下の巻
文字数 5,175文字
そうして、それから、どうなったか。
武士は消えた。
文字通り消えた。
弓道場から俺たちがわらわらと逃げ出した後、そこは一時無人になった。
その後、呼ばれた警察の人たちが、現場へ
しょんべん
誰一人、怪我はしなかった。通りすがりに武士に払いのけられた教師たちも、ぶっとばされてビビッただけで、特に怪我らしい怪我はなかった。
傷ついたのは、弓道部部長、しょんべん垂れ木下の名誉だけで、それは大多数の人間にとって、傷のうちにも入らないような、ザマァなことだった。
かくして事件は
警察には校長が
なにしろ学校内の監視カメラには、武士は写っていなかったのだ。俺たちは何だか分からない鎧武者の亡霊を見たということになった。
もしそうでなければ、これはちょっと大変な話だった。正当防衛と言えるだろうが、弓道部の生徒が弓矢で人を
無いなら無いほうがいい。うやむやなほうがいい。
校長はそう思ったようだった。
そして、渡辺さんは俺に恋をした。
鎧武者をやっつけた時の俺が、すごく格好良かったと言って。
優秀な先輩たちが、ビビッて立ちすくむ中、俺だけが鎧武者に矢を射かけ、渡辺さんを救った。
それが幻覚だったのか、怪奇現象だったのかは分からないけど、とにかく俺が格好良かったことだけは、本当だものということで。
渡辺さんは事件の後すぐに、
渡辺さんは俺のためにお弁当を作ってきてくれていた。
でも俺は二人で仲良くお弁当をつつきながら、上の空だった。
ほんとだったら舞い上がるくらい
それでも俺は毎日、学校には行った。土曜日には弓道部の自主練習にも参加した。そこでも渡辺さんは、俺と会うと
俺の弓は相変わらず大して上手くはなく、時々、
でも、もう俺には、弓を練習する動機がない。
渡辺さん目当てで弓道部に入ったんだ。それが本音だ。彼女を落とせれば、弓なんかどうでもいい。
ただずっと気になるのは、あの武士がどこへ消えたのかということだ。
あれは本当に幽霊とか、そういうものだったのか。よくある学校の怪談か。
たまたまそれがキッカケで、ラブラブになっただけで、俺は特に悩みもせず、渡辺さんを我が物とすれば良かったのか。
食べ終わるといつも、
その震える
でも、それを思うといつも何かが俺の前に立ちはだかった。
やあやあ我こそは○○○○○、
あの鎧武者だ。
俺って本当にこのまま渡辺さんとラブラブでいいの。ハッピーエンドでいいの。あの武士は今頃どこにいて、どうなったの。俺はこのままでいいのか。
このままで、いいわけないよなと、
いざ
俺は昼を待たずに、二時間目の終わる休み時間、渡辺さんをいつもの中庭に呼び出して、なにもかも
あれは茶番だった件。
コンビニで遭遇した武士が、芝居を打とうと計画して、渡辺さんが俺を好きになるよう、大暴れして俺にやっつけられた。俺にもあいつが芝居してんのか、それとも本気で暴れてるのか分からず、必死顔だっただろうけど、でもそういう背景がとにかくあった件。
それから、あの時の矢は、俺が狙ったところとは全然違うところに当たっていた件。
たまたま大当たりだったけど、それは俺にとってはラッキーじゃなかった。
後悔してる。本物だか亡霊だかわかんないけど、俺はあいつを殺しちゃったかな。
渡辺さんは、あの時の俺が格好良かったって言うけど、実はそういうことなんだよ。
別に全然格好よくないよね。
もしも俺があの時あの場に、なんの事情もわからずに居て、そこへ武士が乱入してきてたら、俺だってしょんべん
木下先輩、あれから全然、部活に来ないけど、大丈夫かな。
俺、渡辺さんにも怖い思いをさせて、木下先輩にも
毎日、渡辺さんにお弁当作ってきてもらう資格なんかないよ。
俺がそう言うと、渡辺さんは、少しの間、ぽかんとして、それからじわっと泣いた。
大きな目に、大粒の涙が光って、渡辺さんは
