2/7 満月の夜
文字数 2,843文字
満月の夜。自宅の脱衣所で風呂に入ろうと服を脱いでいるときに、あかりはそれに気が付いた。自分の右前腕の内側が黒く変色している。
あかりは、おそるおそるその部分に触れてみる。ガサリという乾いた感触があった。干からびた感触、それはあのミイラのものであった。
サーッという音を立てて、血の気が引いていくのが分かった。暗闇の恐怖がふたたび沸き起こり、ワナワナと震え、あかりはその場にへたり込んでしまう。
土蔵に閉じ込められたあの日から、五年の月日が流れていた。あかりは、あの日のことを、過去の出来事、ちょっと不思議な体験として考えることで、気持ちの整理をつけていた。
ヒカルにしたって、そうに違いない。それを巻き込んでしまってもいいのだろうか。だけど、ほかに頼ることのできる人間はいない。あの日のことを知っているのは、ヒカルだけなのだから。
「もしもし…ヒカル…くん?」
「ん…誰?」
「わたし…あかり…」
「ああ…あかりか…」
「ごめん…いきなり電話しちゃって…」
「いや…何か用か?」
「…」
あかりはそこで黙り込んだが、しばらくの後、話を切り出した。
「今から…ちょっと会えないかな?」
「ん…なんで?」
「相談したいことがあるの…」
「…」
「駄目かな…?」
「いや…いいよ」
「ごめん…ありがとう…」
ヒカルが待ち合わせの公園に着くと、あかりがすでに来ていた。
「ごめん…こんな時間に呼び出して…」
「いや…」
電灯の明かりに照らし出されたあかりの顔は妙に青白く、目元には赤く泣きはらした跡が見えた。
「何が…あったんだ?」
ただならぬ雰囲気を感じて、ヒカルはそう訊ねた。あかりはうつむき、しばらくのあいだ黙っていたが、意を決して、「これを見て欲しいの…」と、着ていたシャツの右の袖をひじのあたりまでまくり上げた。
ヒカルは、「あッ」と声をあげた。右前腕の内側、ひじに近いところが、五百円玉くらいの範囲で黒く変色している。単なるアザのように見えなくもないのだが、やはり触ってみるとその違いははっきりとしている。ガサリという乾いた感触は、ほかの皮膚とあきらかに異質であり、あのミイラの皮膚と同じ状態であるように思えた。
「どう思う? あのミイラと同じでしょ?」
あかりの目は赤く充血していたが、しっかりとヒカルを見返していた。恐怖を感じてはいるが、錯乱していない、冷静な目だった。
「ああ…あのときのミイラと同じだ」
ヒカルは声がうわずらないように注意して、そう答えた。
ふたりは、今後の対応を話し合った。ひょっとしたら、現代医学で治療できるかも知れないので、あかりは明日、学校を休んで、念のために病院に行くことにする。ヒカルも学校をサボって、それに付き添う。病院で治療ができそうになければ、ヒカルの家の土蔵のなかをもう一度しらべてみる。それでも、何も分からないのであれば、親たちに本当のことをすべて話して、助けを求める。
「大丈夫…なんとかなるさ…」
「うん…そうだよね…」
ふたりは、努めて明るく振る舞おうとしたが、やはり、ふとした拍子に黙り込んでしまう。
「ヒカルくん…今日は本当にありがとう…久しぶりに話せて、うれしかった…」
「あ…ああ、そうだな…まともに話したのは、あの日以来だもんな…」
「そうだね…なんで話さなくなっちゃったんだろうね…それまではあんなに仲が良かったのに…」
ヒカルはそれには答えずに、黙っていた。ヒカルにはその理由が、痛いほど良く分かっていた。あかりにしても、「なんで…」などと言ってみたが、それは、とりあえずそうしたまでのことであって、なぜふたりの関係が疎遠になっていったのか、それは十分に分かっていた。
土蔵のなかに閉じ込められたあの日以来、ふたりは何となくお互いを避けるようになった。本人たちが異性を意識し始めたということもあったが、それよりも、親や教師がふたりを遠ざけるように仕向けたことが大きかった。
「幼なじみとは言えど、男と女であることには変わりは無い…」
「お互いを異性として意識するのは自然なことだとしても、一晩をともに過ごすなど、行き過ぎにも程がある…」
大人たちからの無言の圧力を感じ取ったふたりは、おのずとお互いを避けるようになり、学校や近所でばったり出会っても、視線を合わせることなくすれ違うようになっていった。しかし、皮肉なことに、第三者によって仲を引き裂かれたという意識は、逆にお互いの想いを強めることになった。
