1 帝国の黒い聖者《カイザーライヒス・シュバルツハイリゲ》

文字数 12,643文字

 一台の馬車が、轍の刻まれた街道を進んでいく。
 
 ベルリンは既に遠く、街の光はもう見えない。所々に点在するガス灯の小さな光だけが、馬車の行く末の道標(みちしるべ)である。
 丘の上を鬱蒼と覆う森の向こうから、丸く膨らんだ月の光がちらちらと姿を覗かせ、その冴え冴えとした光を馬車に投げつける。馬車の中には詰め襟からスカートの裾まで真っ黒なドレスを着た小柄な少女が、たった一人で、ぽつりと座っていた。
 
 年の頃は十四、五歳。銅のような艶のある赤毛を、両脇で編んでおさげにしている。
 そばかすだらけなものの顔立ちは整っており、見る目のある者なら彼女の中に美しさを見出すのは容易であろう。しかし常磐色(ときわいろ)の瞳は伏し目がちに床を泳いで、その表情に影を落としていた。
 少女は面を上げて窓を見た。
 どんよりとした黒い雲が、千切った綿菓子のように空に散らばっている。その雲の下にはさらに黒い煙が、まるで地獄の淵から這い出した闇のように、あちこちに細長く漂っていた。
 そんな煙や雲のさらに向こう、森の奥からちらちらと窓の外に映る月の光を、少女は少しの間疎ましげに見つめていたが、やがてぴしゃりとカーテンを閉めてしまった。
「この辺りではまだ空が見えるのね……」
 少女はどこか翳りのある、落ち着いた声で御者に話しかけた。
「月の光はお嫌いですかな?」
 年老いた御者がしわがれた声で少女に話しかける。
「ええ、あれも所詮は陽の光ですもの」
「ほほう、そうなのですか? 初耳ですな」
「月は太陽の光を反射して光っているの。自らの光じゃないのよ。常識じゃない?」
「あいにくと無学なものでして」
「齢を取っても勉強しなきゃ。科学はどんどん進歩してるのに無知なままじゃ駄目よ。あなた、文盲じゃないんでしょ?」
「これは手厳しい。聖書には一応毎日、目を通しておるのですが」
「たまには聖書以外も読みなさい。視野が広がるわ」
「はあ」
 御者は気のない返事をした後、独り言のようにぽつりと言った。
「……しかし、『冥きもの(フィンスターレ)』の中には、こんな月の光が好きな者もいるようで」
「そうね。あれが陽の光だとしても、月を媒介すればまた別のものになるのでしょうね」
「それでもマリー様はあくまであれを月の光としてではなく、陽の光の一部と見ているのですね?」
「ええ」
「奇妙なものですな」
「……そうかしら……」
 会話はそこで途絶えてしまった。馬車はやがて街道を抜けて狭いあぜ道に入り。小さな集落と思しき光の群れに向かい始めた。

 馬車がたどり着いたのは鬱蒼と森の茂る丘のすぐそばに存在する、小じんまりとした農村だった。瓦葺きの赤い屋根が白い漆喰に映える小さな家々がぽつぽつと点在する中、十字架を屋根に頂くカトリックの物らしき古い教会が東の方角に立っている。
 馬車はその教会の目の前で足を止めた。すでに夜半を過ぎた頃だった。
マリーは教会のドアを両手で開けた。
「……!?
