、私が八十五歳では、おばさんはゆうに百を超えてしまっていることになる。あ! 母は? 父は?
 私は家に戻り、恐る恐る白髪の娘に聞いた。またそんなことを言ってるの! 私は叱られ、委縮した。
 
 私は思った、頭の中だけタイムスリップしてしまったに違いない。私の中ではあの白髪の娘は中学生で、息子は小学生なのだ。そして私は、ソバージュヘアーで、デニムのミニスカートをはいている。
 午前中に掃除洗濯をすませ、近くのスーパーへ自転車で買い物へ。母と昼食を食べ、昼メロを見ながらひと休み。そして洗濯物を取り込む頃には子どもたちが帰ってきて、おやつを食べさせ、宿題を見てやり、そろそろ夕飯の支度に取りかかる。そして、主人も戻り、一家団らんの夕食……
 そうだ! 主人は? また娘に恐る恐る聞いてみる。もう娘は叱らなかった。ただ、悲しそうな目を向けただけで何も答えてくれない。
 
 医者も含めみんなが私を認知症だと言う。でも違うのだ。私は五十年前の自分を生きているだけなのだ。きっとその頃が一番幸せだったのだろう。
 
 今日も鏡の中には見知らぬ老女が映っている。でも私には見える、その向こうには、ソバージュ姿の私が幸せそうに微笑んでいる姿が。

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