あかりはウキウキしていた。「こんな時間にどこ言ってたのよ!!」という母親の小言にも、まったく動じないほどだった。
「うん、ちょっとね!!」
あかりは明るい声でそう答えて、階段を駆け上がり、自分のベッドに身を投げ出す。ウフフ、とかつぶやきながら、携帯電話のディスプレイに、先程、入力したヒカルの番号を表示させる。そして「ヒカル」の文字の後ろにハートマークを付け加え、何がおかしいのか、また、ウフフ、とつぶやいた。
ヒカルのことを考えると、それだけでウキウキしてくるのだった。それでも、やはり、黒い部分のことを考えると、気分が重たくなってしまう。右の袖をまくり上げ、その部分を見る。黒い部分はこころもち大きくなっているように見えた。
ヒカルはその夜、夢を見た。あたりは暗闇に包まれていて、その闇の向こうから、誰かの声が聞こえてくる。その声は、か細く、あたりに反響して不明瞭だったので、何を言っているのか、うまく聞き取ることができなかった。
耳をすますと、ズルリズルリ、と何かを引きずるような音も聞こえてくる。引きずるような音はしだいに大きくなっていき、それにつれて、声もはっきりと聞こえるようになってきた。それは女の声のようだった。
「誰か、いるのか?」
ヒカルはたまりかねて、そう語り掛けた。途端に、声も音も止まり、あたりは静寂に包まれた。
ヒカルは、あたりを見まわした。心臓の鼓動が速くなる。
ここは…あの土蔵のなかじゃないのか…
まわりは完全な暗闇におおわれている。
そのとき、ヒカルのすぐ後ろから、「わたしの声が聞こえる?」と女の声がした。
思い掛けず、近いところから声が聞こえたので、ヒカルは飛び上がるほどに驚いて、振りかえるが、そこには暗闇が広がるばかりだ。
しかし、そこにはたしかに何者かがいるらしく、ごく近いところから、ふたたび女の声が聞こえる。
「わたしの顔、見える?」
その声には聞き覚えがあった。それは、あかりの声だった。
ヒカルは暗闇に向かって、手を伸ばし、その黒い物体を抱き寄せた。その乾いた皮膚は、すこしの力で簡単に崩れ落ちてしまいそうだった。
ヒカルはただ、「大丈夫だ…大丈夫だ…」と繰り返していた。
あかりは、おそるおそるその部分に触れてみる。ガサリという乾いた感触があった。干からびた感触、それはあのミイラのものであった。
サーッという音を立てて、血の気が引いていくのが分かった。暗闇の恐怖がふたたび沸き起こり、ワナワナと震え、あかりはその場にへたり込んでしまう。
土蔵に閉じ込められたあの日から、五年の月日が流れていた。あかりは、あの日のことを、過去の出来事、ちょっと不思議な体験として考えることで、気持ちの整理をつけていた。
ヒカルにしたって、そうに違いない。それを巻き込んでしまってもいいのだろうか。だけど、ほかに頼ることのできる人間はいない。あの日のことを知っているのは、ヒカルだけなのだから。
「もしもし…ヒカル…くん?」
「ん…誰?」
「わたし…あかり…」
「ああ…あかりか…」
「ごめん…いきなり電話しちゃって…」
「いや…何か用か?」
「…」
あかりはそこで黙り込んだが、しばらくの後、話を切り出した。
「今から…ちょっと会えないかな?」
「ん…なんで?」
「相談したいことがあるの…」
「…」
「駄目かな…?」
「いや…いいよ」
「ごめん…ありがとう…」
ヒカルが待ち合わせの公園に着くと、あかりがすでに来ていた。
「ごめん…こんな時間に呼び出して…」
「いや…」
電灯の明かりに照らし出されたあかりの顔は妙に青白く、目元には赤く泣きはらした跡が見えた。
「何が…あったんだ?」
ただならぬ雰囲気を感じて、ヒカルはそう訊ねた。あかりはうつむき、しばらくのあいだ黙っていたが、意を決して、「これを見て欲しいの…」と、着ていたシャツの右の袖をひじのあたりまでまくり上げた。
ヒカルは、「あッ」と声をあげた。右前腕の内側、ひじに近いところが、五百円玉くらいの範囲で黒く変色している。単なるアザのように見えなくもないのだが、やはり触ってみるとその違いははっきりとしている。ガサリという乾いた感触は、ほかの皮膚とあきらかに異質であり、あのミイラの皮膚と同じ状態であるように思えた。
「どう思う? あのミイラと同じでしょ?」
