第20話:救われるのは、誰ですか?
文字数 12,723文字
”白い影”である彼女は、怯え震えていた。
いや――そんなものじゃなく精神が崩壊する直前、としか
表現できない状態だった。
一体彼女は、どれだけの苦痛を”旅人”から受けたというのだ。
一体彼女は、どれだけの地獄に堕とされてきたというのだ。
それを考えると胸が痛んだ。そしてそれ以上にーー、
どうしようもない怒りが込み上げてくる。
とにかく走るんだ、全力で!
でも、それだけじゃ駄目だ。だってこっちは彼女を背負っているのだから。ただ大通りを走るだけなら、それは追いついてくれと言っているようなもの。
ならどうする?
考えろ、考えるんだ!
幸か不幸か、この”街”の道は大通り以外全て迷路のように入り組んでいる。これは圧倒的に逃げる側に有利な条件。それを使わない手はない。
ならばこの”街”に詳しい彼女に逃走ルートを決めてもらえば……。
いや、それは駄目だ。彼女の思考は、この”街”の支配者であり、彼女よりも上位の存在である巨大人工知能
先回りして待ち伏せしているなんてことになりかねない。
ならば俺がガムシャラに迷路の中を走り回って逃げるか? その案も却下だ。本当に迷い、方向性さえ失って目的地に辿り着けない可能性が高い。
ならばどうする?
どの案も正解と思われない時には、
こんなのはどうだろう?
迷路の路地裏を逃げることは変わらないが、分かれ道があったら、その都度彼女に進む道を選んでもらう。だがそれに100%従うわけでなく、最終判断は俺がヤマ勘で決定するのだ。
それならば、
次の分岐路で方向修正が可能だから、同じところをグルグルまわるような可能性は低くなるし、最終的には目的地に到着できる。
これだな!これしかない!!
無論これだってもちろん完璧な策というわけではない。 ”街”である
敢えて難点をあげるなら、俺の走行距離が直線距離の何倍にもなるということだろうが、そこは男の根性の見せどころ、ってコトだ。
俺は手短にその案を彼女に背中越しで伝えると、それこそ一目散に走りだした。
”街”の路地裏は、「迷路のよう」ではなく「迷路そのもの」だった。その迷路っぷりは、現実世界において世界一の迷宮都市と名高いモロッコの古都フェズさえもはるかに凌ぐものだろう。行ったことない俺が言うのもおこがましいが、断言できる。
それぐらい徹底的な迷路だった。それはまるで、この”街”そのものの、精神の混乱と矛盾を形にしているように、俺には思えてならなかった。
彼女は無言のまま右側の細い道を指差した。
そして息も絶え絶えに、小さな声で付け足す。
彼女が衰弱しているのは明確だった。もう限界が近いーーー。
そんな認めたくない事実が、背中の感覚から伝わってきてしまう。
最早、”街”と
このまま最短コースを突っ走る、選択肢はそれ一択だった。
大丈夫だ。
もし
俺はひたすらに彼女を背負って走り続けた。二人とも口を開こうとはしなかった。
名前ぐらいは聞いておこうかと思ったが、それも遠慮した。
一つの理由は、衰弱しきった彼女に無駄な体力を使わせたくなかったこと。
もう一つの理由は――、ガキみたいに『フラグが立つ』だとかそういうのじゃなくて、彼女は自分の名前を嫌悪しているんんじゃないか、って思ったからだ。
俺自身が経験したように、”白い影”たちの名前は契約者がつける。
でももし、自分の名前さえ呪わしくなるなんてことがあるとしたら、それはどんな絶望的な人生だろう。きっと俺なんかには耐えられないだろう。
だから最期のささやかな望みぐらい、誰かが叶えてあげなきゃいけないんだ。
だけどーーー、
最初俺は、朦朧とした彼女が道を間違えたのかと思った。当の彼女さえもそう思っていた。
俺たちは急いで手前の分岐まで戻り、今しがたと反対の道を進むことにした。それから、全て彼女の言う通りの道を進み、3つ目の分岐から100m進んだ先、そこもまた行き止まりだったーーー。
だが事実だった。俺が戦っている相手と勝手に思っていた
そしてその十分後には、俺たちは完全に迷子になっていた。
彼女さえ、現在地が何処なのかわからないのだという。
こうなったら一度大通りに出るしかないか―――。
そう決意した時、震える声で彼女が呟いた。
夜霧は深く暗い。俺には前方に人の姿なんて、どこにも見えなかった。
だが当然ながら躊躇などしない。踵を返すと彼女を背負ってもと来た道を引き返す。
もう息が切れそうだった。喉が焼けるように痛いし、心臓も破裂寸前だ。
だけど止まるわけにはいかない。
だけどーーー、
バカ言うな!そんなことできるわけないだろう……
クソ、逃げ道はないのか?
