第5話 最初の男
文字数 3,409文字
十一月二十一日 金曜日
50%どころか、朝目覚めたときから小雨が落ちていた。
「雨、雨、降れ降れ、もっと降れ」というのは、今年のレコード大賞本命と言われる八代亜紀の『雨の慕情』。最近いやというほど耳にする。
八代亜紀は毎年強敵の前、涙を飲んできた。昨年の『舟唄』も良かったが、ジュディ・オングの『魅せられて』という一発ヒットに持っていかれた。今年は五木ひろしとの戦いが、五・八戦争と呼ばれ注目されている。十一月十八日、発表が最も早い歌謡大賞を獲得し、まず先手を取った。
それにしても、気が進まない仕事の日の朝が、しとしと雨とはダークな気分だ。今もどこかのテレビ局で、八代が雨乞いをしているのだろう。
『ダブル・ファンタジー』からヨーコの曲をカットして作ったテープを、ウォークマンで三回聴いているうち、三島駅に着いた。
リュウこと黒崎龍は、マナが中学時代グレはじめた頃の最初のボーイフレンドだ。処女を捧げたのがこの男かどうかという表記はない。つっぱりグループに入って間もない頃、ちょうど前の彼女と別れたばかりだったリュウとまわりからくっつけられた、とある。
リュウはまだ十九歳だが結婚二ヵ月。妊娠中の新妻がいる。
リュウの父親は韓国出身で、静岡ではかなり知れた居酒屋チェーンの経営者だ。一人息子のリュウは高校卒業後、父親の方針により自社とは無関係のレストランへ就職させられた。外でしばらく勉強して、いずれは父親の跡を継ぐ事が決まっている。こういうドラ息子は、少なからず親に反抗してグレないではいられないようだ。
この種の若者は怠け者が多い。予想通り十時台に家にいた。十九で結婚してマンション暮し。インターホンに低い声が答える。
「だれ?」
「303号に引っ越してきた者です。ご挨拶に」
顔を出したのは想像した通り、ヤンキー上がりの目付きの鋭い男だった。引っ越しの挨拶としては明らかに高価なペア・マフラーの包みを差し出した。
「はじめまして、淀橋といいます。この歳でひとり暮らしなんですけど、よろしくお願いします」
リュウは紫色のスウェット姿で、面倒そうに包みを受け取った。洗濯機の音が聞こえる。新妻も在宅ということだ。
「失礼ですけど、新婚さんですか」
「ああ、そうだよ」
「いいですね。私、この辺全くわからないんで、いろいろ教えて下さい。じゃあ」
とりあえず部屋と顔を覚えた。
昼間、近辺の聞き込みに回った。
リュウが、この辺ではかなり有名なリーダー格のヤンキーである事はよくわかった。暴走族であると同時に、高校時代はバンドでドラムもやっていたらしい。
女関係になると、かなり手広く遊んでいたようで、いつ頃誰とつきあっていたか、誰も正確に覚えていない。マナらしき相手がいた事も、証言する者はひとりもいなかった。マナとの関係に疑問さえ湧いてきた。
夜、リュウが勤めに出たと知った上で、新妻だけのマンションを再び訪ねた。
鈴のようなか細い声がして、童顔の新妻が顔を出した。一目見て、リュウの好みがわかったような気がした。
「すみません、こんばんわ」
「あ、先ほどはあんな良い物をいただいて」
「いいえ。あの、プラスのドライバーがあったら貸していただけませんか」
「はい、ちょっと待って下さい」
十代で子供を作って結婚する、ヤンキーの妻ということでイメージされるタイプとはかなり違う。小柄で弱々しく、あどけない感じ。だが、こういう娘ほど不良っぽい男には弱い。そして最後は泣かされて、たいていは長続きしない。
新妻がドライバーを探している間、玄関より部屋を見回した。奥のリビングに、大きなポスターが貼ってある。のぞき込んで見た。思わず声を出して笑うところだった。
そこにあったのは、まるで天使のような笑顔の特大写真。微笑みかけるのはリュウの天使、直木マナだ。
「奥さん、ご主人は直木マナのファンですか」
「そうなんです。あんな大きなポスター貼っちゃって、恥ずかしいですよね」
そう答える声の中に、複雑な感情は含まれてはいないようだった。彼女は夫とアイドル歌手との過去について、何も知らないのだろうか。
