第二章・第一話 二人の相剋
文字数 7,434文字
まだ、言いたいことは言えていない。
このままなし崩しに抱かれたら、江戸に残ることを納得させられそうだった。
何とか押し
息を呑んだ隙を突くように、彼の指先が和宮の身に着けた着物の帯を緩め、熱を
「ッ……
「何」
「誤魔化さない、でっ……!」
「誤魔化してなんか、ねぇよ」
「嘘、ン」
それ以上言わせないとばかりに、彼の唇が
角度を変えて繰り返される口付けに、程なくほかのことは考えられなくなった。
***
目を開けると、周囲はすでに明るかった。
自分は
普段なら、寝室以外の場所で肌を重ねたとしても、起きたら彼の美貌が目の前にあったのに――覚えず、敷布を握り締めて身を縮める。
これから、こんな朝が幾度となく繰り返されるかも知れないのだ。
もっとも、これまでだって毎日顔を合わせていたわけではない。
けれども、同じ江戸城内にいると分かっているのと、江戸と京という何里もの距離を隔てているのとでは、まったく違う。
(……嫌だ)
思っただけで、おかしくなりそうだ。
仮に、周囲の圧力によって離縁させられる可能性が絶対にないと保証があれば、気の持ちようも違っただろう。だが、和宮の
――
(……人をバカにするのも大概にしてよ)
和宮は、無意識に唇を噛み締めた。
大体、以前の婚約を破談にしたのは誰か。最終決定を下したのは、兄帝だ。兄さえ首を縦に振りさえしなければ、自分は今頃、
もちろん、家茂と相愛になった今、昔に戻ることなど考えられない。家茂と離縁し、熾仁と再婚するくらいなら、尼になるか死ぬかしか選べないと言い切れる。
が、もし最初の婚姻が予定通りに
熾仁の本性を思えば、そんなものは仮初めの幸福だっただろうが、そんなこと、知る
しかし、和宮は外の世界を、家茂を知ってしまった。最早、ひとときでも離れていたくないほどに、彼を愛している。
こんなことになるなんて、
(なのに、何で)
どうして、婚儀から一年も経たないのに、引き離されなくてはならないのか。何か、家茂と引き離されない手段はないか。
彼の留守中に、彼と離縁させられないという絶対の保証を得ることさえできればまだ耐えられるだろうけれど、そんな保証さえないと思い知らされた。
(一緒にいたいだけなのに)
思った途端、涙が溢れて、ボロリと目の外へ転がる。
キュッと目を閉じた直後、「宮様」と控えめな声が、室外から掛かった。邦子の声だと分かっていたが、返事をする気分でもない。
一拍置いて、障子戸が開くのが分かる。和宮は、コロリと寝返りを打って、出入り口に背を向けた。
静かに障子戸が滑って、閉じる音がする。
「……
続いて背後から掛けられた声は、邦子のものではなかった。母親の
目を見開き、無意識に頬を
ややあってから、彼が背後に座る気配がする。
「……ごめん」
続いた謝罪に、また目を
「
「ッ……」
家茂、と呼ぼうとしたけれど、上手く声が出ない。代わりに、また涙が溢れ出た。
こちらの沈黙をどう取ったのか、家茂もまたしばしの沈黙を挟んで、「ごめん」と謝罪を繰り返す。
「しばらく……俺も頭冷やすわ。じゃあ」
「待っ……!」
当面、来ないような言い方に、和宮は勢いよく彼のほうを振り向いた。とっさに伸ばした手で、彼の袖を掴む。
「……
「……やだ。行かないで」
家茂は、驚いたような顔で和宮を見つめた。涙は止まっていないけれど、顔を整えていたら、その
「違……ごめ……」
焦って、自分でも訳の分からないことを口走りながら、空いた手の甲で目元を覆う。だが、中々涙は止まってくれない。
自分がこんなに涙腺が弱くて、面倒くさい女だなんて、知らなかった。
「待って……今、止める、から」
「……いいよ、別に」
不意に上から返事が降って来る。
彼の袖を掴んだ手を取られ、引き剥がされたのかと思ったが、直後には彼は掛け布団をめくって、布団へ入り込んで来た。
「え、家、」
予想外のことに動転し、その拍子に涙が一瞬止まる。その
