魔物の近くではできるだけ静かにしよう

文字数 2,840文字

 大介は歩き始めて2時間で自分の体力が尽きかけているのを感じた。
 そこで、前を行くメルダに声をかけた。
「あのおメルダさん、自分疲れたのでありますが」
 ほとんど間髪入れずに、メルダがすごい形相で振り返った。
「ざけんなよ! さっき歩き始めたばっかだろ!」
 大介がぶるぶると首を振りながら答えた。
「いえいえいえ、充分歩いたであります。五分でいいので休憩させてください」
 メルダはちっと舌打ちしたが、振り向いたまま立ち止まり言った。
「じゃあ、五分な。そのあとは、飯食えそうな場所までは止まらねえぞ、野狼族の巣の近くなんだよこの先」
 たぶん魔物の一種であろうが、無論大介にそれが何者かはわからない。でも、危険なんだろうなあ、くらいはわかった。
「で、で、では、休んで回復したら一気に抜けましょうです」

 地面に腰を下ろした三人は、カバンチの持っていた水筒を回し飲み水分を補給した。のだが、その順番が、カバンチからメルダ、そして大介だったものだから…

「どうしたガーディアンさんよ、顔が赤いぞ。水いらねえのか?」
 メルダが水筒を持ったまま飲み口の前で、ずっと口をすぼめ固まっている大介に言った。
 この時、大介の頭の中にあったのはただ一つ。
 間接キッス!
 生まれて初めての女性との関節キッス、いやひょっとしたら母親との間に幼児の頃あったかもしれないから、他人である女子との初間接キッスが目の前にある。
 その現実に思考と体が同時に停止したのである。
 悲しいかな自宅警備員田中大介十八年の生涯で、異性との交際歴は0日。中学校の学祭パフォーマンスダンス以来、異性の手を握った記憶は皆無であった。

「飲まねえならカバンチに返せよ、だけど飲まないとこの先でばてるぞ。魔物襲って来た時全速で逃げられなかったら、もう一度天国行きだな」
 メルダに言われ、慌てて大介は答えた。
「いただくであります。メルダさん、この御恩は一生忘れないであります!」
 大介は水筒にぶちゅっと口をつけた。
「は? なに言ってるんだこいつ?」

 そりゃメルダたちには、間接キッスなどという考え方はないから、大介が何言ってるのか理解できるはずはなかった。
 水が口から喉に流れる感覚すら忘れるほど大介の気分は舞い上がっていた。
 あああああ、女子の飲んだ水筒に唇があああ。
 無論、その直前にカバンチが同じ水筒の水を飲んだことは、きれいすっぱり頭から消去されている。
 これぞまさしく天にも昇る気持ち…
 いや、既に一回大介は天に召されているのだけど。

 休憩が終わり立ち上がると、メルダは言った。
「草原が見えたら、なるべく静かに歩けよ。奴ら耳がいい」
「誰の耳が良いのでしょうか?」
 大介は聞く。
「野狼族に決まってるだろ。あいつら、獲物見つけると一目散に飛んでくる。たいして強くねえけど、素早いから厄介なんだ。もし複数で来られたら、あたい一人じゃ防げねえかもしれない、その時はとにかく全力で走って逃げな」
 ついに来た。異世界と言えば魔物との遭遇!
 大介は露骨に緊張に顔を強張らせた。
 だがその背中にカバンチが声をかけた。
「いや、でもこのルートならよほど大きな音を立てない限り、聞こえませんよ奴らでも」
 結構のんびりした口調なので、大介の緊張がいくらか和らいだ。
「なんだ、そうなのでありますか。では大丈夫ですね」
 この時大介は、自分がさんざん読んできたファンタジーの大原則を忘れていた。
 言霊フラグ。
 無論ものの見事に、彼はこの罠にはまるのだ。

 その瞬間は、さほど時を経ずに起きた。
 三人はもう草原地帯に入っていた。
 メルダの指示があったから、とにかく黙々と歩いていた大介であったが、なにしろ野山なんてろくに歩いた事がない。彼はある初歩的ミスを犯した。

「いてっ!」
 大介の声が響いた。
 草に隠れていた、土に埋まり頭だけ出ていた石に躓いたのだ。
 !
 メルダとカバンチが同時に目を丸くして大介を見た。
 しばらくつま先を押さえ立ち止まっていた大介だが、大きく深呼吸し二人に言った。
「つま先ぶつけただけであります。もう大丈夫」
 だが、大丈夫じゃなかった。

 メルダがいきなり長兼を鞘から引き抜き構えた。
「くそ! 来やがった!」
 カバンチが怯えた声で囁く。
「ガーディアンさん、逃げる支度を」
「え?」
 この状況が示すことはただ一つ。
 魔物が来る!

 悲鳴を上げそうになった大介に、メルダが鋭く言い放った。
「間違っても叫ぶなよ! 敵の数が増える! 駆けてくるのは一匹だけだ!」
 大介は自分の両手で口を覆い、こくこくと頷いた。

 まだこの時、大介は魔物の姿を確認していなかった。
 しかし、戦士メルダの目は的確に相手を見つけ睨み据えていた。
 彼女は、剣を腰だめにすると、一点を見据え大きく息を吐き、脇を締めた。
「若いオスだな。やりやすい」
 メルダの視線の先を、大介はやっと見る余裕ができた。

 真っ黒い毛に身体を覆われた、猪くらいの大きさのある犬のような、いやたぶん狼なのだろう姿の魔物が突進してきていた。
 その魔物がどの程度強いのか、大介には判らなかったが、ただ一つ判ったのは、それがまぎれもない魔物だという事。
 なにしろ、そいつには首が二個ついていた。

 抑え込んでいる両手の奥から、かすかに「ひいい」という声が漏れたが、その声を聞いた瞬間にカバンチが大介の肩を掴んでゆすった。
 多分、静かにしろという意味だろう。

 魔物が猛スピードで迫ってくる中、じっと動かず長剣を構えていたメルダが、いきなり動いた。
 大介に静かにしろと言っていただけに、自分も掛け声一つ出さず、いきなりに飛び出し、その手にした長い剣を魔物に向け突き出した。
 この動作を見た魔物は、瞬間的に横跳びの動作をした。
 その瞬間、誰にも見えなかったがメルダはほくそ笑んだ。

 かかったな。
 メルダは内心で叫び、まっすぐ突き立てるのかと見えた剣を、魔物がよけた方向に目にも見えぬ速さで振りぬいた。
 シュパッという音が聞こえたような気もするが、たぶんそれは目で見た情報に脳が捕捉した擬音だろう。
 いきなり二つある魔物の首が、同時にごろっと落ちた。
 一薙ぎで、メルダは魔物の双頭を切り落としたのだ。

 すごい!
 素直にそう思った大介は次の瞬間、メルダもカバンチも予想していなかった行動に出た。
 大介は盛大に拍手をしたのだ。
 その姿を見て、カバンチが言った。
「静かにしてって言ったのに!」
 そう、大介はやってしまったのだった。
 自分のミスに気付いたのは、メルダの鋭い視線が刺さった瞬間だった。
「あ…」
 拍手を止めた時は、もう手遅れだった。
 メルダが叫んだ。
「走れ馬鹿野郎ども!」
 危機は猛スピードで駆け寄りつつあった。
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