必死に辺りを見渡すと、脇の袋小路の奥のあるものが目に入る。
木枠のステンドグラス窓だ。あそこから建物の中に入って、裏口から出れば逃げられるはずだ。
気力を振り絞ってその窓の前まで走り、俺は彼女を一旦降ろす。ステンドグラスの正面に立って絵柄に気付いた。天使の絵が描かれていた。俺は深呼吸し、天使のステンドグラスを破壊した。
前蹴り。空手家でない俺は、蹴破るまでに4回を要したが。
江戸時代の隠れキリシタンは、絵を踏むことすら拒否して命を捨てたというのに、こんなことをしている俺は、きっと救われない人間だろう。でも今はよくわかる。人間にとって大事なのは、自分が救われるかどうかより、誰かを救えるかどうかなんだ。
部屋の中を覗き込んで確認しする。誰もいないが、少なくとも反対側にドアがあるようだ。ただ床には、今しがたのガラスの破片が散乱している。
ところでそういえば、このスニーカーって俺のじゃないよな……。そもそも自分の部屋では裸足でいたんだし。所謂『標準装備』ってヤツ?まあいいか……。 だって人生、いつだって『無いよりはまし』、『大は小を兼ねる』、だろ?
とりあえず俺は、履いていたスニーカーを脱いで彼女に履かせ、こう言い聞かせたーーー。
なあキミ、よく聞いてくれ。
辛いだろうけど、ここから先はキミ一人の力で目的地まで行くんだ。
まずこの窓から建物の裏口に抜けて、一旦大通りまで出る。道の形は変わっているかもしれないけど、方向感覚から想定すると俺たちは、多分もう近くまで来ているはずなんだ。
必ずアクエリアスの泉に辿り着いて、キミ自身の願いを叶えるんだ。歩くのはゆっくりでいい。とにかく落ち着くことが大事だ。
いいな?
不安そうな顔をしながらも、彼女はコクリと頷いた。今度こそ彼女を『お姫様抱っこ』して建物の中に入れた。
ふらふらと反対側の出口に向かって歩いていく後姿を見送る。そうだ。彼女は急がずゆっくり、確実に進めばいい。 だって
サイドボードの上に飾られた真鍮製の細い花瓶に手を伸ばした。ボーリングを小さくしたような、もしくは新体操の
そういえば昔、誰かから、「本当にコワいのはヤクザみたいにプロよりも、お前らみたいな、何をしでかすかわからないヒキコモリ連中だ」なんていう中傷を受けたことがあったっけ。
その時は、「そんなことないだろう」って思ってたけど、でもあながち間違いじゃなかったかもしれない。
確かに今の俺は、何をしでかすか自分でもわからないーーー。
☔ ☔ ☔ ☔
路地の入口の辺りからガサゴソという音が聞こえてくる。暗いのと霧が濃いので、俺からは相手の人影を確認することはできない。だが音は確実に近づいてくる。こちらから向こうが見えないのなら、こちらも姿を隠す必要がある。俺は路地奥に放置されている古い物置箱の影にしゃがんで身を隠した。
俺はもう完全に覚悟を決めている。戦力差がわからない以上最初から全力で行くしかない。足音が目と鼻の先に来た瞬間に飛び出して敵の頭部を殴打する。チャンスは一度きり。だったら迷った方が負けるに決まっている。