 中には神父と、村人と思しき男数人が何かを話していた。マリーが無言でドアを開けると、彼らは驚いた様子でその小さな訪問者の姿をまじまじと見つめた。
「失礼、私はマリー。超法規退魔宗教機関、『薄明(デマーシャイン)』の戦闘修道女(カンプ・ノンネ)です」
「……貴方が?」
 神父は目を丸くしながら言った。痩せぎすの老人だが、鋭さのような物は感じられず、聖職者らしい、穏やかさと品の良さがその姿から垣間見える。
「私を呼んだのは貴方がたでしょ?」
「確かにそうですが、……いやあ驚いた、まさかこんな少女が一人で来るとは」
「貴方が噂の黒い聖者(シュヴァルツハイリゲ)ですか……」
 神父のすぐ隣にいるたっぷりと髭を蓄えた、小太りの中年男が言った。
「その名前は不適切です。カトリックもプロテスタントも快く思っていません。……が、今さら訂正しようとも思わないわね」
「でしょうな。なるほど誰も戦闘修道女(カンプ・ノンネ)などと呼ばない訳がわかりました。ちっとも修道女(ノンネ)に見えない」
「あの格好は目立ちますから」
「その格好でも充分目立ちそうですがな」
 髭の中年はそう言いながらマリーの腰に視線を落とした。
 彼女の腰の両側にはガンホルダーが備え付けられ、二丁の拳銃が挿してあった。
 さらに腰に巻かれたもう一つのベルトにはマリーの身長の三分の二はあろうかと思われる銀色の長い剣がぶら下がっている。柄の部分はシンプルな直方体でできていて、さながら長い十字架を思わせた。
 確かに漆黒のドレスはともかく、その大げさとも言える武装は少女らしからぬ異様な風体に見える。
「……信用してもよろしいのですかな?」
「ずいぶん控えめなもの言いね。本当は『なんでこんな小娘をよこしたんだっ!』って言いたいんじゃないの?」
「い、いやそんな事は……」
「帰ってもいいのよ?」
「いや、失礼した! とにかく話だけでも聞いていただきたい!」
 マリーは大きくため息をつくと、中年男の目を見据えた。
「わかりました。とにかく要件を聞きましょう。なにがありました?」
「満月の夜、……今月は明日ですな。満月の夜に、次々と村人が襲われるのです」
 男に代わって神父がマリーに答えた。口調は穏やかだが、その目は切実に何かを訴えている。
「……狼男(ヴェーアヴォルフ)
 マリーは即答した。
「確かにそういう伝説はこの辺りではよく聞くのですが、俄には信じがたい話です……」
「貴方がたが信じているかどうかなんて、奴らにはどうでもいいのよ。一人でも知っている者があれば、それは具象化する可能性がある」
「そういうものなのですか?」
「そういうものなのよ」
「ローマ教皇は『冥きもの(フィンスターレ)』を『科学の進歩によって神を疑う者が増えた結果により、我らを試そうと地獄の淵から這い出してきた悪鬼』と呼んでましたが」
「『理性と信仰の調和』を目指してるレオ十三世にしてはあまり理性を感じない言葉ね。まあそれが事実かどうかはともかく、私はあの人嫌いじゃないけど」
 マリーが表情ひとつ変えずにそう言うと、神父は少し顔を曇らせた。
「貴方はひょっとしてプロテスタントですかな?」
「そういう事になってるわ。修道女の肩書は名ばかりだし。……気を悪くした?」
「いえ、決してそんな事は」
「ごめんなさい、少し無礼な物言いだったかもしれないわね。さっきも言ったけど、決して教皇が嫌いな訳じゃないのよ」
「理解しております」
「……古くて小さいけど良い教会ね」
「はい」
「……明日、ここに村人を全て集めてください。様子がおかしくなった者は直ちに私が取り押さえるから」
「なんですと?」
「翌日ベルリンまで連れて行って、ウチのエクソシストにお祓いして貰えば私の任務は完了。簡単でしょ? 来ないと言い張る人がいたらそいつが一番怪しいから縛り上げてでも私の前に連れて来て」
