虚空の涙石

文字数 7,267文字

 借りたものを返さない奴は外道だ。つい数分前までそう思っていたのだが、どうやら僕もその外道であったらしい。僕は二階の部屋から、窓を突き破って外へ飛び出す。地震で窓ガラスが割れた際に、足を傷つけないようにと、自前の履き古した靴を部屋の中に持っていて、それは二つの意味で役に立っている。一つ。玄関から外へ出る必要がないこと。二つ。履き慣れた靴の方が、走りやすいということ。どちらも本来僕が想定していた意味とは違う。だけど現に役に立っている。窓ガラスを突き破り、目の前の屋根に降り立つ。同時に目一杯足に力を込めて、屋根を蹴った。屋根が飛ぶのではない。僕が飛ぶ。そうして別の屋根に飛び移り、さらに跳躍する。跳ぶ動作と着地の動作を同時にやるのはなかなか骨が折れるのだが、そんなことを考えた矢先には、足を踏み外して転落するだろう。現に今踏み外した。
 受け身の動作を取らなければならない。瞬時の判断を頼りに、一番最適な受け身の方法を採用し、その通りにする。PDCAサイクルとは違う。計画も評価も反省もあったもんじゃない。あるのはアクション、行動だけだ。もはや似てすらいない。なぜこんなことを連想したのか。とか思っているうちに、僕はゴミ袋の山に墜落した。すぐにその山を自ら転がって、地面にようやく足を着ける。ここからは少しややこしくなる。僕にとっても、追っ手にとっても。
 僕が返さなければならないのは、かれこれ借りてから十数年になるブレスレットだ。たかがブレスレットと思うだろうが、「たかが」で済まない代物なのだ。簡単に言えば貴重品。しかも借りたわけではない。相手から「預かってくれ」と頼まれたのだ。大金と引き替えに快諾したものの、いつまで経ってもそれを取りに来なかったので、一年前に質に入れた。預かった際にもらった金額よりも、さらに高く値が付いた。それから半年後、つまり今から半年前の出来事なのだが、突如として目の前にそいつが現れて「預かってもらったものを返してもらおう」と。もちろん、僕の手元にそれがあるはずもなく、その旨を告げた。するとそいつは途端に赤くなって僕を一発殴り、「半年待つ」と帰っていった。半年も待つ余裕があるのならこの十数年間は何だったんだと思ったものの、殴られた一発がとても痛かったので、仕方なくそのブレスレットを探している。
 半年経った今、僕がこうして逃げているということは、つまりそういうことなのだ。見つからない。半年間も、あの高級なブレスレットが、一つの質に留まり続けるわけがない。客にブレスレットを売ったその店主は既にこの世の人間ではなくなっているため、探す宛すらない。あんなブレスレットを売る方がどうかしている、というのは、催促にやってきて僕を殴ったその男も言っていた。半ば錯乱状態で。刃物を持っていなかったのが幸いと言うべきかもしれない。とはいえ、あの男の言い分は確かに頷けるものだった。売る奴は頭がおかしいと言われかねないくらいに、あのブレスレットは高価で貴重なものだったのだ。売る奴。僕もそうだが、頭がおかしいというその台詞は、願わくばあの質の店主にも言っておいてほしかった。弔いの言葉として、代わりに僕が言っておくとしよう。あんなものを売るなんて、お前は頭がおかしいのか。たぶんそのまま跳ね返ってくる。
 さて、今僕はまさに、ブレスレットの持ち主たる男に追われている。朝方に僕が起きると同時にインターホンが鳴って「半年経った」と一言告げられた。無論昨日も町中、そして隣の隣の隣の町にある質屋まで訪ねてブレスレットの在処を訊いて尋ねて徒労に終わった。だから疲れて帰って眠った。明日もまた探しに行こうと考えながら。ところがその明日と一緒に男がやってきてしまったので、慌てて僕は窓から飛び出したのである。スラム街のアパートの窓は脆い。濡布巾を投げつけようものなら亀裂が入る。濡布巾ではなく僕の体がぶつかったので、窓の状態は言うまでもない。ともあれこうして逃げてきている中で、体のどこにも違和感がないことを考えると、ガラス片が僕のどこかに刺さっているとか、ガラスで傷が付いたなどという事態にはならなかったらしい。安心した。いや安心してはいけないのだ。まだ追っ手が、あの男が追ってくる可能性は十分に考えられる。これからどうするかだ。今ビルの隙間にいる。目の前に道路があって、そこはかなり人通りが激しい。