「……嫌?」
抱き締めておいてから訊くのか、と思ったが、それを口に出す元気も余裕もない。
考えるより早く、和宮は家茂の背に両手を回してしがみついた。
「……ごめんな。昨日は俺も余裕なくて……あんな八つ当たりみたいなこと」
「……ッ」
あれから和宮もまだ、気持ちが整理できていない。言うべきことが分からなくて、ただ首を横へ振る。
それでも、家茂も余裕がない、ということだけは、和宮にも分かっていた。
多少強引でも、こちらへの気遣いだけはいつも忘れない彼が、あんな――彼自身が『好かない』と言っていた、無理強いに近いような抱き方をしたという時点で、それは明白だからだ。そのあと割とすぐに自己嫌悪に陥っているところは、やはり彼らしいと思う。
「……悪かった。でも……京へ連れて行かないのは、譲れないから」
「あんたが、京に……行くのも?」
ポソリと涙に濡れた声で訊くと、和宮の髪を優しく梳いていた彼の手が、小さく震える。
「……お前にはなるべく、政治的なことは忘れてて欲しいんだけどな」
自嘲気味に言った彼の唇が、頭頂部へ落とされるのが分かる。
「……やっぱり、無理なんだね」
クス、と釣られるように、和宮の口からも自嘲の笑いが漏れた。
「何が」
「……あたしたち、出会いからして政治的だったのに……ただ一緒にいたいなんて、普通の恋人みたいなこと……あたしが、贅沢な高望みしてただけだよね……ごめんなさい」
「……
彼の指先が、そっと頬に触れる。促されるように顔を上げると、どこか痛みを
「……口付け、していいか」
面と向かって、しかも真面目に訊かれて、一瞬頭が真っ白になる。次いで、じわじわと頬に熱が上るのが自覚できた。
「……そっ……そんなの、改めて訊かないでよ」
どこに目を向けていいか分からなくなって、視線が泳ぐ。
すると、彼はまた小さく苦笑した。
「……昨日、あんな抱き方したからな。嫌だったらどうしようかと思って」
全面的に自嘲に満ちた声音に、思わず視線が彼の顔に戻る。
和宮から触れなかったら、もう二度と彼は和宮に触れてくれないのではないかとさえ思えた。だから、躊躇わずに自分から彼の唇に、自分のそれを押し付ける。
触れるだけの口付けを繰り返す内、家茂は怖ず怖ずと自分からも和宮の口付けに応え始めた。やがて、互いの腕は互いの身体に回り、徐々に口付けが深くなる。
「……家茂……」
「……もっと触って平気?」
「……平気だけど、今はだめ」
「何で」
「まだ明るいから」
「夜まで待てない」
「ちょっとでも悪いと思ってるなら、今はお預けよ」
和宮は、悪戯っぽく言って、家茂の唇に人差し指を当てる。
「それに、どうせ『
家茂は、目を丸くし、次いでまた苦笑した。
「『明けぬれば』か?」
百人一首の内の一首だ。家茂も、当然知っているらしい。
「俺に言わせりゃ、『なほ恨めしき』ってトコだけどな」
「恨むなら、自分の所行を恨むのね。って言っても、あたしはあんたが思うほど気にしてないのよ。
一度離れた顔を伸び上がるように近付けて、自分の唇を家茂のそれにまたそっと押し当てる。
「……あたしも、みっともなく取り乱したから、それで手打ちにして。政略で一緒になったクセに、立場も忘れて……バカみたいよね」
「……じゃ、お言葉に甘えるか」
言いながら、家茂が和宮の唇を啄み返した。
「もっとも、立場忘れそうになるのは、俺も同じだけど」
唇を触れ合わせたまま、視線を絡め合う。
「仕方ないじゃない。悔しいけどベタ惚れなんだから」
「お互いにな」
「だから、あたしも譲らないわよ」
話を戻すと、家茂は目を丸くして和宮を見つめた。
「……もしかして、まだ京まで付いてくるって言うつもりか?」
「せめて、政略でまた離縁強制されないって保証があれば、留守番してるけど」
言っているとまた泣きそうになって、和宮は俯く。
「……それなんだけど」
急にまた真面目な声が頭上から聞こえて、慌てて涙を呑み込んだ。
