第22話

文字数 2,541文字

どれくらい歩いただろうか。ふたりは言葉を交わすこともなくただ、岩だらけの道を砂漠に向かって歩き続ける。本当なら、龍の背中に乗ればすぐに予言者が待つという砂漠に行くことはできる。けれどどちらともそれを言い出すことはなかった。ウデュもそれをわかっているのか、おとなしく後ろをついて歩く。
予言者に会えば、また、引き裂かれるのは目に見えていた。だからこそ、予言者はエズメラルダを砂漠に向かわせたのだ。
途中で川を見つけ、身を清め、服を着替えた。
アルハンドロ様は、あたくしをどのように思われているのだろうか。
胸をえぐるような痛み。
あなただけは決してわたしを裏切らないと思っていたのに!
その言葉が、鋭い刃となって心に刺さる。
 裏切ったわけではない。そうではないけれど。

あれは、エズメラルダが十六の歳だった。
城の庭には、美しい花が咲き乱れていた。テーブルには貴族の奥方がつどい、ティーカップを傾け、甘い菓子をつまみながら噂話に興じていた。大きな子供たちは大人さながらに世間話を楽しみ、小さな子供たちはかくれんぼや鬼ごっこに興じていた。
そしてアルハンドロとエズメラルダはいつものように、そのどの輪にも入らずふたりで人気のない森を散策していた。
ちょうどそこのころ、王子であるアルハンドロの妃を誰にするか、という話が持ち上がっていた。アルハンドロは十五歳になったばかりで、予言者によると、あと三年後に正式に妃が決まる、と言われていた。そして、エズメラルダが十七の年になれば、正式にアルハンドロの妾として城に仕えるだろう、というのも、皆が思っているところだった。
両親も、そのことについて反対はなかった。エズメラルダが妾のひとりにでもなれば、たくさんの手当てが見込めるからだ。八人も子供を持つ貧乏貴族には、決して悪い話ではなかった。
「あなたに、見せたいものがある」
 その日も、そうやってアルハンドロはエズメラルダを誘い出した。大概そういう時に見せてくれるのは、外国の美しい書物であったり、国一番の彫刻家の手による彫刻だったり、他国で評判の者に作らせた織物であったりした。
 湖のほとりに腰を下ろし、
「おひとついかが?」
 そう言ってドレスの下にかくしていたお菓子を見せた。甘い蜜のたっぷりかかったその柔らかい焼き菓子はアルハンドロの好物であった。皆の前では決して手を出さないアルハンドロを気遣ってのことだった。アルハンドロは少しはにかんだように笑った後、
「ありがとう」
 と、菓子をつまんだ。ふたりで菓子を分け合い、蜜でべたべたになった指をきれいになめ終わると、今度はアルハンドロが懐から何かを取りだした。
 それは、白い布に包まれた小さな塊だった。布の中から現れたのは、透き通るほどのエメラルドグリーンをした石だった。
「きれい……!」
「ずっと昔、母からもらったのだ。『この石は、わたしに力を与えてくれる』と」
その頃はまだ、エズメラルダの瞳は消し炭の色だった。世の中にこんな美しい色があるのかとうっとりとながめたものだった。
そのときだった。
女の笑い声が聞こえた。ふたりは、ハッとして動きを止めた。エズメラルダは、アルハンドロの表情が陶器のように白くなるのを見逃さなかった。アルハンドロの手を包むようにしてその石を布に包み、
「行きましょう」
と、立ち上がった。その時、向かいの木陰にちらつく姿が見えた。
全身から血の気が引いていく。こんなものをアルハンドロに見せるわけにはいかなかった。皆が知っている公然の秘密。
浮かれたような、喜びを隠せないといった声は近づいてくる。そして、その声にかぶさるようにして聞こえる男の低い声。
「早く!」
エズメラルダはアルハンドロの手をつかんで立たせた。氷のように冷え切った手。
けれど、アルハンドロは凍りついてしまったようにその場から動かない。いや、動けなかったのだ。
湖の向こう側、木陰に見え隠れするのはアルハンドロの母であり、偉大なハイデス王の妃でもあるカレンデュラだった。そしてその華奢な腰を抱き寄せているのは、宰相ロベリオ。母が密に通じる男だった。
エメラルド色の石は、アルハンドロの手からこぼれ落ちた。けれど、アルハンドロはもう、その石を拾い上げはしなかった。
「アルハンドロ様……」
気がついたら、体が動いていた。自らアルハンドロの手を引き、大きな木の木陰に体を寄せた。ここからならもう、二人の姿は見えない。
苦しみにゆがむアルハンドロの顔。それを見ていたら、じっとしていることなどできなかった。自ら歩み寄り、その体を抱きしめた。
「あたくしは、いつだっておそばにいます。決して、あなた様から離れません」
「エズメラルダ」
 切なく見つめあった。アルハンドロの腕が、エズメラルダの背中に回った。どれくらいの間、ふたりでそうしていただろう。
 いつの間にか、カレンデュラとロベリオの声は聞こえなくなっていた。アルハンドロは、体を離した。その、愁いを含んだまなざしがエズメラルダを捕えた。エズメラルダも吸い込まれるように見つめ返した。目を閉じる。
「わたしにはもう、あなたしかいない……」
アルハンドロの唇が、エズメラルダの唇に重なった。何度も優しく触れては押し付け、わずかに開いた唇から舌で触れる。まるで、エズメラルダがそこにいるのを確かめるように。自分のことを、心の中に刻み付けようとするように。
背中にあった手が、胸に回った。ぎこちない手つきで、服の上から優しくなでる。全身に鳥肌が立った。でも、抵抗はしなかった。ただ、アルハンドロの孤独が、さみしさが伝わってくる。心に入り込んでくる。
 服に手をかける。エズメラルダの体がびくん、と、ふるえた。
 それで、我に返ったように顔を上げた。
 覚悟はできているつもりだった。けれど、アルハンドロは自分の方が傷ついたみたいに小さく笑った。
「……こんな気持ちで、あなたを抱くべきではないね」
 服から手を放し、額に唇を押し当てた。そのとき、心を決めた。
あたくしは、この方のために生きていく。
翌日、エズメラルダは森へともどった。アルハンドロが落とした石は、白い布に包まれたまま朝露に濡れた地面に落ちていた。それを一人、そこに埋めた。
ふたりが口づけを交わした木の根元だった。
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