「し、しかし……」
「ちょっと待ってくれ、狼男(ヴェーアヴォルフ)になる人間がお祓いで治るというのか?」
 教会にいた、年若い男が初めて口を挟んだ。血の気の多そうな、張りのある声だ。
「流行り病は感染する呪い。逆もまた然り、かどうかは知らないけど、とにかく呪いも病も似たようなものよ。適切に対処すれば怖くない」
「……それでは納得できん」
「なんですって?」
「もう村人が五人も殺されている。始末してくれ」
「五人は尋常じゃないわね。……自分たちだけで退治しようなんて馬鹿な事を考えたの?」
「ああ。村の年寄りが一人犠牲になったので若い衆で化け物狩りを行った。結果は散々だったよ。皆這々の体で帰ってきた。……いや、四人は帰って来なかった。……頼む、アイツを殺してくれ」
「あのね、貴方の身内が狼男(ヴェーアヴォルフ)だった時の事を考えた事があるの?」
「もちろんだ! 俺だけじゃない、村人は皆覚悟を決めている! 身内どころか、自分が怪物だったとしてもそうしてくれと!」
「……貴方、ええと、何方(どなた)かしら?」
 マリーは髭の中年男に向き直って言った。
「ヨアヒム。ここの村長だ」
「貴方も同じ考えなの?」
「致し方ない。村人が全員一致で殺せと言っておるんだ」
「神父様、まさか貴方も同じ考えじゃないでしょうね?」
 神父は黙って俯くと、それ以上なにも答えなかった。
「ドイツ帝国には刑法というものがあるのよ? 仮に人殺しを裁くにしても、裁くのは貴方がたじゃなくて司法じゃないかしら?」
「……頼む、従ってくだされ。村人達の気が済むように」
 神父は呻くように声を振り絞った。
「……わかりました。気に入らないけど従いましょう。私は長旅で疲れているので少し休みます。神よ、この者達の罪を許し給え」
 マリーは吐き捨てるようにそう言うと踵を返し、バタリとドアを閉めて馬車の元へ去って行った。
馬車の前には御者が立っていた。おそらく小さな戦闘修道女(カンプ・ノンネ)とは何度も行動を共にしているであろうこの老人は、マリーの顔を暫しの間まじまじと見つめると、少し驚いた様子で彼女に向かって言った。
「貴方の口からそんな言葉が出るとは思いませんでしたよ」
「何の話?」
「『神よ、この者達の罪を許し給え』」
「聞こえてたの?」
「ドアのすぐ側でしたからな。この歳になるとあちこちにガタがきますが、あいにくと耳だけは良いもので」
「皮肉に決まってるじゃない」
「相変わらずお厳しい。ではやはり今でも神は信じておられないのですかな?」
「……コンラート、貴方わたしの事を誤解してない? 程度の差はあれ、私だって信仰ぐらい持ってるわ」
「失礼しました。そのようには見えないものですから」 
 マリーは大きなため息をひとつ吐くと、幌を被せた馬車の荷台の方へ足を運んだ。
「この辺は空気が良いから私は日中動けそうにないわ。コンラート、いつものように私の目が覚めるまで昼間の間に情報を集めて」
「かしこまりました」
 マリーは小さく頷くと、するりと音もなく荷台の奥へと消えていった。
「……さて、と、では私も宿を探して朝まで休みますかな。いやあ綺麗な月だ……」
一人残ったコンラートはすでに高くなった月を見上げながら、トントンと腰を叩いてそう独り言ちた。

次の日、太陽が完全に西に沈むのを確認すると、コンラートは馬車をすっぽりと覆った幌の裾をめくって、奥の暗がりに声を掛けた。
「マリー様、夜です」
 人が座れる乗用車のすぐ後ろに繋いである小さな荷車の中にはただ一つ、なんの装飾もないシンプルな、小さな棺桶が横たわっているだけだった。コンラートの声を聴くとその棺桶の蓋が少しずれ、中からマリーがちらりと顔を覗かせた。