あかりの目は赤く充血していたが、しっかりとヒカルを見返していた。恐怖を感じてはいるが、錯乱していない、冷静な目だった。
「ああ…あのときのミイラと同じだ」
ヒカルは声がうわずらないように注意して、そう答えた。
ふたりは、今後の対応を話し合った。ひょっとしたら、現代医学で治療できるかも知れないので、あかりは明日、学校を休んで、念のために病院に行くことにする。ヒカルも学校をサボって、それに付き添う。病院で治療ができそうになければ、ヒカルの家の土蔵のなかをもう一度しらべてみる。それでも、何も分からないのであれば、親たちに本当のことをすべて話して、助けを求める。
「大丈夫…なんとかなるさ…」
「うん…そうだよね…」
ふたりは、努めて明るく振る舞おうとしたが、やはり、ふとした拍子に黙り込んでしまう。
「ヒカルくん…今日は本当にありがとう…久しぶりに話せて、うれしかった…」
「あ…ああ、そうだな…まともに話したのは、あの日以来だもんな…」
「そうだね…なんで話さなくなっちゃったんだろうね…それまではあんなに仲が良かったのに…」
ヒカルはそれには答えずに、黙っていた。ヒカルにはその理由が、痛いほど良く分かっていた。あかりにしても、「なんで…」などと言ってみたが、それは、とりあえずそうしたまでのことであって、なぜふたりの関係が疎遠になっていったのか、それは十分に分かっていた。
土蔵のなかに閉じ込められたあの日以来、ふたりは何となくお互いを避けるようになった。本人たちが異性を意識し始めたということもあったが、それよりも、親や教師がふたりを遠ざけるように仕向けたことが大きかった。
「幼なじみとは言えど、男と女であることには変わりは無い…」
「お互いを異性として意識するのは自然なことだとしても、一晩をともに過ごすなど、行き過ぎにも程がある…」
大人たちからの無言の圧力を感じ取ったふたりは、おのずとお互いを避けるようになり、学校や近所でばったり出会っても、視線を合わせることなくすれ違うようになっていった。しかし、皮肉なことに、第三者によって仲を引き裂かれたという意識は、逆にお互いの想いを強めることになった。
あかりはウキウキしていた。「こんな時間にどこ言ってたのよ!!」という母親の小言にも、まったく動じないほどだった。
「うん、ちょっとね!!」
あかりは明るい声でそう答えて、階段を駆け上がり、自分のベッドに身を投げ出す。ウフフ、とかつぶやきながら、携帯電話のディスプレイに、先程、入力したヒカルの番号を表示させる。そして「ヒカル」の文字の後ろにハートマークを付け加え、何がおかしいのか、また、ウフフ、とつぶやいた。
ヒカルのことを考えると、それだけでウキウキしてくるのだった。それでも、やはり、黒い部分のことを考えると、気分が重たくなってしまう。右の袖をまくり上げ、その部分を見る。黒い部分はこころもち大きくなっているように見えた。
ヒカルはその夜、夢を見た。あたりは暗闇に包まれていて、その闇の向こうから、誰かの声が聞こえてくる。その声は、か細く、あたりに反響して不明瞭だったので、何を言っているのか、うまく聞き取ることができなかった。
耳をすますと、ズルリズルリ、と何かを引きずるような音も聞こえてくる。引きずるような音はしだいに大きくなっていき、それにつれて、声もはっきりと聞こえるようになってきた。それは女の声のようだった。
「誰か、いるのか?」
ヒカルはたまりかねて、そう語り掛けた。途端に、声も音も止まり、あたりは静寂に包まれた。
ヒカルは、あたりを見まわした。心臓の鼓動が速くなる。
ここは…あの土蔵のなかじゃないのか…
まわりは完全な暗闇におおわれている。
そのとき、ヒカルのすぐ後ろから、「わたしの声が聞こえる?」と女の声がした。
思い掛けず、近いところから声が聞こえたので、ヒカルは飛び上がるほどに驚いて、振りかえるが、そこには暗闇が広がるばかりだ。
しかし、そこにはたしかに何者かがいるらしく、ごく近いところから、ふたたび女の声が聞こえる。
「わたしの顔、見える?」
その声には聞き覚えがあった。それは、あかりの声だった。
ヒカルは暗闇に向かって、手を伸ばし、その黒い物体を抱き寄せた。その乾いた皮膚は、すこしの力で簡単に崩れ落ちてしまいそうだった。
ヒカルはただ、「大丈夫だ…大丈夫だ…」と繰り返していた。