ドライバーを借りると、マンションの偽住人はこっそりとエレベーターを降りて、ホテルへと帰った。
この日、NHK紅白歌合戦の出場者発表があった。マナは松田聖子や田原俊彦とともに、めでたく初出場を決めた。
他に初出場は、五輪真弓、八神純子、ロス・インディオス&シルビア、クリスタル・キング、もんた&ブラザース、など。海援隊は『贈る言葉』で六年ぶりに再出場となった。
十一月二十二日 土曜日
朝十時過ぎに、ドライバーを返しに行った。
「これ、ありがとうございました」
リュウは昨日と同じ紫のスウェットで、起きてから十五分以内という顔をしてドライバーを手に取った。
部屋の奥からローリング・ストーンズが聞こえている。『ミス・ユー』、一昨年の全米No.1ヒット。
「近くに写真の現像が出来る所ありますかね」
「写真屋なら、大通りに出てすぐの向こう岸にあるよ」
「よく使われてるとこですか」
「ああ、一、二回使ったかな。親切なおばさんがやってるよ」
面倒臭そうなリュウを前に、どうでもいい話を一方的にした帰り際、思い出したように振り返ると、唐突にメインの質問をぶつけた。「あ、そうだ。直木マナ好きなんですか?」
刑事コロンボ式である。一瞬の表情も見逃すまいと、リュウを見据えた。コンマ数秒表情が固まり、単純な答えがその一瞬遅れた。「ああ、まあね」
「かわいいですよね。僕もファンなんですよ、年甲斐もなく」
その後の会話は続ける意思がなさそうだった。沈黙が気まずい長さになる前に、もう一言残して部屋をあとにした。
「ストーンズも好きです。趣味が合いそうですね」
親切なおばさんの写真屋へ入った。CMでおなじみの、樹木希林と岸本加世子ののぼりが立っている。
おばさんというより、おばあさんだ。その歳を見て、若い芸能人の顔など知らないと読んだが、念のため裏返して例の写真を差し出した。
「この裏を見て、お宅のプリントかどうかわかるかい」
おばさんは、老眼鏡をこらして写真の裏をしばらく眺めた。
「こりゃあ、うちのと違うね。ほら、これはコニカと印刷してあるでしょ。うちはフジカラー使ってるからね。絶対に違うよ」
「なるほど。全国的にはどっちを使ってる店が多いんだろう」
「そりゃあフジカラーでしょ。コニカは珍しいと思うよ」
おばさんが写真を裏返しそうになったので、あわてて引き戻した。「そう。ところで、通りの向こうのマンションに住んでる、黒崎っていうつっぱりお兄ちゃん知ってる?」
「知ってますよ。写真を出して下さった事がありますけど、みなさんが言うほど怖い人じゃないと、私は思いましたわ」
「その人が最近頼んだ写真で印象に残ったもの、ない?」
「さあ、二回くらいしか来られた事ないと思うんだけど、奥さんの写真ばっかり撮られてましたね」
「奥さん以外は?」
「覚えていませんわ」
「どうもありがとう。おばさん、こんな事聞きに来た男がいたなんて、誰にも言っちゃあ駄目だよ。国家機密なんだから、もし他言したら死ぬまで牢屋から出られなくなるかもよ」
開いた口が閉まらなくなったおばさんの前に、一万円札を置いて店を出た。
残り半日、マンションを張り込んだ。
夕方四時過ぎ、一丁前のBMWに乗ったリュウが出て来た。タクシーを拾って尾行する。
勤め先のレストランに十五分くらいで着く。かなり大きいステーキ専門店。閉店時間を確かめる。十二時ということは、遅番のリュウが出てくるのは、片付けが終わる十二時半頃か。
ウエイターとして働くリュウの姿を窓の外からしばらく見ていたが、そのまま仮眠をとることにした。十二時までは長い。いつ、どこでも眠れる特技は、この仕事向きかもしれない。
十一時二十分、オーダーストップ直前に店に入った。
リュウが来るようにタイミングまではかった。彼が目の前に立つのを待って、サングラスを外し顔を上げた。
「黒崎さん!ここで働いてるの?」
「えーと、あんたは…」
「淀橋です。ねえ、もうすぐ閉店でしょ、イッパイ行きませんか」
「俺、車なんだよ」
「堅いこと言わないで、ちょっとだけ。おごりますから」
俺はこんな時に使う満身の営業スマイルを見せた。