「……わかったわ」
 マリーはそういってのっそりと棺桶から這い出ると、再び丁寧にその蓋を閉じた。
「よく眠れましたか?」
「おかげ様でね。……なにか情報は掴んだ?」
「何もない村ですし、近隣の住人は皆顔見知りなので情報集めは容易でした。村人の話はどれも他愛のないものでしたが、一つだけ、気になる話を耳にしまして」
「なに?」
「村長には三十すぎになる知的障害の息子がいまして、その男は村長宅の地下牢で常に幽閉されているそうです」
「ひどい話ね。知的障害だからって幽閉する事ないじゃない」
「ところがマリー様、障害者とて人間ですから、皆が皆善良で純真無垢な天使、という訳ではないのですよ。その息子は非常に粗暴で、成長するにつれ母親や村の娘たちに事ある毎に乱暴を働いて、このように幽閉される事になったとか」
「……」
「監禁は十年以上に及ぶそうです。……どう思われます?」
「確かに知的障害にも色んな人がいる。でもただ単に粗暴、というのは大抵の場合親に原因があるものよ」
「私が聞きたいのはそういう事ではございませんが」
「わかってるわよ、わかってる。……とにかく全てわかったわ。あまり気が進まないけど、村人の望むがままにしましょう」
「お気をつけて」
 マリーは猫のように小さなのびをすると、ガンホルダーと剣を腰に巻き、荷馬車から出て教会の方へ足を運んだ。戸を開けると、狭い教会内に四十人程度の村人たちがひしめいていた。
 小さな子どもから年老いた老人まで、その人となりは多様であったが、皆どれも同じように不安気な様子で顔を曇らせ、押し黙ったままじっと座っていた。
 昨日教会にいた若い男が、マリーの方に向かって歩いてきた。
「まだ森に隠れて見えないが、もうじき月が出る」
「そうね」
 マリーはそっけなく答えた。
「アンタ、ええっと、なんて名前だったっけ」
「マリーよ。貴方は?」
「ハンス。……村人はこれで全員だ。様子のおかしいものがいたら即刻そのご大層な銃か剣で……」
「本当にこれで全部なの?」
「なぜそんな事を聞く?」
「……村長の息子というのは、どこにいるの?」
 ハンスはその言葉を聞くと驚いた様子で目を見開いた。
 マリーは表情ひとつ変えずにハンスの方を見つめている。
「いつの間にそんな事を……」
「よそ者に知られたら都合が悪いの?」
「……ああ、村にも名誉がある」
「くだらないわね」
「……村長の息子は地下に監禁されている……。ここにいるはずがない」
「間違いなく監禁されているの?」
「一体なにを疑っているんだ? まさか村長が満月の晩にだけ地下室の鍵を開けるとでもいうのか? 馬鹿馬鹿しい」
「……」
 マリーは答えなかったが、なにかを問い詰めるようにずっとハンスを睨めつけた。
「……本当に疑っているのか? 村長の息子を、……カールを」
狼男(ヴェーアヴォルフ)は疎外された者の怒りと憎悪から生まれるの」
「だが、俺は見たことがあるんだ! あの地下牢を! いくら怪物でも容易く開けられるはずがない!」
「村長! ヨアヒムはどこ!」
 マリーは教会内を見渡しながら叫んだ。
「……ここに……」
 角に座っていたヨアヒムはのっそりと立ち上がり、力のない声で言った。
「間違いなく貴方の息子は地下に幽閉されているの?」
「……」
 ヨアヒムはうなだれたまま答えなかった。それを見たハンスはゆっくりとヨアヒムに近づくと、狼狽を隠し切れない様子で言った。
「アンタ、まさか、本当に……」
〈オオオオオオオオォォォ……〉
 突然どこからか獣の遠吠えのような音が外から鳴り響いた。
「!」
 村人達の間に一斉に動揺が走る。
 人々のざわめきを尻目に、マリーは教会のドアを勢い良く開けて外に出ると、森に向かって耳をすませた。
「……」
〈オオオオオォーン……〉