実際さっきゴミ袋の山に突入したときも、幾人かが僕の方を見ていた。すぐにどこかへ行ってしまったが、ここから出て行って普通に道路を走るのもなんとなく抵抗がある。男が待ち受けていたらどうしようかと考える。そうだそれだ。大事なことをすっかり考えていなかった。一番考えなくてはならないのは、男が道路を走ってここまで来る、ということだった。僕みたいに屋根の上を走るほどの運動神経がない奴なら、単純に道路を走ってここまでやってくることだろう。……尤も、そんな奴が僕を捕まえるなんてのは話にすらならないのだが。ともあれ僕は道路へ飛び出した。通行人数人とぶつかりそうになりながらも必死に避けて、僕の部屋があるアパートとは逆方向に走る走る走る。
 ふと後ろを見ると、やっぱりそこには歩行者がウヨウヨといて、男との判別が着かないので全く姿を確認できない。そもそも覚えているかも怪しいし、姿形が全く変わっている可能性だってあり得るのだ。確かに半年前の男のビジュアルは覚えているものの、殴られた反動からか、脳に記憶障害が起きているらしい。覚えていると言っていいものなのかどうか。多分、あの男に限っての話だろう。かろうじて記憶の中に残っているのは、黒いスーツと赤いネクタイだけだ。赤いネクタイ。ワインレッドのような渋みのある赤色ではなく、原色の赤色である。RGBのR百パーセント。頭にも顔にも靄がかかっている状態で、もちろんその靄を取り払うことはできないでいる。いっそどこかに頭をぶつけてでも、その靄を取り除いたほうがいいのだろうか。そうやって思考を巡らせているこの最中も、ちゃんと足は上手に動いていて、雑多の中を上手く掻い潜っている。今のところは人にぶつかっていないものの、この状態がいつまで続くかは自分でも見物である。もう間もなくこの人混みともおさらばである。とりあえず、僕は知り合いの店に行く。知り合いといっても、今まで一度か二度くらいしか顔を会わせたことはないし、その店は質屋ではない。なんというか、どんなに精密で難解な構造をしていても、本物と見分けのつかない、全く同じものを複製することができる店である。その知り合いは、この町においては神のような存在であるし、世界にも複数人しかいないほどの技術力を持っている人間である。
 ようやく雑多な通りを抜け出して、狭い道を走る。後ろを見るが、まだ男はやってきていない。影に照らされた薄暗い道を走りながら、ホームレスたちを横目に一直線にその店を目指す。そして見覚えのある道に出ることができれば、こっちのものだ。店を探す。あちこちを見て、看板を探す。あった。ようやくたどり着いた。「仇元工号」と豪快に書かれた木製の看板を掲げるその店にその知り合いはいる。ドアが開いているので、おそらくその店主はいる。
「仇元さん!」と、その知り合いの店主の名を呼ぶ。僕よりも年上だ。「なんだよ」と、半ば呻き声で返答が来る。「久しぶりです。助けてください」「久しぶりっつったって、年に数回会うか会わないかじゃねえか。まあ確かに言葉通りではあるけどな。そんなに間が空いていても俺が覚えてるくらい、お前が希有な人間であることに感謝するんだな。で、助けってのは?」「造ってほしい物があるんです」「物? まあ偽物造りなら現物さえあればお手の物よ」しまった。うっかりしていた。現物が無いからここを頼ってきたのだが、これでは意味がなかった。しかし、と僕は思う。「すいません、現物はありません。ただ、名前があります」「名前はどのブツにだってある。名前は問題にすらならねえよ」
「【真空の涙】」
「待て」と即反応。よし、期待していたとおりの反応だ。「なぜお前が持ってる」「今は持ってません」「失くしたのか」「はい」そして僕は殴られた。「お前アレがどういうものかわかって言ってんのか」「実際問題僕はよく知りません」もう一発。「二発で済んでよかったと思え。お前に預けたっていうその馬鹿野郎には十発くらいお見舞いしてやる」と、拳を鳴らす。「もうすぐ来ると思いますよ。僕がここに来るのを、追っ手は見ていたかも」「見てたかも、じゃねえんだ。ここに来てもらわないと困るんだよ」「でもそれは」「お前がアイツに何をされるかってのは問題じゃねえよ、俺はただ、ソイツを殴りたいだけだ。いいから連れてこい」と、掛け合いが終わると、僕は外に投げ出されるように追い出された。追っ手は来ない。多分見失っている。僕が建物の中に逃げ込んだから見失ったのだとすれば、とっくにここを通り過ぎている可能性が高い。何はともあれ、追っ手が来ないのであれば、僕はまたゆっくりと【真空の涙】を探すことに専念できる。