「コーヒーだったらつき合うよ」とリュウが答えた。
50%どころか、朝目覚めたときから小雨が落ちていた。
「雨、雨、降れ降れ、もっと降れ」というのは、今年のレコード大賞本命と言われる八代亜紀の『雨の慕情』。最近いやというほど耳にする。
八代亜紀は毎年強敵の前、涙を飲んできた。昨年の『舟唄』も良かったが、ジュディ・オングの『魅せられて』という一発ヒットに持っていかれた。今年は五木ひろしとの戦いが、五・八戦争と呼ばれ注目されている。十一月十八日、発表が最も早い歌謡大賞を獲得し、まず先手を取った。
それにしても、気が進まない仕事の日の朝が、しとしと雨とはダークな気分だ。今もどこかのテレビ局で、八代が雨乞いをしているのだろう。
『ダブル・ファンタジー』からヨーコの曲をカットして作ったテープを、ウォークマンで三回聴いているうち、三島駅に着いた。
リュウこと黒崎龍は、マナが中学時代グレはじめた頃の最初のボーイフレンドだ。処女を捧げたのがこの男かどうかという表記はない。つっぱりグループに入って間もない頃、ちょうど前の彼女と別れたばかりだったリュウとまわりからくっつけられた、とある。
リュウはまだ十九歳だが結婚二ヵ月。妊娠中の新妻がいる。
リュウの父親は韓国出身で、静岡ではかなり知れた居酒屋チェーンの経営者だ。一人息子のリュウは高校卒業後、父親の方針により自社とは無関係のレストランへ就職させられた。外でしばらく勉強して、いずれは父親の跡を継ぐ事が決まっている。こういうドラ息子は、少なからず親に反抗してグレないではいられないようだ。
この種の若者は怠け者が多い。予想通り十時台に家にいた。十九で結婚してマンション暮し。インターホンに低い声が答える。
「だれ?」
「303号に引っ越してきた者です。ご挨拶に」
顔を出したのは想像した通り、ヤンキー上がりの目付きの鋭い男だった。引っ越しの挨拶としては明らかに高価なペア・マフラーの包みを差し出した。
「はじめまして、淀橋といいます。この歳でひとり暮らしなんですけど、よろしくお願いします」
リュウは紫色のスウェット姿で、面倒そうに包みを受け取った。洗濯機の音が聞こえる。新妻も在宅ということだ。
「失礼ですけど、新婚さんですか」
「ああ、そうだよ」
「いいですね。私、この辺全くわからないんで、いろいろ教えて下さい。じゃあ」
とりあえず部屋と顔を覚えた。
昼間、近辺の聞き込みに回った。
リュウが、この辺ではかなり有名なリーダー格のヤンキーである事はよくわかった。暴走族であると同時に、高校時代はバンドでドラムもやっていたらしい。
女関係になると、かなり手広く遊んでいたようで、いつ頃誰とつきあっていたか、誰も正確に覚えていない。マナらしき相手がいた事も、証言する者はひとりもいなかった。マナとの関係に疑問さえ湧いてきた。
夜、リュウが勤めに出たと知った上で、新妻だけのマンションを再び訪ねた。
鈴のようなか細い声がして、童顔の新妻が顔を出した。一目見て、リュウの好みがわかったような気がした。
「すみません、こんばんわ」
「あ、先ほどはあんな良い物をいただいて」
「いいえ。あの、プラスのドライバーがあったら貸していただけませんか」
「はい、ちょっと待って下さい」
十代で子供を作って結婚する、ヤンキーの妻ということでイメージされるタイプとはかなり違う。小柄で弱々しく、あどけない感じ。だが、こういう娘ほど不良っぽい男には弱い。そして最後は泣かされて、たいていは長続きしない。
新妻がドライバーを探している間、玄関より部屋を見回した。奥のリビングに、大きなポスターが貼ってある。のぞき込んで見た。思わず声を出して笑うところだった。
そこにあったのは、まるで天使のような笑顔の特大写真。微笑みかけるのはリュウの天使、直木マナだ。
「奥さん、ご主人は直木マナのファンですか」
「そうなんです。あんな大きなポスター貼っちゃって、恥ずかしいですよね」
そう答える声の中に、複雑な感情は含まれてはいないようだった。彼女は夫とアイドル歌手との過去について、何も知らないのだろうか。