 遠吠えが再び、満月の冴える美しい農村の夜に響き渡った。
 ハンスとコンラートがマリーのすぐ後を追って教会から出てきた。
「貴方がたは教会にいなさい。声からしてまだ遠いけど、丸腰じゃ危険すぎる相手よ」
「私はこう見えても丸腰ではありませんが……」
 コンラートが襟を正す。
「下がっていなさい! 貴方のような老いぼれが手に追える相手じゃない!」
「やれやれ、年寄りというのは孤独ですな」
 コンラートはそう言ってすごすごと教会の中へ引き下がったが、ハンスはまだその場を動こうとしない。
「なに? まだなにか聞きたい事があるの?」
「いや、その、……すまなかった」
「なにが?」
「つい声を荒らげてしまって……」
「そんな事気にしてないわ。いいから下がってて」
 マリーはそう言って森の方へ足を早めた。
「すぐに松明を用意するから待っていてくれ。奴は夜目が利く。月の見えない森の中でやりあうのは危険だ」
「大丈夫、私も夜目が利くから。貴方が一緒に来たら死体が増えるだけだわ」
「馬鹿な! 本当に一人で戦う気なのか!」
「なにを今さら。私はこういうお仕事の専門家(シュペツィアリスト)なの。いいから教会に戻りなさい!」
 マリーは振り向きもせずにそう言うと音もなくさらに足を早め、覆い被さるような黒い木の影と、獰猛な人狼の待つ森の奥へと消えていった。

木々の多くは楢のようだった。
 人の手で植えたものらしく、ある一定の間隔で程よく立ち並んでいる。村人が定期的に枝打ちしているのか手入れも行き届いていて、雑然とした原生林とは趣の違う、閑静なただ住まいの美しい森だった。
 一見、怪物の潜むには似つかわしくない森である。しかし枝打ちされているとはいえ、その手のひらのような葉はマリーの頭上にのしかかるように生い茂り、月の光を隠すには充分だった。
 暗闇の中でマリーの大きな常磐色の瞳だけが、爛々と光っている。
「……綺麗な森ね。でも……」
 びゅうびゅうと空気を切り裂く風の音と、それが打ち鳴らす葉の音以外、そこにはなにも聞こえなかった。鳥の囀りも、動物の鳴き声も、マリーの鋭い聴覚ですら一切捉えられない。まるで森そのものが、人の世界から隔絶された異界のように、ただ静謐な死の匂いだけを漂わせている。
 人の手で作られた森であるにも関わらず、人の息吹のようなものを感じない。マリーはふとベルリンの街を思い出した。暗く歪なあの大伽藍とこの森は、まるで正反対なようで、どこか似ている。
「なるほど、『冥きもの(フィンスターレ)』が潜むには格好の場所かもね」
〈オオオォーン……〉
 どこからか再び遠吠えが聞こえてきた。
「隠れてないで私と一緒に遊びましょう。オオカミさん」
〈ウオオォォー……〉
「貴方、月の光が好きなんでしょ? こんな所にいてもお月さまは見えないわ」
 木漏れた僅かな月の光が、マリーの足元に星のように散らばり、風の音と共にざわざわと瞬く。
 遥か前方、木陰から木陰へ素早く写りながら徐々に近づいてくる影をマリーは認めた。
「……」
 マリーはゆっくりと左右のホルダーに収まる拳銃を引き抜いた。それは細身の銃身にもかかわらず、マリーの手には少し大きいように見えたが、しなやかな曲線を描くグリップは彼女の白い手によく馴染んでいた。
 M1879ライヒスリボルバー。ドイツ帝国軍も採用している。
 特筆すべき事もない、いたって普通の銃だが、軍が使用しているだけあってもちろん信頼性は高い。その丸みを帯びたグリップからスラリと伸びた銃身は美しく、彼女はこの銃を密かに気にっていた。
 マリーは素早く蛇行しながらこちらへ向かってくる影に銃身を向け、狙いを定めた。彼女の瞳孔は大きく開かれ、僅かな月の光でも獲物を捉える事に不都合はない。
 ドォン!
