涙はなぜ存在するか

文字数 1,470文字

 涙を小さじで掬いとると
 清潔な哀しみを見つけようとして
 スライドガラスに垂らしてみた
 まことに科学は素晴らしい
 プレパラートを顕微鏡で覗くと
 哀しみはフラクタル構造を成して
 優美なパターンを繰り返していた
 それはつまり
 哀しみの永続性を証し立てていた

 明日は喜びに満たされ
 未来は誰もに開かれていても
 哀しみはひっそりとどこかに佇んでいた
 過去が存在する限り
 哀しみは再帰し続けた

 それならば過去を消してしまえばいい
 無垢な声が響きわたる
 しかし過去のない人間には
 ある能力が欠けていた
 音叉のように共鳴し
 涙を流すその能力
 人間にその能力は必要なのか
 被造物には過ぎた重荷
 歴史を泥にうずめ続ける呪われた冠ではないのか

 そもそも我々は
 涙をことごとく拭い去るために
 この文明なる薄汚れた車輪を
 推し進めて来たのではなかったか
 自嘲的な声がそうつぶやく
 もしも人間が
 感情のいやはて
 哀しみを氷像として展示するその会場へと
 たどり着けないのだとしたら
 あの薄汚れた車輪
 まことに醜いあの車輪に
 轢き潰されてきた数多の人々は
 永遠に報われないのだろうか
 むごたらしく空まわりする燔祭(はんさい)
 我々は肉親を差し出してきたのだろうか

 そのとおりだ
 死者たちは機械的に量産され
 廃棄されるために生まれ授かった
 吐息のような痛みを反芻し続ける
 年老いた声が不快げにがなり立てる
 けれど死者は涙を流さない
 死者が浮かべるのは
 淡い微笑みか
 虚ろな無表情だけだ
 哀しみは死者には属さない
 生けるものたちがどれだけ涙を塗りたくっても
 死者たちは無色の公準を保ち続ける

 我々の醜い涙
 聖水をどぶに捨ててこしらえた
 不浄のしたたり
 人間の犯した恥ずべき罪科の累積
 ノアは賢明にも泣かなかった
 洪水は他ならぬ
 そのしたたりによるものだと知っていたから
 だが溺れ死んだものたちの愚かさは
 穢れに満ちた被造物の眼には
 悼まれるべき(いさおし)とも映る

 涙を知らない者を愛するのは困難だ
 だが死者は愛さざるを得ない
 矛盾はそこからやってくる
 過去もなく涙もない人間を
 過去しかなく涙のない死者のように
 どうして愛することができないのか

 子どもに過去はあるか
 薄皮一枚の過去が
 たしかな煌めきと共にある
 老人に過去はあるか
 当然だと答える傲慢が
 意外なほど過去のない人間に近づかせる
 あの泣きわめいていた人間は
 幼かったのか年老いていたのか
 心が魂に問い続ける

 続ける
 続ける
 続ける
 なにもかもが続いていく
 命が終末を迎え
 人間が地上から吹き払われても
 やはり涙を流す何者かは存在するのか
 哀しみは引き継がれるべきものなのか
 地上には死者だけとなり
 死者が涙を決して流さないのだとしたら
 涙をことごとく拭い去るという
 我々の飽くなき願いは満たされる
 その願いを裏切るだけの価値が
 涙にはあるというのだろうか

 大切なものを失った少年の涙
 他者の痛みを我がことのように感じる女性の涙
 禁じられた聖域を懐かしむ老翁の涙
 それらがなぜ愛の対象となるのか
 天使たちの仮想する
 過去のない人間にはわからない

 プレパラートの内で
 涙はもう乾いてしまった
 声を持たない科学者は器具を片づけて
 戸締りをして家路についた
 その行手にはなにが広がっているのだろう
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み