妖精の声を聞いたので

文字数 1,887文字

   
 小雨がぱらつく中、俺はケーキ屋の軒下に佇んでいた。
 入り口はガラス扉なので、中の店員からは丸見えだ。外は外で、駅前の大通りだから通行人も多い。(はた)から見れば、今の俺は雨宿り、あるいはボーッと休んでいるように思われるのだろうか。
 もしそうであるならば、俺としては好都合。実際は探偵仕事の真っ最中(さいちゅう)であり、向かいの喫茶店を密かに見張っているところなのだから。


 子供の頃に読んだ物語では、よく名探偵が活躍していた。決まって頭脳明晰であり、その卓越した推理力を駆使して、警察だけでは迷宮入りするような難事件を鮮やかに解決に導くのだ。
 そうした胸踊る探偵譚を読むたびに「大人になったら僕も私立探偵になる!」と言っていたほどだが……。
 ある意味では、夢がかなったのだろうか。今の俺は、街の小さな探偵事務所の職員として働いていた。しかしその仕事内容は、憧れていたものとは大きく違う。
 聞き込みや張り込み、尾行といった地道な調査だ。物語の探偵はそれらを全て警察に任せて、集まってきた証拠や証言から、自分は頭を使うだけで良かったのに……。
 しかも調査の対象自体が、探偵譚とはまるで別物。現実の探偵が調べるのは殺人や盗難みたいな刑事事件ではなく、浮気調査や素行調査など。個人のプライベートの、どうでもいい話ばかりだ。


 今日も俺は、朝からずっと一人の男を尾行。奥さんから浮気を疑われているサラリーマンだ。夕方の会社帰りに、部下の女性と二人で喫茶店に入ったのをようやく確認したところだった。

「気をつけて。あなた、気づかれてるわよ」
 突然、耳元で不思議な声が聞こえてくる。
 甘い響きの囁きだ。しかも遠い昔に聞き覚えがあるような、どこか懐かしい声だった。
 ハッとして振り返るが、その声の(ぬし)らしき者は見当たらない。俺の近くには誰もおらず、一番近いのが二軒先で同じように雨宿りしている学生か、あるいは前から来る通行人だが、そちらもまだ結構な距離があった。

「ダメよ! そんなことしてる場合じゃないでしょう? ほら!」
 再び間近から聞こえる声。
 何が「そんなことしてる場合じゃない」なのか一瞬わからなかったが、その答えはすぐに判明する。
 俺がキョロキョロと周りを見回していた間に、調査対象だった男が喫茶店から出てきて、俺の目前まで迫ってきていたのだ。
 彼は怒りの形相で、それをこちらに向けている。いや表情だけでなく、行動にも表していた。
「ずっと俺をつけ回していただろう!? いったい何が目的だ、この野郎!」
 と言いながら、殴りかかってきたのだ!


 パンチ一発でKO(ノックアウト)されて、俺はしばらくその場でノビていたらしい。
 意識を取り戻すと、もう雨は()んでいた。空は半分以上が青く、雲間から明るい日の光が差し込んでくるくらいだ。
 通行人は誰も「大丈夫ですか?」みたいに手を差し伸べてくれないから、自分一人で起き上がる。ちらりとケーキ屋の中を覗き込めば、俺と目を合わせないよう、店員はそっぽを向いていた。

「ああ、そうか……」
 殴られたショックではないだろうが、一つ思い出したことがあった。
 先ほどの不思議な声だ。「遠い昔に聞き覚えがあるような」と思ったものだが、あれは子供の頃に遊んでくれた妖精だ。それと全く同じ声だったのだ。
 純粋無垢な子供には妖精が見えるけれど、大人には見えない……みたいな現象だろうか。あるいは、単なるイマジナリーフレンドに過ぎなかったのか。
 いずれにせよ、俺には「子供の頃に何度も妖精と遊んだ」という記憶があるのだ。
 俺が夜一人で部屋にいる時、窓をトントンと叩いて、遊びに来てくれた妖精。背中に四枚の羽を生やし、身長は大人の手のひらほど、金髪で緑色の服を着た女の子だった。
「そういえば、ちょうど妖精が見えていた頃だったな。探偵譚を読んでワクワクして、探偵になりたいと思い始めたのも……」

 大人だからもう妖精は見えないにしても、それでも俺の中には、少しは子供の純真さが残っていたのかもしれない。その純真さがたまたま一時的に強くなって、久しぶりに声くらいは聞くことが出来たのかもしれない。
 あるいは、単なる幻聴だったのか。幻聴が聞こえるほど、今の仕事に疲れていたのか。
 いずれにせよ……。
「妖精の声が聞こえたのは、いいきっかけかもしれん。純粋だった子供心に戻って……は完全には無理だとしても、少しはそれに近いことやってみるか」
 (なか)ば自分に言い聞かせるように呟きながら、立ち上がった俺は歩き出す。
 探偵事務所は辞めて、もっと昔の憧れに合った仕事を探そう、と思いながら。



(「妖精の声を聞いたので」完)
   
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