 ライヒスリボルバーの銃身が文字通り火を吹き、辺りが一瞬明るくなった。

〈ドォン……〉
 森の方角から、大砲を思わせる大きな銃声が教会の中まで響き渡った。
「銃声?」
〈ドォン……〉
 再び激しい銃声が鳴る。人々は皆おののきながら、不安と期待に満ちた表情でその銃声に耳をこらしていた。
「あの音、普通の銃じゃないな……」
 ハンスが驚嘆した様子でつぶやいた。
「聖水で清めた、銀メッキの強装弾です」
 横にいたコンラートがハンスに語りかける。
「強装弾? 火薬を増やした? しかし大人の男でも両手で構えないと肩が外れるぐらい反動が大きいはずだが……」
「よくご存知で」
「……あの少女は、一体なにものなんだ?」
「……」
「我々と同じ人間なのか? そういえば昼間は一切姿を見なかった……」
「……」
 コンラートはその問いには答えようとしなかった。
 
 二つの影が森の中を貫くように過ぎ去っていく。。
 マリーと人狼はほぼ同じスピードで平行に走りながら木々の間を駆け巡っていた。
マリーがその足を人狼に向け近づこうとすると、先ほどとは逆に人狼は彼女から距離を取ろうとする。人としての意識はもはやないのであろうが、その本能はマリーが危険な存在である事を見抜いていた。獣人は懸命に彼女から逃げているのだ。
 時折狙いを定め、両手に握られたリボルバーからドンドンというけたたましい音と共に銀の弾が打ち出されるが、弾は標的をかすめて森の闇へと吸い込まれていくだけだった。
「もっと距離を詰めなきゃ、それにしてもすばしっこいわね」
 その素早い人狼に、マリーは遅れる事なく付いていく。
 それどころかその距離はゆっくりとだが、縮まりつつあった。
 ドォン!
 三十フィートほどに互いの距離が近づいた時、マリーの弾丸が漸く人狼の肩を捉えた。
「グオオォォ!」
 耳まで裂けた口から吐き出すようにうめき声が上がる。その間もマリーは人狼との距離を縮め、さらに二発の銃弾を背中に叩き込んだ。
 しかし人狼の動きは止まらない。手負いの獣はマリーの方を振り向くと、逃げるのをやめ、その小さな少女目掛けて猛然と飛びかかってきた。
「!」
 逃げる時より遥かに素早いその跳躍にマリーは一瞬驚いた表情を見せたが、とっさに銃を捨てて剣を引き抜くと、襲いかかる獣人の胸を目掛けてそれを突き上げた。
「ゴワアァ! グフッ! グルル……」
 人狼はマリーを押し倒すことには成功したが、抵抗はそこまでだった。剣は獣の自重で、ズルズルとその巨体を刺し貫いていく。
「ゴフッ! グフッ……」
 マリーは獣が息絶えるのを確認すると、自分に覆い被さったその巨体を、苦もなく押し退けてゆっくりと立ち上がり、剣を引き抜いた。
「……ふう」
 マリーは大きく息を吐くと剣に付いた血を拭き取り、地面に打ち捨てた二丁の銃を拾った後、獣人の足を掴むとそれを安々と引きずって村への帰路へと付いた。

 銃声が止んでからかなりの時間が経った。
 教会内の村人たちからどよめきが上がる。そのどよめきが徐々に大きくなる中、業を煮やしたのかハンスは落ち着かない様子で教会の外へ飛び出した。
「お待ちください、まだ出るには早うございます」
 後を追って外へ出たコンラートがハンスの肩を掴んで言った。
「私が外でマリー様を待ちますから、貴方はまだ中においでになった方が良い」
「だが、銃声が止んで随分経つが、彼女は帰ってこない」
「マリー様なら大丈夫でございます」
「しかし……」
 その時、コンラートに食い下がるハンスの背後、森の暗闇の向こうから、ズルズルと何かを引きずる音が聞こえてきた。
「!」
「おやおや、今回は少々手こずったようですな」
 森の中から現れたのは、黒いドレスを血みどろにして大男を引きずる少女の姿だった。
「銃だけで仕留めたかったわね。服を汚しちゃった」
「マリー! その格好、……無事なのか!」
「返り血よ。私は傷ひとつ負ってない」
「剣を用いるのは久しぶりではないですかな?」
「背中から三発叩き込んだのに動きを止めることが出来なかった。やはり急所に当てるか、純銀の弾を使わないと駄目ね」