ドライバーを借りると、マンションの偽住人はこっそりとエレベーターを降りて、ホテルへと帰った。
この日、NHK紅白歌合戦の出場者発表があった。マナは松田聖子や田原俊彦とともに、めでたく初出場を決めた。
他に初出場は、五輪真弓、八神純子、ロス・インディオス&シルビア、クリスタル・キング、もんた&ブラザース、など。海援隊は『贈る言葉』で六年ぶりに再出場となった。
十一月二十二日 土曜日
朝十時過ぎに、ドライバーを返しに行った。
「これ、ありがとうございました」
リュウは昨日と同じ紫のスウェットで、起きてから十五分以内という顔をしてドライバーを手に取った。
部屋の奥からローリング・ストーンズが聞こえている。『ミス・ユー』、一昨年の全米No.1ヒット。
「近くに写真の現像が出来る所ありますかね」
「写真屋なら、大通りに出てすぐの向こう岸にあるよ」
「よく使われてるとこですか」
「ああ、一、二回使ったかな。親切なおばさんがやってるよ」
面倒臭そうなリュウを前に、どうでもいい話を一方的にした帰り際、思い出したように振り返ると、唐突にメインの質問をぶつけた。「あ、そうだ。直木マナ好きなんですか?」
刑事コロンボ式である。一瞬の表情も見逃すまいと、リュウを見据えた。コンマ数秒表情が固まり、単純な答えがその一瞬遅れた。「ああ、まあね」
「かわいいですよね。僕もファンなんですよ、年甲斐もなく」
その後の会話は続ける意思がなさそうだった。沈黙が気まずい長さになる前に、もう一言残して部屋をあとにした。
「ストーンズも好きです。趣味が合いそうですね」
親切なおばさんの写真屋へ入った。CMでおなじみの、樹木希林と岸本加世子ののぼりが立っている。
おばさんというより、おばあさんだ。その歳を見て、若い芸能人の顔など知らないと読んだが、念のため裏返して例の写真を差し出した。
「この裏を見て、お宅のプリントかどうかわかるかい」
おばさんは、老眼鏡をこらして写真の裏をしばらく眺めた。
「こりゃあ、うちのと違うね。ほら、これはコニカと印刷してあるでしょ。うちはフジカラー使ってるからね。絶対に違うよ」
「なるほど。全国的にはどっちを使ってる店が多いんだろう」
「そりゃあフジカラーでしょ。コニカは珍しいと思うよ」
おばさんが写真を裏返しそうになったので、あわてて引き戻した。「そう。ところで、通りの向こうのマンションに住んでる、黒崎っていうつっぱりお兄ちゃん知ってる?」
「知ってますよ。写真を出して下さった事がありますけど、みなさんが言うほど怖い人じゃないと、私は思いましたわ」
「その人が最近頼んだ写真で印象に残ったもの、ない?」
「さあ、二回くらいしか来られた事ないと思うんだけど、奥さんの写真ばっかり撮られてましたね」
「奥さん以外は?」
「覚えていませんわ」
「どうもありがとう。おばさん、こんな事聞きに来た男がいたなんて、誰にも言っちゃあ駄目だよ。国家機密なんだから、もし他言したら死ぬまで牢屋から出られなくなるかもよ」
開いた口が閉まらなくなったおばさんの前に、一万円札を置いて店を出た。
残り半日、マンションを張り込んだ。
夕方四時過ぎ、一丁前のBMWに乗ったリュウが出て来た。タクシーを拾って尾行する。
勤め先のレストランに十五分くらいで着く。かなり大きいステーキ専門店。閉店時間を確かめる。十二時ということは、遅番のリュウが出てくるのは、片付けが終わる十二時半頃か。
ウエイターとして働くリュウの姿を窓の外からしばらく見ていたが、そのまま仮眠をとることにした。十二時までは長い。いつ、どこでも眠れる特技は、この仕事向きかもしれない。
十一時二十分、オーダーストップ直前に店に入った。
リュウが来るようにタイミングまではかった。彼が目の前に立つのを待って、サングラスを外し顔を上げた。
「黒崎さん!ここで働いてるの?」
「えーと、あんたは…」
「淀橋です。ねえ、もうすぐ閉店でしょ、イッパイ行きませんか」
「俺、車なんだよ」
「堅いこと言わないで、ちょっとだけ。おごりますから」
俺はこんな時に使う満身の営業スマイルを見せた。
「コーヒーだったらつき合うよ」とリュウが答えた。