「今回、俺が発つ時点でそれは保証できないけど、京に行ったら主上に確認してみるよ」
「え、それって……」
顔を上げると、今度は神妙な顔になった彼と視線が合う。
「姉小路公知が言ったことだよ。本当に主上が俺らを離縁させるって
もし後者なら、俄然公知を許せない。和宮はふと、目を伏せて考え込んだ。
「……ねぇ、家茂」
「ん?」
「出発の日って、いつ?」
「……来年の二月十三日の予定だけど」
答えた家茂の口調は、どこか身構えているような感じだ。
「……じゃあ、本当に丸っと二ヶ月あるんだ」
「……何だよそれ。俺が誤魔化してたとでも?」
今度は若干、気分を害したと言わんばかりに表情が不機嫌になる。しかし、和宮はあっさりと返した。
「だって散々誤魔化そうとしてたじゃない」
直線的な物言いに、整った顔は、ばつが悪そうに
クス、とまた一つ苦笑して、和宮は口を開いた。
「……分かった。あたしからまた、お兄様に
「お前が?」
「うん。言ったでしょ。京にいる時だって、折に触れて文のやり取りはしてたって。実は
はあ、と溜息を
「二ヶ月あれば、お兄様のご返事をもらうことはできると思う。ただそれが、お兄様の手にちゃんと渡るか、渡ったとしても内容が周囲に漏れないか、漏れたとしたらお兄様からのご返事が周囲の思惑を含んだモノにならないかっていう不安がないって言えば嘘になるけど」
「……それ、御台所の呼称の件に関しても、同じこと言えるんじゃないか?」
痛いところを突かれ、和宮は言葉に詰まった。
「それに、仮に主上からご自身の個人的な思考だけで返信がもらえたとしても、俺の京行きがなくなるわけじゃないぞ」
「分かってるわよ」
今回、家茂は自分たちの婚姻に関することで京に行くのだ。そして、自分たちの婚姻は政略で、つまり家茂の京行きは単なる旅行ではなく、政務なのだ。
要するに、仕事だ。それは重々分かっていたつもりだったが、色々あり過ぎて、つい自分の感情だけに溺れていたことにようやく気付く。
(……恥ずかし……)
脳裏でそれを改めて整理すると、幼子さながらに泣きながら『離れたくない、行かないで』だの『一緒に行きたい』だのと喚いた自分が、急に恥ずかしくなって来た。
「……
必死に下を向いて、無意識に家茂にしがみついていたらしい。
「おい、どうしたんだよ」
「……何でもない」
「何でもないことないだろ。言ってみろって」
「無理」
「何が」
「だめ。言ったら恥ずかしくて死んじゃう」
「……それ言ったら、
家茂は、和宮を抱き返しながら、やや長い溜息を吐いた。
「……昨夜の自分思い返したら、俺も恥ずかしさだけで死ねそうだよ。だから、お互い様だろ」
「……だって……」
「うん?」
「……だって、分かってたのに」
「何が」
「仕事だもん。個人的感情なんか、本来挟める余地もないことだって、頭では分かってるのに……」
和宮は、殊更彼の身体に抱き付いた腕に力を込め、顔を彼の胸に
「元はと言えば、あたしが悪いんだよ。あたしが……輿入れしてきた理由の仕事を放棄したから、今あんたが困ることになってんのに……」
それなのに、家茂には傍にいて欲しい、離れたくない、危険な目に遭って欲しくないなど、利己的にもほどがある。じわじわと、また新たな恥ずかしさがこみ上げて来て、とても彼の顔を見られたものではない。
「……じゃ訊くけど、
「……無理」
これが仮に、熾仁に心を寄せたまま江戸城まで来て、家茂とは何の接触もなく、彼を愛していなかったらできただろう。婚約者と引き裂かれたんだと好きに八つ当たりし、その延長で攘夷を迫り、困っている様を見ては溜飲を下げまくったに違いない。
けれども、今は無理だ。愛する彼が困るようなことを、和宮自身も無理と理解できているようなことを、面と向かって『やれ』なんて、口が裂けても言えない。
「だったら諦めろよ。俺だって本当は『攘夷をいつするか』なんて話、しに行く気、更々ねぇんだから」
「……今サラッとすごいこと言わなかった?」
「言ったかもな」
