第26話 葡萄酒

文字数 774文字

 人々のざわめきが遠く、さざ波のように聞こえている。
 東屋のテーブルには酒と珍しいつまみが用意されていた。もちろんセルトの演出である。
 セルトはガラスの瓶に入っていた赤い液体をグラスに注ぐと、阿梨に差し出した。
「これは?」
 まるで血のように鮮やかな赤。
「葡萄酒という飲み物です。ここマルバでは作れませんが、あなたのために取り寄せました」
 セルトは自分も葡萄酒を注ぐと、軽くグラスを掲げ、
「二人の夜に乾杯」
 ひと口飲むと、いっぱいに果実味が広がった。かすかに甘くて苦い、深みのある不思議な味わいだ。
「いかがですか、葡萄酒は。お気に召しましたか」
 はい、と阿梨はうなずき、
「初めて飲みました。美味(うま)い……ではなくて美味(おい)しいです」
 どうも慣れない女言葉は使いづらい。
「お口に合ってよかった。どうぞつまみも召し上がってください。珍しいものばかりですよ」
 では、と遠慮なく皿に盛られた干し無花果(いちじく)やナツメの実に手を伸ばす。
「ところで、阿梨どのはご自分の水軍をお持ちだと聞きましたが……」
「水軍を擁しているのは、わが海龍一族です。わたしは先代の祖父の跡を継ぎ、長を務めているにすぎません」
「その若さで長とはご立派なものですよ。羅紗国もいずれ阿梨どのがお継ぎになるのですか?」
 いいえ、と阿梨は即座に否定した。
「王位を継ぐのは弟の白瑛です。とても優しい子で、成長した暁には民に慕われる慈悲深い王となるでしょう」
「他にご兄弟は?」
「白瑛とわたしの二人きりです。だから、わたしがまだ幼いあの子を守らなくては」
「阿梨どのは弟思いなのですね。あなたも、とてもお優しい」
 セルトは微笑して、満足げにうなずく。




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登場人物紹介

阿梨(あり)


羅紗国の王女にして水軍の美しき長。勇敢で聡明な娘だが、恋愛にはかなり疎い。

世間では「型破り王女」と言われている。

勇駿(ゆうしゅん)


阿梨の護衛で幼なじみ。彼女が王女という身分差もあって想いを口に出せずにいる。

勇仁(ゆうじん)


勇駿の父で阿梨の教育係。姫さま大事の忠義者。頑固。

セルト


阿梨たちが訪れたマルバ王国の第3王子。阿梨を気に入って求婚するが、その真意は……。

白瑛(はくえい)


阿梨の異母弟。羅紗国の王太子。母は違うし、年も離れているが、仲のよい姉弟。

真綾(まあや)


阿梨の母。美しくたおやかだが芯の強い女性。王妃の地位より海の民であることを選んだ。

ルキア


マルバ王宮女官長。セルトに頼まれ、阿梨を最高に美しい貴婦人にすべく使命感に燃える。

マルバ国王


水軍の大切な取引相手。大らかで人柄のよい王さま。

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