薄明(デマーシャイン)にも予算がありますからな。純銀は諦めて、マリー様の腕をもっと磨いて頂いた方がよろしいかと」
「ハイハイ、わかったわよ」
 マリーはコンラートとの会話を一方的に打ち切ると、自分が引きずってきた、ついさっきまで獣だった男の死体をハンスの目の前に放り投げた。
「……!」
 ハンスの前に横たわるのは、七フィート近い赤毛の大男だった。全身血まみれだが、顔は口から血を吐いている程度で損傷がない。ハンスはその大男の正体にすぐに気が付いた。
「カール! やはりカールだ!」
 ハンスが叫ぶと同時に教会のドアが勢い良く開き、憔悴した様子のヨアヒムが現れると、地面に伏してピクリとも動かない息子の元へヨロヨロと力なく近づいていった。
「……カール……」
 ヨアヒムは息子の顔を見るとその場に跪き、死体を抱き止めながらオイオイと激しく泣き始めた。
「うわあああああっ! カール! 許してくれっ! 許してくれえええ!」
 ヨアヒムの声を聞いて村人たちが少しづつ教会から出てくる。その中には神父も含まれていた。マリーは自分たちに近づいてくる神父と村人に向かって、村長の泣き声を掻き消すほどの大声で言った。
「共謀者はどこ!」
「共謀者?」
 ハンスが問い返す。
「地下にずっと監禁されていた男が、夜明けと共にわざわざ自分からまた牢に戻る訳がない。村長一人でこんな大男を力づくで牢に戻せるとも思えない。誰か村長に手を貸した者がいるでしょ!」
「私です……」
 神父がおずおずとマリーの前に名乗り出た。
「他には?」
「いません……」
「……」
 マリーはすぐに神父が嘘を吐いてる事を見抜いた。彼はまだ誰かを庇っている。
 しかしマリーが知りたいのは当事者からの事件の内容である。泣き崩れてそれどころではない村長の代わりに、事の真相を明らかにしてくれる者が一人いれば、自分の知らない共謀者が何人いようが彼女にはどうでもいい事だった。
「村長は息子が邪魔だった。手を汚さずに始末したかった。それで私に殺させた。要約するとそういう事ね? 合ってる?」
「はい、……ヨアヒムは疲れておりました。彼の妻は息子の働いた暴行が原因で死にました。彼は一人で息子の面倒を見続け、牢に食料と排泄物の処理をしに入る度、息子に殴られ続けたのです。そんな生活が十年続いておりました」
「……」
「ある日、いや、無論満月の晩の事ですな。彼は息子が牢の中で巨大な、それはもうちょっとした仔牛ほどもある狼になっているのを見つけたのです。驚きと恐怖と共に彼の心にある邪な考えが浮かびました。これでやっかい払いができる、と。彼は次の満月の日、月が昇る直前に牢のかんぬきを外して様子を見ました。喜び勇んで外へ飛び出したカールは、しかし自分を邪険にした村には目もくれず、森の中へと消えていったのです。カールは森を気に入ったのか、そこを離れなかったようで、早朝、カールが森を徘徊しているのを見つけたヨアヒムは、古い友人の私と……」
 そこで神父は少し口ごもった。
「……私に相談して、二人がかりでカールを牢に戻したのです。村人がカールを見つければ、村長の責任問題になりますからな。さて、その後は満月の晩のみ、カールを外に放して様子を見ることにしました。……そこからが誤算の始まりで」
「想像以上に犠牲者が増えたのね」
「はい。私達としては、誰かがそのうち狼男の噂を聞きつけ、銃で退治してくれればそれで万々歳だったのですが、ヘラ、……村の老婆が隣町から孫の顔を見て帰る途中に、とうとう犠牲になりました。また自警団が全く歯が立たないのも予想外の出来事でした。銃を持った若い男達が十人がかりで狼男の退治に出た時、これで全てが終わると思っておりましたが、その半分近くが帰ってこなかった……。それで私達は慌てて、ベルリンで噂になっている『薄明(デマーシャイン)』へ連絡を取って、貴方達にご足労いただいたという訳です」
「……もう一つ不可解な点が。ひょっとして貴方たちは、狼男(ヴェーアヴォルフ)が死ねば元の人間の姿に戻る事は知らなかったの?」
