第9話 <心が和らいだ夜>

文字数 1,645文字

その日の晩、
居間の掃き出し窓に座りビールを飲んでいたら、
お風呂上がりの賢斗がキッチンの冷蔵庫に
麦茶を取りに来るのが見えた。

「ねぇ、ちょっと付き合わない?」

私が声をかけると、賢斗は黙ってこちらに歩いてきた。

「蚊取り線香…… ばあちゃんちの匂い」

「ばあちゃんって! 失礼な!!」

蚊取り線香のブタさんをどけて、床をぽんぽんと叩き、
ここに座るように促した。

「ここは少し慣れた?」

「うん、まぁ」

「そう」

しばらく黙って二人枝豆をつまんだ。

「ねぇ、まだ死にたいとか思ってる?」

私は尋ねた。

「今は保留」

「あっそ」

とりあえず切迫した状況は脱したか。

「私、あんたには一生会うことはないと思ってたし、
会いたくもなかったけど、こうやって実際目の前にしてみると、
意外と話せるものだなって不思議に思う」

ビールの酔いのせいか、そんな事を口走った。

「あのさぁ」

賢斗が口を開いた。

「親父とは何歳から付き合ってたの?」

「17、今のあんたくらいの頃よ」

「そっか、結構付き合い長かったんだな」

「8年かな」

そして賢斗は黙り込んでしまった。

「私たちがこうなったのは、あんたのせいじゃない
だから気に病むことはない」

そう言ってビールを一口飲んだ。

「こうなったのはあんたの親も、
あたしもダメダメだったから」

「自分のことダメだって言う大人、初めて見た」

賢斗は目を丸くして言った。

「人の親になろうが、
店の店長だろうが完璧な大人なんかいないよ。
子供から見たら完璧に見えるの?」

「いや、そうでもないけど。
でも大人ってごもっともな事ばっかり言って、
そう簡単じゃない事だってたくさんあんのに、
子供の事なんか全然わかんない人種なのかと思ってた」

「わかんなくないよー、ただ忘れちゃってるのかも。
親っていう立場になると責任ができるからさ、
ダメな部分を子供に見せちゃいけないって必死でやってるうちに、
昔の自分がどんなだったか忘れちゃう。

真面目な人ほど自分が生み出してしまった子供は、
世の中に迷惑かけないように送り出さなきゃいけないって思うしね。
でも世の中に迷惑かけない人間なんていないんだよ」

賢斗は黙って私の話を聞いていた。

「むやみに人を傷つけるような事をするのは良くないけど、
自分を貫くとね、時に人に迷惑がかかる時もある。
どう取るかは人それぞれだけど、
常に迷惑かからないように小さく生きてたらつまんないしね。
まぁ私は他人だからいくらでも好き勝手な事言えるけどね!」

「ううん
世の中にこういう大人もいるんだって、何だか面白い」

「そう?」

私はふふっと笑った。

「でもね賢斗くん、ひとつだけ言っておく」

私は賢斗の方を向いた。

「迷惑かけてもいいから、強くなりなさい。
今すぐじゃなくていいから。
それにはいろんな世界を見ていろんな人と会って、
自分の武器になるものを見つけなさい。
武器は自分のことも自分の大事な人の事も、
良い方向に導いてくれるから」

「武器?」

「強みって事」

「強み……」

そうつぶやいてまだ黙り込んでしまった。

「強みってさ、特技とか肩書きとか表面的な事だけじゃなくてさ、
例えば優しさとか根気強さとか、人それぞれ持ち合わせた
長所や個性も立派な武器なんだよ」

「長所、個性……」

賢斗は確認するようにつぶやいた。

「私ね、賢斗くんの武器すでにいくつか見つけてるんだ」

「え?」

「洗濯し終わった服、きれいにたたんでるよね。
あと、脱いだ靴もちゃんと揃えてある。
きちんとした子なんだなって思ったよ」

そう言って笑った。

「そういう所さ、自分で見つけてもいいし、
いろんな人が気がついて教えてくれるタイミングがあるからさ、
そういうのいっぱい集めるといいよ」

賢斗は黙って私の顔を見つめながら話を聞いていた。

「さ、明日も仕事だ! もう部屋に戻りなさい
あ、今度からコインランドリーじゃなくて
うちの洗濯機使っていいから」

そう言うと

「ありがとう」

と立ち上がり、

「おやすみなさい」

と、穏やかな表情で部屋に上がって行った。

あれだけ自分の記憶から消したい存在だったのに……。

夏の夜の風は妙に心地が良かった。

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