 と、思ったが、なんと追っ手は目の前に突然姿を現した。あちこちが汚れていて、服のあちこちが破れていて、顔のあちこちに傷がついている。一体どこを走り回ってきたんだ。何処を走って、どんな風に奔走したら、そこまでズタボロになる? まあちょうどいい。追っ手が凄く面倒であることに変わりはない。さっさと仇元のおっさんのところに連れて行ってやろう。ちょうど近くだし、まだ怒りは収まってないことだろう。目一杯殴ってもらって、スッキリしてもらおうじゃないか。「おう、こっち来いよ」と、僕は彼に言う。彼はだいぶ息が切れている。本当に、何処を走ってきたんだろうか。「早く渡せ」と追っ手。「まあそう言わずに」と、僕は宥める。「いいから返せ」「慌てんなって」「早く」「おい」「返せと言ってるんだ」話のわからない野郎だな。たまらず僕は殴った。仇元のおっさんが、最初に僕の右頬を殴った時のことを思い出しながら。僕は右頬を全力込めて殴った。追っ手はアッサリと吹っ飛んでしまい、僕は拍子抜けした。どうしてこんなにも弱い? こんなにも軽いものだったか? 以前にも追っ手と喧嘩をしたことがあって、その時は僕が僅差で負けたが、その時の強さが、今のこいつからは微塵も感じられない。何故だ? 理由は単純だ。追っ手が既に何者かと戦っていたからだ。だからこんなにもボロボロで、フラフラな足取りなのだろう。しかしボロボロの状態で僕に殴られてもすぐに立ち上がるあたり、強さが衰えたわけではなさそうだ。「お前、本当に大丈夫かよ」殴っておいてこんなことを言うのも変ではある。「誰にやられた?」と僕は訊く。やられたうちの一発は僕だ。「もうすぐ来るさ」と追っ手。もうすぐ、ということは。もうすぐ。振り幅のデカい言葉を使いやがって。秒単位で言ってくれないと困るんだよそういうのは。
 と。
 微かな物音が聞こえたので身を屈める。判断は正解だ。頭上で何かが空を切った。体勢を整える。男が一人いた。空を切ったのは金属バットだったのだが、どうして金属バットに釘が刺さるだろうか。釘バットは別段驚くほどの代物ではないが、それが木製でなく金属製となると、話は少し、というかかなり変わってくる。殺傷力が上がるだけでなく、ビジュアルの面でも驚異度が上がる。驚異度というか、恐怖が倍増するのだ。金属バットにどうやって釘を刺したのかという「謎」も、恐怖を演出するには十二分の効果だろう。僕は訊く。「誰だ?」すると「アンタに用はない」と一蹴された。現に金属釘バットの男は僕を一切見ていない。彼の視線の先にあるのは、もちろん、追っ手だ。「俺の縄張りを綺麗に荒らしてくれたからな、その御礼だよ」縄張りを綺麗に荒らす。なんて表現だ。逆の意味の言葉を持ち出して皮肉を誘うあたり、彼はよほど怒っているのだろう。もしかするとこれはチャンスかもしれない。追っ手を弱体化させ【真空の涙】を探す猶予が自動的に手に入る。このまま男に追っ手を任せることにしよう。
 ……いや。
 待ってくれ。「おい」と僕。「なんだよ」と男。その腕に着けてるやつ。そのブレスレット。まさしく【真空の涙】そのものではないか。「そのブレスレットについて気になったんだ」「ああ、これか。何ヶ月か前に、質屋で手に入れたものだが、どうかしたか」もしかすると、今完全にダウンしているこの追っ手は、僕を追う途中でこのブレスレットを見つけたのではないか? 僕そっちのけで金属釘バット相手に戦ったのなら、納得がいく。となると、僕はもう完全に責任を離れたということになりは……しないだろうな。仮にも預かったのは他でもない僕だ。それに、この追っ手は恐らく、金属釘バットから取り返そうとしたのだろう。そして返り討ちにあった。単純な推理だ。だが、僕が今ここで彼から奪い取らなければ、話は先に進まないし、僕はいつまでも追われる身であり、借りたものを返さない、あるいは預かったものを失くすような屑のままだ。正直それだけはごめんだ。「それ、実は僕の物なんだ」「質に入ってたから俺が買い取ったわけだが、元の持ち主にタダで返せと?」「勿論金は払うさ」勿論嘘だ。そんな金があれば最初から売ったりしない。「だから、ちょっとでいい。手に取らせてくれないか。