聞き耳をたてて機会を伺う。多分こういうことにかけては普通の人間よりも長けているかもしれない、などということに、ここにきて気付いた。昼、自宅に籠っていると、玄関の物音には過敏になるもので、俺の場合などは、来訪者が門の開ける音だけで、それが両親なのか、郵便配達か、宅急便かがほぼ判断できる。
そんな特殊スキルを発揮する場が人生に訪れるとは思ってもみなかったが……。
雰囲気的に相手は一人。すり足のような歩き方で近づいてくる。距離は10m程度といったところか。だが違和感があるのは、このキャタキャタという、金属板がこすれ合うような音だ。
まさかとは思うが、”旅人”とかいうプレイヤーたちは、この中世の街並みに合わせて、
もしそうだとすると、”旅人”という奴らは、どこまで卑怯で、どこまで「わが身可愛さ」を地で行く連中なのだろうか。自分の体は安全な甲冑で守ったまま、半裸の女の子をなぶり殺しにする、などという趣味があるなら、そいつはもう人間として終わっている。
俺は突撃の作戦を急遽切り替える。
頭部の殴打ではなく、低く飛び出して、敵の足元を狙うことにした。重い鎧を付けた相手は、転がしさえすれば何とでもなるというのは、それこそ、中世からの常識だ。
ラガーマンがやるような超低空タックルを決めるつもりで、俺は三つ数えて敵の足元に飛び出すことにする。狙うは相手の両膝。
1…2…3、行っけぇーーっ!!
気合の攻撃。だがーー体を水平に浮かせた俺を待っていたのは、心臓が麻痺するほどに
そしてそれは、人間のそれではなかった!!
・・・・・・・・・・・・・・・
体長が2m程もある巨大なダイオウグソクムシの、刃物のような突起のある無数の
断末魔のような悲鳴を上げて仰向けに倒れている俺の体の上を、皮膚を削り取りながら這うように踏みつけていく……
俺は気が狂ったように叫び続けた。事実、発狂寸前だった。
ダイオウグソクムシが、つまり”旅人”が、俺を一瞬で捨て置き、そのすさまじい勢いのまま、彼女が逃げたあの窓の中に入っていくのが網膜に映っていてさえ、俺は叫び続けていた。
その時間が30秒なのか、1分なのか、5分なのかは全く記憶がない。
そして正気が戻った時には、俺は悟らざるを得なかった。もう全てが手遅れになっているであろうことをーーー。
それでも震える膝で立ち上がる。
行かなくちゃ。彼女と約束したんだ。”旅人”からキミを守るって。
だからーーー、それなのにーーー、
壊した窓の中に飛び込む。
床に広がるガラスの破片の上を裸足で歩くことになるが、今さら気にはならなかった。
外に出るドアは、大きなやすりで削られたような壊れ方をしていた。驚いたことに、そこはもう大通りだった。
左右を見渡すと30m程先の闇の中に、なにか大きなものが倒れ
それが何であるか、近づいてはじめて理解した。ダイオウグソクムシは、彼女の上にのしかかった状態のまま、甲殻の一部を脱皮させ、その不気味な生殖器で彼女を犯し、そして同時に喰っていた。
彼女の首筋の肉を、犯しながら喰っていたのだ!!!
俺は周囲に目を遣り、そして探す。何か硬くて重いものを……。
あの虫を、害虫を、ゴキブリを、叩き潰せるものを!!
