3.果樹園の、その向こう

文字数 2,015文字

ボンベイ・サファイアの瓶の青って綺麗ですよね

タンカレーの緑も素敵ですが。私はお酒がほとんど全く飲めないくせに、留学生時代、バーやレストランでアルバイトをしていたため、洋酒やワインの名前や味を暗記していたことがあります。(仕事で必要なくなったら、直ぐに忘れてしまいました。)シンガポールの空は、ああいう青ではなくて、いつも薄っすら雲がかっているような青灰色です。陽光が肌を焼く、ということが無い代わりに、じっとりと暑いのですが、海風が和らげてくれています。

シンガポールにやってきて一ヶ月ほどで、私はにっちもさっちもいかない問題に直面しました。手持ち資金が尽きてきたのです。家賃に携帯電話購入費、新しい生活を始める上で必要なものを買い揃えたら、三ヶ月分のつもりで用意した金額がとても保ちそうにありません。日本の口座にはなけなしの貯金が有るのですが、学費用にとっておかなくてはなりません。お金の管理がおざなりだった、当時の私の見通しが甘かったのです。仕事しなければ、早速食いつめてしまう…学生ビザは、週に二十時間までの労働が許可されています。しかし、捨てる神あれば、拾う神あり!一人教室で呆然としていた私に、声を掛けてくれた日本人の先輩がいました。「私の働いてるお店においでよ」、この全くと言っていいほどアルバイト経験の無い、しかも接客業には恐ろしく向かない私に、アルバイトを紹介してくれたのでした。それから今までも、海外で働く日本人女性の差し伸べてくれる手で、ここまで生き延びてきたようなものです。

貧乏私費留学生の本分を忘れてはいけません。何としても食い繋ぎ、ビザを確保し、できるだけ長く海外にいたい。日本円を替える時だって、一円でも一銭でもレートの良い両替店で替えたい。そんな私が辿り着いたのが、ラッキー・プラザでした。海外に長期滞在している方々には、それぞれ御用達の両替店があると思います。オーチャード・ロードはその名の通り、植民地時代にプランテーションがあった場所だそうです。現在は、高級ブランド店やお洒落なショッピングモールが並ぶ通りになっているのですが、その影に若干窮屈そうに建っている老舗のデパート、それがラッキー・プラザです。内部は間口の小さな電器、衣料、雑貨、安売り店がぎっしりと詰まっている感じ。勿論ホーカー(フードコート)も有ります。ちょっと秋葉原の電器街っぽい。しかし私の目的は両替です。

半地下一階エレベーター近くのあのお店だけに毎度通っていたのですが、ある週末の午前中ふと、上の階に行ってみようと思い立ちました。というのも、アルバイト先のお客さんが、「ラッキー・プラザの上には、フィリピン雑貨や食料品のお店が沢山あるよ、それにね…」と言っていたことを思い出したからです。6階か7階だったと記憶していますが、エレベーターで上がっていくと、まだお昼時でもないので比較的静かだった他の階とは明らかに違う、大勢の話し声が聞こえてきました。

ここ、どこ?

聞き慣れない言葉でお喋りする、さまざまな年代の女性たち。「ミサの帰りに、皆来るんだよ。同郷の仲間と買い物したり、お茶したり」。彼女たちはフィリピンからやってきている女傭、家庭内家事労働者、つまりメイドさんたちなのでした。シンガポールは共働き家庭が多く、余裕の有る家ではメイドや保母を雇うことが一般的です。街中でもメイド斡旋の広告をよく見かけますし、オーチャードロードから一つ道を入ったテナントビルには、代理店が軒を連ねています。私は家事を専門業者にお願いすることについて、全く異存は有りません。各家庭の事情で決めればよいことだと思います。が、日本とあまりにも違う環境に驚きました。

実は、こういう光景は初めてではないのです。秋葉原からの総武線各駅停車終電で、“どこかの”車両に乗ると、周りじゅうが中国語になるという経験をしたことはありませんか?同じ職場なのか、ご近所仲間なのか、当時の私にはお喋りを聞き取ることはできません。Jさん(夫氏)の故郷、台湾の地方都市で休日の昼下がり、寺院前の広場に集まって和やかにお喋りしているのは、ベトナム人のお手伝いさんたちです。彼らにとっては憩いの時間なのでしょうが、私などは日常から一歩逸れたらいきなり異文化に囲まれて、わくわくしてしまいます。日本はとても均一的な社会だと思いますが、シンガポールは多様な価値観が熱帯の森の木々のように折り重なった、不思議なところです。

アルバイトは夜の九時からです。眠い頭でカウンター後ろに並ぶ、色とりどりのボトルを見ながら思う。フィリピンの空は、あんなサファイア色かもしれない。働き者の彼女たちは、どうしてシンガポールに来ることになって、この後どこへ行くのかしら。大変なことが多いだろうけど、皆にいつも、ささやかでも、友人や家族との幸せな時間が有りますように。私も働きます!(勉強しに来たはずでは…)
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