第4話

文字数 4,277文字

漸くわかった。恵は・・・。私にされたようなことは、されていなかったのだ。兄弟姉妹を差別する。誰かを溺愛し、他を蔑む。愛されている方は、一見幸せなようだけれど、実は同じく被害者であることを最近知った。愛されている実感があるので、やりたい放題。買ってもらいたい放題。全てお膳立てされているので、考えることは不要。いつもベストな状態を、用意してもらえる。その結果、どうなるか・・・。考える力を奪われていく。面倒くさいことには、手を染めない。何かを放棄しても、決して叱られない。むしろ、同情される。このよくわからなかった現象も、恵に当てはめてみたら、膝をバンバン叩くくらいに納得できた。
 いつも流され、あれもダメ、こっちも向いてない、と仕事を転々とし、男性とも長続きしない。
 そして、
「あの人がわかってくれないから、あっちの方が悪い」
 とよく言っていた。
「お姉ちゃんなんだから、奈っちゃん我慢しなさい!」
 母が、頻繁に使った脅し文句。でも、それは変えられない事実でもある。母の言うことに、少しは同意出来たから、姉として引いた時も多々あっただろう。普通なら、妹と差をつけられていれば気づくはず。でも、おそらく私は今日、明日を生きるのに精一杯で、周囲を見る余裕はなかったのではないか。まぁ、たとえ気がついて、
「なんで、恵だけかわいがるの?」
 と聞いたところで、
「バッカじゃないの、あんた。私がそんなことするわけないでしょ。あんたの被害妄想。ひねくれてるから、そんなこと考えるのよ」
 と言われただろうけど。
 何故私は、こんなことをされても、道を踏みはずさなかったのか。母にとって良い子でいたかったわけではない。一番大きな理由は、
「こんな人のために、グレて人生無駄にしたらもったいない」
 ということだと思う。未成年がやりがちな「おいた」をして、補導なんてされてしまえば、それだけ自由になる瞬間が、先延ばしになる。監視の目がきつくなるだけだ。私は、一刻も早くあの家から、逃げ出したかった。
「ねー、お姉ちゃん」
 相当に遠くまで、心が旅をしていたらしい。恵の執拗な呼びかけに、はっとする。
「だから征二は、かわいそうなのよ。そういう弱い立場にいる人には、ちゃんとそのことをいつも心において接してあげないと」
 そうですか。なるほど。こういうところ、母と同じ。人柄云々の前に、データありき。どこどこの大学出ているとか、一部上場企業に勤めているとか。征二は、会ったばかりの私達に、こんなこと言えて、おまけに痣まで見せてくれるのだから、大丈夫だ。本当に苦しい人は、そういう行動には出ないだろう。現に私は、子供時代のことを話そうと口を開こうとしても、食道のあたりにラムネのビー玉が詰まったみたいになって、声が出ない。だからある意味、私は征二を尊敬する。
「征二ね、お兄さんばかりかわいがって、弟の征二はまるで存在しないかのように扱われたんだって」
 愛されたのは、上の子の方か。我が家とは、逆のパターン。
「それでね、あんたみたいな子が生まれてくるとわかっていたら、産まなかったとまで言われたんだってー」
 そうか。母親からは言葉の暴力で、父からは身体的暴力。兄は、かばうと父から殴られるから、見て見ぬ振りをしていたのかも。よくある話だ。
「私が涙出ちゃったのはね、お母さんが知り合いに話してたんだって。仕事が忙しくて気づいたら、二人とも高校生になってましたの。上の子は初めてってことで色々思い出があるんですけど、弟の方は思い出そうとしても、全然記憶にないんですの、小さい頃のエピード。たまに、あー思い出した、なんて話すと、母さんそれ兄ちゃんのことだよ、なんて言われて・・・と笑い話にしてるんだってさ。征二本気で傷ついてたよ」
 だったら、産むな。征二の母親も、思いのほか傷つけ上手だ。この母親も相当なものだ。関係ないとは思いながら、征二の母親を憎たらしいと思った。私に話した程度だと恵も心を動かされないと思ったのか、よりディープなエピソードを披露してきた。脱帽。しかし、恵を泣かせても、私は涙一滴こぼさないから。私は、絶対に同じ境遇の人と添い遂げるつもりはない。幸せいっぱいの少年時代を過ごした人と巡り会い、ずっと後になって、
「実はねー」
 と一世一代の打ち明け話をしても、
「なぁーんだ、そんなこと。大丈夫だよ、これからは、僕がいるからさ。もうそんな思いはすることないからね」
 と、全く根拠もないくせに、言い放ってほしい。
 同じ経験の持ち主だったら、どうなるだろう。
「僕も同じだよ」
 辛さの競い合い。希望を持たないで育ったゆえに、いつもネガティブなところから、思考をスタートさせてしまい、
「どうせ人生なんて」
 みたいになる。絶対に、なる。それだけは、避けたい。だから、征二はアウト。話を詳しく聞きたくなかったのも、そういう理由だ。
「征二は、私が守ってあげようと思うけど、私に出来ると思う?」
「出来るんじゃないの?」
 どうでもいい。守れるわけが、ないでしょ。何から守ってあげると言うのか。恵のこういう思い上がったところは、本当にうっとうしい。
 そして、言われるなと構えた瞬間、飛んできた棘を持つ言葉。
