第17話

文字数 5,268文字

 商店街の終わりが見えてきた。
 古臭い灰色のレンガが並んだ地面の両脇を、小さな店がいくつもひしめきあっている。藍色ののれんをぶら下げた魚屋。真っ赤に熟れたトマトがいくつも並んでいる八百屋。緑の大きな屋根には、白い字で店名が書かれている。その隣は果物屋で、その隣が豆腐屋だ。夕方に近くなってきたこの時間は、だんだんと人が増えてくる。通りにぼちぼちいる買い物カゴをぶら下げたおばさんたちは、アサやユキ、諒を見るだけで親しげに呼びかけてくれる。
 島に唯一ある洋服屋や八百屋が立ち並ぶこの商店街は、アサとユキの遊び場だった。夏の日に海に行くことに飽きると、必ず、商店街とは言えないくらい小さな店が連なるここの通りで遊んでいた。カキ氷をもらったり、おじさんの真似をして客引きをしてみせたり。中でも、駄菓子屋にいたおじいさんには本当によくしてもらった。
「あと会ってないのは……っと」
「あー、駄菓子屋のじいちゃんじゃねえ?」
 暑そうにしながら諒が応えた。
「あっつい……あーおじいちゃん、そうだね。会ってない」
 本当に暑そうに腕を頭の上に置きながらアサも返事をした。眩しいらしく、目も細くしている。  
 そんなアサの様子をちらりと見る。
 商店街に来る前は怒っててどうしようもなかったけど、今はもう大丈夫みたいね。
 ユキは気付かれないようににほっと息をはいた。
「ねえ、でもちょっとストップ。暑すぎる。カキ氷買ってきていいー?」
 ぐたっとした顔をしながらアサが先頭を切って歩いていたユキと諒に声をかけた。振り向くと、もう耐えられないといった顔のアサが炎天下のコンクリートの上で立っている。おでこにある前髪がじっとりと汗でぬれているのが見えた。緑の野球帽は蒸れるという理由でさっさと脱いでしまっている。
「しょうがないわね。じゃ、あたしはここで待ってるから買ってくれば」
 商店街の通りの隅ある古びたベンチに腰掛けた。ちょうど日陰になっていて涼しい。
「俺、メロンがいい」
 ユキの座ってるベンチには座らないで、コンクリートの地面に直接しゃがみこんだ諒が言った。
「はいはーい。了解。じゃ、ちょっと行ってくる」
 ふらふらした足取りでぱたぱたと走りながら、アサはカキ氷を買いに行った。
「……めずらしいわね、諒が行かないなんて。せっかくアサと二人になるチャンスだったのに」
 横にしゃがみこんでいる諒を見下ろす。短い髪が生えている頭が見える。その脇にくっついている耳はほんのりと赤かった。
「いや、だって、今ちょっと二人になったら俺無理だよ、多分」
「そんなにアサが怒ってくれたのが嬉しかった?」
 足を組んで諒を見下ろすと、諒の頭が小さく揺れた。ふん、と鼻息を荒くする。
「当たり前じゃない。アサが友達悪く言われて怒らないわけないわ」
「いや、わかってんだけどさ。でも……」
 諒はそこで一度言葉を切って、それからうつむいていた顔を上げた。ユキと目が合う。
「なあ、俺やっぱ安沙奈に告ったら、無理だと思う?」
「そんなこと、あたしに聞かないでよ」
 不愉快極まりなかった。口が自然と尖って、眉がよった気がした。
「……でも」
 一瞬言いよどんで、それから諒の顔は見ずに自分の指先を強くにらみながら後を続けた。
「でも、告白するとアサが混乱するかもな、とは思うわ」
 あーあ。こんなこと、本当はあたしの本心じゃない。
 白く細い自分の指先を、わざと痛いいように手のひらに食い込ませ、こぶしをにぎる。
 諒に告白してほしくないのは、本当。だけど、アサが混乱しちゃうからっていうのは、嘘。本当は、だって、アサがあたしからいなくなっちゃう。諒より、あたしを取るなんて、信じてないけど、だけど、変わらないためには、何一つ、動かしたくない。小さな水滴が硬い石に一滴落ちるぐらいの出来事かもしれない。だけど、その一滴だって、何度も重なれば石を砕ける。どんな大きくて硬い石だって。
「っだよなあ……しかも、俺そんなカッコいいことできねーよなあ、多分」
 薫に似ず恥ずかしがりやらしく、諒は自分の頭を抱えた。ユキの考えていることは全く分からないようで、ううーと小さく唸っている。
「あーあ……せっかく、背は抜いたのになあ」
 諒は悔しそうに呟いて、じっと何もない空をにらんでいた。