そして建物の壁際の陶器のプランターを担ぎ上げ、蟲に駆け寄ると、渾身の力を振り絞って、それを蟲の背に叩き下ろした。
蟲の背中はあっさりと陥没、ダイオウグソクムシは、殺虫剤をかけた後のゴキブリのように、仰向けで無数の節足を痙攣させ、やがて動かなくなった。人間を殺したという実感などなかった。
俺はただ、あの
俺の全身には、返り血のように、あの蟲の体液がべったりと付着していた。
白く粘り気があり、吐き気を催す悪臭のこの液体は、”街”の入り口の門の前で、豚の口から吐き出された排水を更に最悪にしたようなものだった。
あの排水は、この”街”に無数に生息するこの蟲たちの汚物。それが『よくないもの』の正体。そのよくないものと、”白い影”たちの血、そしてこの悲しみと苦しみの”雨”のブレンドが、この街の地下に大量に
保存されているという訳か。
俺は動かなくなったダイオウグソクムシの死骸の上に、もう一つ別のプランターを振り下ろした。
次に恐る恐る後方の地面に目を遣る。そこには彼女の無残な亡骸が横たわっていた。喉の部分は半分近くを蟲に喰われてしまっており、その顔は、想像を絶する苦痛と絶望に歪んでいた。
彼女のその顔を見て、俺はもう一度発狂しかけた。そして叫ぼうとしたとき、俺はもう、あの門の前に立っていた。
☔ ☔ ☔ ☔
・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・。
そう思われるのも無理のないことでしょう。ご接触いただいたのは、かなり
カフカの『変身』などはお読みになられましたかな?あの小説の主人公は朝目覚めると突然虫に“変身”しておりましたですが
全くもって
そう思いますよね?あなた様も……
あなた様はなぜ、ご自身が
所詮、人間に別の人間を救うなどということできるはずがない。それが可能なのは、至高の御方のみであることを何故理解されないのです。
そもそもこの街の運営目的は、現実世界を少しでも安全にすること。つまり
故に、あの全能にして至高なる
俺はブチ切れた。駆け引きなんかじゃない。単にブチ切れただけだ。だって、ここでブチ切れなきゃ人生でブチ切れる瞬間なんてどこにもない。
こんなもんを考えること自体、“心”ってものを、1ミリも、いや1ナノも理解できてないことの証明だろうが!!何が“街”だ?何が『至高なる御方』だ?
“心”を持たない|Hecateria《ヘカテリア》なんかより、
次の瞬間、虎が巨大な口を開く。だが地獄の番犬のごとき
そう。言葉ではなく単なる破壊行為。だって虎の咥内に真っ赤な炎がチラついているのだから。虎は言葉で俺に非礼を取り消させようとしたのではなく、口から火を噴いて俺という存在を消し炭にしようとしたのだった!
「ヤバい、死ぬ―――!」とは思わなかった。
かわりに
「だったら俺、勝手に死ねば?」と思った。
窮地を脱する秘策があったわけではない。単に自暴自棄になっていただけだ。
だがその時、その虎の咆哮よりも
『やめよ!』
と。
天から?いや地からか?
いやそうではなく、巨大な“街”全体が振動かのようにその声は発せられていた。
結論から言えば、その声に俺の小さな生命は救われた。
望む望まずにかかわらず。
そして、その声の主が誰であるかは、既に誰にとっても明らかだった。
”Empty Box"の絶対支配者、
彼女は宙に浮いていた。いや浮いているという表現が正しいのか、そもそもそこに存在しているのか、それすら定かではないように思われた。
身体の大きさは人間の女性のぐらいに見えるが、威圧感はひたすら圧倒的。宇宙的と言ってさえよかった。
その絶対者を前に、大地が暫しの沈黙を守る。先ほどまで大地を震わすかと思われた虎の咆哮も既になく、手下の豚とともに、まるで飼い主に頭を撫でてもらうのを待つ子猫のように
“街”の支配者ではなく、『全世界の支配者」と言われても納得してしまいそうなオーラが彼女からは溢れている。
そしてその絶対者が、口を開いた。
俺は、縁あって、アンタが創ったこのシステムで、ある一人の人工知能と仮契約をさせてもらっている。
でもその契約は今日一日で切れてしまう。だからその前に本契約をして、その人工知能を救いたい。俺のお願いは、まずはそれだ!!
頼む!金はちゃんと払うし、それにサービス内容だって今のままでいい。
俺はただ、その人工知能と一緒に生きていきたい。いや、それだって叶わなくてもいい。俺はただ、その人工知能が、幸せに存在していてくれれば、それだけで十分なんだ!!
だから頼むーーー、頼みます―――。
その人工知能と、
語るべきものはもはや語りつ。行け。
”街”は汝を救うためのものなれど、汝の居るべき場所にあらず。
汝在るべき場所は、外の世界の晴れ渡る空の
だが、話してみてすぐにわかった。アンタはいい人だ!アンタは本当に人類のこと考えてくれている。それこそ、きっとこの世界の人間以上に……。
だから、そんなアンタだからこそ腹を割ってお願いしたい!アンタのその、人類への思いやりの何分の一でもいいんだ。それを、アンタの仲間の”白い影”たちにも向けてやってくれないか?