クス、と耳元へ苦笑が落ちる。
「代わりに、お前を本当に、俺の妻にする為に行こうと思ってる」
「えっ?」
思わず顔を上げると、待っていたかのように彼の掌に頬を捕らえられる。
「……やっとこっち向いてくれた」
「あ」
慌てて身体を引こうとしても遅い。両掌で頬を優しく押さえ付けられ、そっと口付けられる。
「お前が、俺に攘夷を推進するようにせっつく仕事、もうしなくて済むように頼んでみるよ。それで俺の妻でいる意味がないって言われたら、仕方ないから……」
「一緒に死ぬわ」
この言葉だけは、家茂は和宮に言えないと分かっていた。
家茂は、和宮との結婚に当たって、愛する女性を殺されている。それは、愛しい女性を、死という形で失っているということだ。
だから、以前に『心中する覚悟くらいある』とは言っていたが、きっといざとなったらやはり、和宮を生かす方法を考えるだろう。そうでなくても、和宮に『死のう』とは言えないはずだ。
食い入るように見つめていると、ややあって、家茂の顔は苦笑に歪む。
「……お前に頼まれたら、俺は断らないよ。喜んで心中するけど、それは最終手段にしないか」
片腕で手枕した彼の、緩く握った拳が、柔らかく頬を撫でるのを心地よく感じながら、和宮は目を丸くした。
「最終手段?」
「そ。本当に『ただの夫婦』でいる為に、何もかもやってみて、万策尽きたら、一緒にあの世にでも行くよ。俺の奥さんの望むままにな。でも、死ぬ覚悟があるなら、ほかの選択肢も考える余地に加えてくれないか?」
「ほかの選択肢って……生きて駆け落ち以外に何かある?」
眉根にしわを寄せると、家茂はまた微苦笑する。
「まあ、大別すると同じなんだけど……」
そして、チラリと部屋の外へ目をやった。しばらく沈黙を挟んだかと思うと、家茂は顔を近付け、声を
「国外逃亡」
「国外って……異国に逃げるってこと?」
釣られて声を小さくしながら確認すると、家茂はうっすらと不敵に微笑した。
「ああ。日本なんて所詮、世界から見たら小さい島国だ。身を隠しても、捜す場所が限られてくるから、草の根分けても捜されたら結局一生逃げ回るしかないだろ。でも、外海に出ちまえば、話は別だ。黒船が来ただけで右往左往してた幕閣や、異国を打ち払うことしか考えられない朝廷なら、まさか駆け落ちって言っても俺らが異国に逃げるトコまでは発想の土台にも乗らねぇだろうぜ」
思わず唖然とした。土台も何も、和宮とも発想がまるで違いすぎて、思考が追い付かない。
しばし、こちらの答えを待っていたらしい家茂は、沈黙がしばらく続いたあと、何度目かで苦笑を浮かべた。
「……まあ、少し考えてみて、その気になったら言ってくれ」
「……本気?」
「今はまだ、考えてるってだけ。あの世に逃げる一歩手前の切り札としてな。あの世に逃げるのは、もう本当の奥の手だ。使ったらそれでお終いだから滅多なことじゃ使えないし、俺が今あの世に逝っちまったら、民を守る人間がいなくなるしさ」
「あ……」
またも、ハッとさせられる。
結局自分は、二人のことしか考えていなかったと気付いて、先より酷い羞恥に襲われた。
『あたしより民が大事?』なんて、死んでも訊けないことだ。一瞬でもそう思ってしまったことが、恥ずかし過ぎる。
「……どした?」
再度、思い切り下を向いたのに気付いたのか、家茂の声がまた上から降って来る。
「何でもない」
「また言えないことか?」
「言えない。これはもう、死んでも言えない」
「……じゃ、訊かないでおいたほうがよさそうだな」
「そうして」
「――て、俺がそう簡単に引き下がるとでも思ってんのか?」
「へ?」
反射でまた顔を上げる。すると、不敵に笑った家茂の唇が、自分のそれに触れた。
「まあ、訊きたいことは、今夜にでも聞かせてもらうよ」
艶めかしいような微笑には、嫌な予感しかしない。
その夜、甘すぎる拷問に耐え兼ね、結局面倒な女の定番のような台詞を吐かされてしまったのは、言うまでもない。
©️神蔵 眞吹2024.