「やーねー。お姉ちゃん。いつもそんな醒めた感じ。だから、彼氏出来ないのよー」
 人を傷つける言葉とそうでない言葉を区別できない恵は、きっと他の人に対しても同じ罪を犯しているに違いない。果たして恵には、女友達はいるのか。一度も話を聞いたことが、ない。人が去っていく理由も、思い当たらないのだろう。痛々しい。
 彼氏の場合も、容姿で寄っては来るけれど、恵の性格を知って、さりげなく離れていくのだろう。それを、恵の方が飽きたから別れたと、ずーっと思い込んでいる、哀れな妹、恵。
 言われた言葉は、ストレートに心に刺さりそうになったが、今回は、
「そもそも征二は、私のことが好き」 
 という分厚い盾に守られ、無傷だった。本当のことを言ってやりたいが、姉としての矜持が、それを邪魔する。こんな事を言われた相手を気遣う必要なんて、全くないのに。
 母にもきつい言葉で言い返すことが出来なかったのは、それで母が傷ついたら・・・と思ったからだ。
 母が、というより、この世にもう一人心痛める人が増えることが耐えられなかった、のかもしれない。しかしながら、今思うと、きっと取るに足らない存在の私が何を言おうと、何も感じなかっただろう。耳元に突如プーンとやってくる蚊のようなちっぽけなアクシデント。その不快な音にイラついたなら、パンと手を打って成敗してしまえば良い。母と私の関係は、それほどいびつだった。
 泣いたって、ダメだ。ギリギリまで堪えて、のどの奥が締め付けられるような痛みを伴って来ても、我慢。時に堪えきれずに、ツツツーと落涙でもしようものなら。
「何泣いてんの? これしきのことで泣くなんて。バッカじゃないの?」
 この小さな「ッ」に込められた愛情のなさ、または込められなかった慈しみのことを、私はどこか遠いところで自分のことではないような心持ちで、感じていた。
 私への、禁忌。それは、甘えること。恵には、到底理解できないだろうが、彼氏ができないのではなく、作る勇気がないのだ。誰にも甘えずにこの年まで来れば、甘えようとしてもぎこちなくなるだけだろう。二十歳をとうに過ぎて、自転車に乗る練習を始めれば、転び方も身体が大きくなった分派手になり、コツもつかみにくい。しまいには、転ぶことが怖くなり、本来の目的はどうでも良くなってしまう。それと、同じだ。
 私は、この先も恋愛はできないのだろうか。昨日の電車での出来事を思い出してみる。私は、運よく座れた。ドアの所に、とても美しい男が立っていた。下を向いて電子機器に没頭するでもなく、一日の疲れをまとってしまったためにボーっとするでもなく、車外の過ぎ行く夕刻の街並を楽しんでいるような、まなざし。横顔だけでも充分に美しいが、人の波に押されて角度が変わった時に確認した正面の顔は、息を呑むほどに整っていた。一駅、二駅。私は、座りながらちらちらと彼を見ていた。同じ駅の住人だったらいいな、と淡い期待を抱きながら。
「気づかれたか?」
 と思う瞬間もあり、結構スリリングなひと時だった。残念ながら、彼の方が先に降りてしまった。見納め、と思ってドアが開く直前にあからさまに見つめた。それから、三、四秒後、私の背後のガラス窓が、コンコンと叩かれた。振り向くと彼が私を見下ろし、ニカッと笑い「バイバイ」というふうに手を振った。そして、人ごみに消えて行った。
 やっぱり気づいていたか。でも、嫌な気分ではなかったのだろう。こんなサプライズで、応えてくれた。ドキドキ。遠い昔の片思いの頃の心臓の鼓動と、同じ種類。
 一週間位何も食べなくても、栄養満点のこの笑みがあるから生きていかれる、と思うほどの強烈なもの。笑顔は「破顔」という感じで、別人かと思うくらいの天真爛漫な印象だった。
 スーツを着用していたが、バッグは背中にしょえるようなデザイン。それを、右手に持
っていた。革だけれども、あまりにしなやかで、黒とところどころ入る黄色いラインが一般企業に勤めているのではないだろう、と推測できた。
 果たしてどこかで再会したら、私からのアプローチは、有り、だろうか。
「あの時の・・・」
 と言えば、覚えていてくれるのか。それとも、ほんの気まぐれで、全く記憶に残らないのか。本当に気になったなら、コンコンなんてしないで、車内にいるうちに私に話しかけてくれば良いのだし。
 私は、母によりずっと自分を否定することを強いられてきたので、私のことが気になったから、窓を叩いた、と思ってはいけないのだ、という思考回路が先に立つ。それは、真実を知って、
「ほらね、やっぱり」
 と落胆しないための予防線でもあるが、期待して裏切られるくらいなら、最初から何も感じない方が良い、というふうだ。映画やコンサートだって、そうだ。現地に行くまでの交通のトラブル、コンサートであれば出演者が急病で中止になることもある。だから、自分の気持ちにクレシェンドを掛けないようにする。現に私は、母により、楽しい計画をいくつも反故にされている。
「期待した方が馬鹿だった」
 と思わないと、やり過ごすことはできない深い深い悲しみだった。
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