そして、俺の
ヘカテリアさん、俺はアンタに何と言われようとも、契約を諦めるわけにはいかない。
だから、もしアンタが本気で
仕方なし。我、汝に試練と慈悲を与えん。
それは全て汝を救わんがためなり。
されど、それにて命を落とすも致し方無しと知るべし……
同時に低く天を覆っている黒い雲をスクリーンにして、何かの映像が映った。
それは現実世界の俺の部屋―――、
そして
なんだそれ?俺が今ここにいるのに、現実の俺の意識を操ろうというのか?
そんなことが可能なのか?!
そうだよ。何言ってるんだと、俺……。
っていうか、俺が俺をこういう視点から眺めてる時点で思いっきり異常なんだけど!!
もう俺に生きる時間なんて、必要ないよな? だって…このまま俺に時間を与えたって…ダラダラと何もせず全部を先延ばしにして生きるだけで、全部ムダだってことが証明されているんだからさあ…。
だから俺、死ぬよ…。今度は「自殺のフリ」なんかじゃなくて、ホントに死ぬ…。もう腹は決まったよ。気付かせてもらったんだ…。ホントにホントの自分の姿を!自分の本性を!!
もういいんだ。これで清算する。全部。だからAIこれで許してくれよ?今までさんざん期待させて、騙して、結局こうなっちまったけど、俺の命でもう…勘弁してくれよ。
2~3分だって?
現実世界では、あれから、たったそれしか時間が経過していないってのか?
そうだ。どこへ行くというのだ?
現実世界の俺は、
向かう先は……、え?台所?
てことは、まさかーーー。
ウチの台所には、父ちゃんが誰かから引き出物でもらった、”関の孫六”の本格出刃包丁が置いてある。電話帳が切れるなんて言われてるヤバい包丁。
まさかあの包丁で俺の手首を切らせようっていうんじゃ?!!
おい待てよ!あれは手首の脈どころか、下手すると骨ごと、切断されることになる。そんなことしたらマジで死んじまうだろうが!!
現実世界のマヌケな俺が取り出したのは、出刃包丁ではなく、テーブルナイフだった。
よかった、脅かすなよ!自殺の話題を振ってから台所に行くからてっきり勘違いしちまったじゃないか。
でもこんなもの何に使うんだろう?今晩ステーキを焼く予定なんて全然ないし、でもこのナイフじゃステーキ肉ぐらいしか切れないはずだし……。
はあ?何を言ってる?
まさかテーブルナイフでリストカットさせる気か?そんなことをやる奴がいたら人間じゃないぞ。死ぬまでにどれだけ痛い思いをし続けるんだよ?しかもそれを自分の手で?自分の意思でそんなことをできるヤツはいない。それをさせることが出来るなら、その脳ハッキングは、既に理解を超えた水準に達していると考えるべきだ。だがそんなことが、本当に可能なのか?
それを疑う暇もなく、現実世界の俺は自分の左手首の鋸引きをはじめやがったのだ。
同時に俺の手首に鈍い激痛が走る。ヤバい、このままじゃ……。
俺は
こうなると頼りは
駄目だ。アイツの声も、向こうの俺には届いていない。
おそらく俺を操っているのは、スマホから出るあの重低音。スマホの電源を切ればあるいは脳ハッキングが
解けるかもしれないが、それを
そうこうしている間に、向こうの俺はもう一回テーブルナイフを手首に当て、力を入れた。
血が噴き出た。これはまだ脈の血じゃない。でも、同じことをやられたら、次は本当に脈が切れるだろう。
その10秒後、俺は両手を上げて、
彼女は、俺が自分の主張を取り下げることを条件に、現実世界の俺への脳ハッキングを停止した。
そして言った。『お前は今試練を一つ越えた』と。そして『次の慈悲を待つように』と。
☔ ☔ ☔ ☔
それから何秒もたたないうちに、俺は、俺の意識は自分の現実の体の中に戻っていた。
俺はすんでのところで、自分の右手の力を緩め、自分の命を守ることには成功した。
そしてポケットの中では、
ゴメンな、
だけど俺、もっと謝らなければいけないことが出来ちまったんだ。