 諒のその姿を見て、すぐにまた目を逸らした。自分のわがままな姿がはっきりと見えて、嫌な気持ちになる。諒はこんなにアサが好きなのに。
「……諒、」
 そんなに、アサのこと好きにならないで。
「はーい、お待たせーっ」
 カキ氷を道中歩きながら食べて元気が回復したのか、はつらつとした顔でアサが現れた。慌てて、言おうとした言葉を飲み込む。
「はいっメロンだよー」
「おっ。さんきゅー」
 諒がメロンを受け取り、それからアサはユキの横に腰掛けた。
「はい、ユキはアサと一緒にカルピス食べようね」
 カキ氷をストローでシャカシャカ音を立てながらアサが笑った。
「えっ、アサ、イチゴの方が好きじゃない。イチゴ選ばなかったの?」
 驚いてアサを見る。アサはカキ氷もクレープもアイスも、一番好きな味はイチゴだったはずだ。
「うん? そうだよ? だけど、ユキは果物の味は本物の味じゃないと嫌いでしょ?」
 当たり前のようにアサはそう言って、「はい、あーん」とストローをこっちに持ってきた。
 だから、あたしはアサがいないと……。
 口を開けてぱっくりとそれを口の中に収める。それを見て、アサが嬉しそうにえへへと笑った。口の中で冷たいそれはすぐに溶けてなくなった。カルピスの甘い味が舌の上に残る。
「あ!」
 突然、諒が声を上げた。その目は一点をにらんでいる。
「なあ、あれ、あいつじゃねえ?」
 諒はすぐさま立ち上がって、お店の陰になっているところから、炎天下のコンクリートの方に歩き出した。慌てて、ユキとアサもその後を追う。
 諒は商店街が続く道をまっすぐ下って、階段があるところまで出る。階段を下ると、海が一望できる公園があり、そこの公園についている階段をまた下ると、アサとユキがさっき降り立った港が広がっている。つまり、港を一段目と数えるなら、この商店街は三段目にあるのだ。二段目は、誰もいなくなった小さな公園だ。公園は夕日にだんだんと照らされていっている。西日が滑り台や、ブランコを切なげに揺らし、それらは小さくぎいっと音が鳴っている。砂場には、誰かが作った砂山が、トンネルが貫通していないままで残されている。きっと、明日になったらトンネルを完成させるつもりなのだろう。海からの強い風がユキの髪を巻き上げているのを感じながら、諒が指差す一点を見つめた。そこには、海岸を走っていく、あの色が異常に白い孫がいた。
「あー、何だ。外出たことあるんだ」 
 そんな呟きがアサの口からこぼれた。
「当たり前じゃない。そんな、一回も外に出たこと無いやつなんて、いないでしょ」
「うん……そうだけど、でもあんまり細くて白かったから。ね、諒?」
「ああ……確かに異常に白かった……それよりもさ、あいつ、速くねえ?」
 海の潮の匂いを含んだ風が諒の前髪を吹き上げている。諒はそれでも、ただその走り続ける孫を目で追っていた。
 諒の様子に気おされるように、ユキも孫の方へ視線を移した。孫は海岸を一直線に走り続け、しばらくしたらまた港の方へ全速力で戻ることを何度も繰り返していた。波が海岸に打ち寄せ、海はオレンジ色に染まりつつある中、孫の姿だけが夕方の海辺とミスマッチに白く見える。
「速い……かしら?」
 ここからじゃ、そんなに速いようには見えない。孫の白いランニングシャツと黒っぽい長いズボンが異様にたなびいている様子だけが目に映る。そもそも、ユキはいつもアサと一緒にいるのだ。アサのように、化け物みたいに足が速い子と一緒にいると、普通の感覚が鈍ってくる。
「……速いよ」
 アサが小さく呟いた。さびれた手すりにつかまりながら、身乗り出していくことを抑えているように、食い入って見つめている。
「だって、あそこ、砂浜だよ? 砂だらけで足だって取られるはずだよね。なのに、全然、もたついてる感じしない。綺麗なフォームしてる」
 アサがそう言うのだから、確かなのだろう。諒とアサからまた目線を孫へと戻して、いつまでも止まろうとしない孫を目で追っていた。あんなに無言で走っている人を久しぶりに見た気がした。
「あっ思い出した!」
 突然、諒が大声をだした。驚いて諒の方を向く。諒はずっと引っかかっていたしこりが取れたかのように、「そうだよ……あいつだ」と呟いている。
「何? 何思い出したのよ?」
 ユキが聞くと、諒はすんなりこっちを向いた。