もし偽物だとしたら、お前はだいぶボッタクられたことになる」「偽物だったとして、それを質に入れたお前の立場はどうなる」変なところを指摘してくる奴だ。「それはまあ……また後で考えるさ」「取り引きするんだったら、その金についても考えていかないとな」小うるさいな。「いいからそれを見せてくれ」そして予想通り、彼は目一杯に釘バットをスイング。勿論僕には届かない。威嚇なのだ、あくまでも。「さっさと消えろ」「どうもそうもいかなくてね。今そこで倒れてるそいつ、一応知り合いだからさ。知り合いは助けないとね、知り合いとして失格だし」勿論嘘だ。ブレスレットを渡したら、金輪際会いたくはない男となる。それまで我慢しているだけの存在なのだ。
 そういうわけで僕は【真空の涙】をはめている右手首に細心の注意を払いながら、男に殴りかかったわけだ。一発目は避けられた。代わりに釘バットが勢いよく迫ってきたが交わす。そして僕のターン。二発目が命中する。続いて三発目、四発目と、パンチを命中させていく。こんな奴に負けたのかよ。滅茶苦茶に弱いぞ。相当弱い。釘バットは見かけ倒しだったってことか。あのフルスイングはなかなかのものだったが……まあ、当たらなければ意味がない。僕の攻撃は確かに釘バットなんかに比べたら明らかな弱さだが、それでもちゃんと命中している。だからこそ、男はどんどん弱っていく。不意打ちで殴られたのならともかくとして、(あくまでも仮定段階だが)自分から行方を追っておいて釘バットで不意打ちされるとは。なんだか不思議な話でもあるな。とか考えてるとまた釘バットが目の前に迫ってきた。危ない危ない間一髪。目の前を釘バットの先端が虚しく通り過ぎていく。で、その隙を突くように、文字通り鉄拳突きを五、六発食らわせると、流石にダウンした。それでも釘バットは手から離れていない。全く、どういう根性をしているんだか。若干ながら立ち上がろうとしているので、ここで少しだけ嗜虐心を表すことにした。立ち上がるまで待ってやる。五分ほどかかってやっと立ち上がった。諦めりゃいいものを。力無いスイングでフラフラと釘バットが目の前を通り過ぎる。避ける動作は微塵もしていない。男自身も、視界がアヤフヤな状態なのだろう。さて、とどめだ。拳を一発頭に食らわせる。勢いよく倒れた。ついでに、遂に手から釘バットが離れた。ああ終わった。安堵の溜め息。僕は倒れて動かなくなった男から、【真空の涙】を奪う。取り返すと言ったほうが良いか。盗賊みたいなことをしていると自分で思ったが冗談じゃない。僕はただ、売ってしまった物を取り返したに過ぎないのだ。
「さっきからデカい音ばっかり鳴らしやがって。勘弁してくれ、娘が気分悪くて寝てるんだ」仇元のおっさんが様子を見に外に出てきた。「ああ、ごめんなさい、仇元さん、贋作製作の依頼、やっぱ取り消しで」「なんだと。ってことは、見つけたのか」「はい」そう答えて僕は【真空の涙】を見せる。「本物じゃねえか」と、仇元さんは目を丸くする。「何でお前が持ってるんだ」「預かってたんです」「誰から?」「今そこで寝そべってる奴です」「二人いるが」「釘バットから遠いほうの男です」「ああ、アイツがお前にそれを預けたっていうバカ野郎か」「まあ、そうですね」ほう、と言って、仇元さんは追っ手の男のところに行く。「お前に言ったとおり、コイツが起きたら三、四発殴っとく。その後に返すから、お前それ一旦寄越せ」と、僕が答える前に【真空の涙】を取り上げる。一旦? 「あの、一旦とは」「贋作依頼はお手の物だからな」「あの、話が見えません」「見えるようになれ。一日経ったら俺のところにまた来い。話はそれからだ。さあ行った行った」と、僕をその場から追い出した。仕方なく僕はその場を離れる。変な予感がしたが、それは無視した。

 そして翌日。僕は仇元さんから【真空の涙】を受け取った。
 贋作なのか本物なのか、という肝心な部分を教えてくれないまま、仇元さんは仕事に戻ってしまったため、僕はなにも聞き出せない。「これは本物なんですか?」と訊ねても、「お前が判断しろ。もう一つはバカ野郎にやったからな」としか答えてくれない。どうしようもなく僕は店を後にする。
 僕は貴重とされるそのブレスレットをポケットに入れて、質屋へと急いだ。
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