「夢にも思いませんでした。狼男(ヴェーアヴォルフ)なんて名前は知っていても今まで見たことがありませんでしたからな。てっきりカールは獣のまま死ぬのだろうと。そしてヨアヒムの息子はその後もずっと地下に閉じ込められている事にするつもりでした」
「なるほど……これで全て合点がいきました」
 マリーと神父が話している間も、村長はカールを抱きすくめて絶え間なく泣いていた。
「……私は、ヨアヒムを見ていられなかった。カールもこれで楽になれると思っていた。それがこんな事に……。犠牲になった者は私が殺したも同じです……」
「……」
「どこへ行くんだ? マリー」
 ハンスが訝しげにマリーに尋ねた。
 マリーは無言で馬車の方へ足を運ぶとコンラートを呼んだ。
「帰りましょう、コンラート。次の仕事が待ってる」
「お、おい、もう帰るのか?」
「私の任務は終わったわ。後は村で処理してください。私は明日の夜までにベルリンへ帰らないと」
「なんだって?」
「出立前に事の次第は州総督に話してあります。総督は群の自治体に全て任せると。私がやったと言えば、村長や神父が罪に問われる事はないでしょう。では」
「……」
 ハンスを始め、あっけに取られる村人達に背を向け、マリーは馬車に乗り込んだ。
 いまだに続くヨアヒムの嗚咽を背に、馬車はベルリンの方角へと去っていった。

「あんなに晴れてたのに、西の方から雲が近づいてる……」
 マリーが気の抜けた表情で窓を見ながら言った。
「……こんなに急いで去る必要はなかったのでは?」
 コンラートが馬車を走らせつつ、後ろに座るマリーに聞いた。
「そうね、森にまた鳥や獣の声が戻ったか、確認したかったわね」
「それが本心ですか? 本当に?」
「……あの場にいたくなかったのよ」
「そうですか、私もです。……あの村長の涙は、本物でしょうか? あれほど厄介払いしたかった息子の為に、あれほど涙を流すものなのでしょうかな?」
「本物よ。……人間は、矛盾だらけの生き物だもの」
「……ベルリンではクレメンスとカスミ様が一緒に行動しております。なんでもガーゴイルを退治するとか、到着次第合流しますか?」
「そうするわ。……またあの子、クレメンスと一緒にいるのね」
 マリーとコンラートはもうそれ以上口を開くことはなかった。村の事も一切蒸し返さず、陰鬱なベルリンまでの帰路を黙々と過ごした。

 十九世紀末、ドイツ帝国。
 蒸気によって動く巨大な解析機関(アナライティッシュ・マシーネ)の発達で、科学と自動機械(アオトマート)の技術は異形の進化を遂げた。産業機械と解析機関から吐き出される黒い煙は空を覆い尽くし、昼間も太陽が地面を照らすことはない。
 闇が、現実の世界と異界との境界を徐々に曖昧にしていったのか。それとも科学の発達が人を決して幸せにすることがない事に人々が気づいて、かえって蒙昧になってしまったからだろうか。やがて人々の夢想や情念が意識から溢れ出るかのように、奇怪な現象が空気の淀んだベルリンで起こり始めた。
 十九世紀の半ばから現れ始めた妖精や怪物の中で、特に人間に害を成すものを人々は『冥きもの(フィンスターレ)』と呼んだ。その『冥きもの(フィンスターレ)』の研究、及び退治のために創設された帝国の超法規宗教機関を『薄明(デマーシャイン)』という。
 その薄明(デマーシャイン)に集められたカトリック、プロテスタント、あるいは無神論者の者達で特に退魔専門の者達は教派にかかわらず戦闘修道士(カンプ・メンヒ)戦闘修道女(カンプ・ノンネ)と名乗り、ドイツはおろか、ヨーロッパを股にかけて跋扈するようになったが、ドイツ帝国の国民も、また外国人達も、誰も彼らをその名で呼ぶことはなかった。
 
 人々は彼らをその特異な能力と喪服を思わせる黒装束から、黒い聖者(シュヴァルツハイリゲ)
 または『帝国の黒い聖者(カイザーライヒス・シュバルツハイリゲ)』と呼ぶ。
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