そう言って、渡辺さんはおいおい泣いて、三時間目の始業のチャイムが鳴っても、まだ泣いていて、俺たちは次の授業をやむをえずぶっちした。そういう意識もなかった。
ぽろぽろ泣きながら、渡辺さんは俺に
ふられるんだと思ったのかな。そんな訳ないのにな。
渡辺さんみたいな可愛い子を、俺が振るわけないじゃん。
ずっと見てた。中学の頃から。可愛いなって。初めはそうでも、真剣な顔で弓引いてる渡辺さんの、まっすぐな目が、かっこいいなって。
あんな素敵な女の子と、俺も話したいな。俺のこと、渡辺さんが見てくれたら。ひと目でも。いや、ほんとはずっと見ててくれたらいいなって、毎日思ってた。
好きだった、ずっと。何でかわからないけど、君のことが。
そんな俺が、君を振るわけないじゃん。そんな勇気なんかない。
ないくせに、なんで俺、こんな話したんだろ。馬鹿だな。本当は、ずっと好きでいてもらいたいんだよ。だから君に嘘なんか、つきたくなかったんだ。
俺はぶんぶん首を振った。
そして俺たちはなぜか、どちらからともなく、両手で固く握手をした。抱き合うにはまだちょっと、恥ずかしかったからだ。
というわけで。
よかった。よかった。
俺と渡辺さんは付き合うことになった。昼休みに中庭で手作りのお弁当を食べ、部活では並んで弓を引き、一緒に下校して、時々デートもする。そんなごく普通の仲むつまじい高校生カップルだ。
それでハッピーエンド、と言いたいところだが。
で、結局、あの武士はどうなったのか。死んだのか消えたのか。ものすごく気になる。俺は気になった。気になって気になってしょうがなかった。
いったい、あいつは、なんだったんだ?
という、そんな俺の疑問は、渡辺さんがあっさりと解決してくれた。
武士の名前だ。あえて公表はしないが、それはとても有名な武士の名前だ。
渡辺さんも、その武士のことは知っていた。なぜならうちの高校の中庭に、その武士の銅像が建っているからだ。
と言っても、大してデカい像ではない。昔々、ずっと昔の先輩たちが、資金を出し合って
なんでそんなものの像を卒業生が金を出し合って建てたのかというと。
それはもちろん、「出る」からだろう。その武士が。
渡辺さんに教えられて、俺は初めてその像の存在を知り、慌てて行ってみた。
等身大の6分の1サイズくらいの銅像は、見覚えのある馬に乗っていて、鎧を着た胸と背中に、矢が当たったような跡が残っていた。
渡辺さんは、恐る恐るのように、その傷跡を指先でさわさわして、静かな声で言った。
銅像に話すというのは変なもんだが、俺は一応、念のため、春奈姫とうまくいったこと、矢を
それで銅像の武士が動き出したということは、特に無かった。
動くわけがない。銅像だからな。
まあ……その時は。
実際、動いたらしいのは、俺と渡辺さんが例のコンビニで、下校途中にガリガリ君ソーダ味を買い、仲良く一個を分け分けして食っていた時だった。
例の
俺と渡辺さんは激しくピクッとした。
あいつだ! 生きていたんだ! いや、死んでいるのか!? もともと死んでいるんだよな!?
でも無事だったんだ。よかった! 俺だよ、○○○○○、やっとまた会えた!
と、駆け寄っていこうと振り向いた俺が見たものは。
真っ赤な鎧を着た武士に、ガッツンガッツン
まさに一年前の俺を見るようだ。
どうにも
余計なお世話だ。
……余計なお世話か?
それはどうかな。
俺と渡辺さんは少なくとも、それでとてもハッピーになりました。
俺がつっこむと、渡辺さんはくすくす笑った。そして俺と、そっと腕を組んだ。
ちなみにもう、俺は渡辺さんを渡辺さんとは呼んでない。
特に用事はないけど、そう呼ぶと、渡辺さんは、なあに、と微笑んで俺を見た。
すごくすごく幸せだった。すごくすごく幸せ。
だからこれでハッピーエンドだ。
寄り添って歩く幸せ絶頂の俺たちの背後で、親切な鎧武者に連れ去られる気の毒で幸運な青少年の悲鳴が、どこまでもどこまでも