「いや、さっき良子おばさんが颯って怒鳴ったときからなんか、頭に引っかかってたんだよ。あれ、多分、俺の学校の陸部が言ってたルーキーだよ。石井颯。噂の一年」
「るーきー?」
 アサがいまいちつかんでいないような声を出してユキの方を振り向いた。
「新人ってことよ。何? 陸部だったの、あの子。あんなに色白いのに」
「ああ、陸部だったんだよ、一ヶ月だけ。なんかな、先輩とかと上手くいかなかったらしくて。そんで、さっさと陸部止めたって話。俺の陸部の友達が言うには、すんげえ速かったらしいよ。部活内で一番だったかもしれないってさ。あいつ自身も、今まで一度も負けたことないって言ってたらしいし。だから、俺の友達は速いやつを逃したって辞めたこと結構惜しんでた。でも、みんなに嫌がられていたらしいけどな。性格が最悪らしくて、あいつのせいで泣いたり、辞めようとした奴もいるらしいし……」
 諒が言葉を区切るや否や、アサは突然持っていたカキ氷の空になったカップをユキに押し付けて、公園と続く急な階段を下り始めた。下りるというよりは、飛んでいった感じだ。途中、何度も階段をすっ飛ばしていく。
「あ?! ちょっとアサ?」
 アサから渡されたカップを今度は諒に押し付けて、慌ててユキもその後を追う。下から吹き込む風がワンピースのユキの邪魔をして上手く下りることが出来ない。薄い青色のワンピースのすそを抑えながら、何とか公園まで下りきる頃には、アサはもう港へ続く階段を下り始めていた。
「あ、ねえ!」
 やっと港まで下り終わり、すぐに先に行くアサのところまで走って追いついた。頼りなさ気に揺れていた細い腕を捕らえる。
「ちょっと、いきなりどうしたのよ?」
「……ユキ、アサさ、やっぱまだ許せないんだよね、あの子のこと」
 厳しい目のまま颯をにらみながら、アサはまるで自分に言っているように小さく呟いた。アサの小さな呟きは、口からこぼれては、そのたびに風に飛ばされてユキの耳に居残ることなく消えていく。
「だから、そんなに負けたことないなら、アサが一回負かせてあげる」
 アサはこれから楽しいゲームが始まるとでも言うように、うっすら口元を横に伸ばしていた。 
ユキの胸で、小さくトクンと心臓が鳴った。
 こんな、アサ、あたしは知らない。
 あたしが知ってるアサは、何に対しても笑顔で、朗らかで、純粋無垢なアサだ。
 こんな……。
「ね? いいでしょ、ユキ!」
 甘えている子猫のような顔でアサは突然ユキを上目遣いで覗き込んだ。
「え?」
「お願い! 勝負させて!」
 さっきの気迫のある顔などまるで無かったかのように、アサがくるっと表情を変えた。
「ジャッジ、やってくれる? どうしてもやってみたいの」
「え、ええ。まあ、いいけど……」
「ほんと?!
 うわーい、と両手を挙げて満面の笑みで顔をほころばしてから、アサは颯がいる波打ち際の方へと走っていった。その様子をただじっと後ろでユキは眺める。立ち尽くす、という表現の方が合っているかもしれなかった。波の音に混じってずれかかっている歯車がカタカタ小さく音を立てているのが聞こえた気がした。
「はあ……。お前ら、本当常人じゃねえよ……。何? 何だって、安沙奈」
 やっと追いついた諒が、少し肩で息をしながらユキの横に立った。無理やり渡された空のカップは公園のゴミ箱に捨ててきたらしい。
「……勝負」
「はあ? 勝負?」
「そっ。勝負、するんだって。噂のルーキーと」
 交渉をしているアサをじっと見つめながら、諒の質問に答える。
「何でいきなり勝負……?」
 諒は全く分かっていないような顔をしながら、暑そうにシャツの裾をパタパタ引っ張っている。その様子を横目でちらっと見て、口の中を強く噛んだ。
 ――なあ、俺やっぱ安沙奈に告ったら、無理だと思う?
 さっきの諒の言葉が、耳がジンジン鳴るほどありありと蘇る。手汗が急に出てきた。別に、そこまで暑いわけじゃないのに。
 ぎゅっと両手を握り締めて、諒を残してアサの方へ歩き始めた。
 無理だと思う? ふざけないで。あたしに聞かないでよ。
「……そんなこと、知らないわ」
 これ以上、アサとあたしを囲むセカイを変えていかないでよ。
 歯と歯の隙間から吐き出されるように漏れた言葉は、誰が聞くこともなく、夕暮れの海の風に吹き消された。
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