過去から救ってくれるのは、今関係している誰かであること~⑥

文字数 874文字

 なんでだろう。変な声だと言われ続けていたから。それは自覚している。それに、男らしくないと、特に言ってはほしくなかった人にまでも、言われたから。ああ、そうか――嫌なことを思い出した。変声期直前、密かに憧れていた同級生もその中に入っていたっけ。それで、この声は世の中の誰にも受け入れられないんだ、と思い込んでしまったのかもしれない。これなのか。いや、これが全てではないとは思う。ただ、当時は深刻な問題でも、今となってはもうどうでもいいことだった。なのに、それが呪いのように「今の僕」を縛り続けているとは。
「まずは気付くこと。ちゃんと自覚すること。それが重要よ」と、紗枝さんは言った。
 気付いたかもしれない。でも、今から全部をやり直す、なんてことができるんだろうか? 歌がちっとも上達しない、才能が無い、この現状が簡単に変わるとは思えない。
 やはり、気の遠くなるような地道な練習しかないのだろう。結局、結論は先日アドバイスを受けた時と変わらないのだろう。
 すると、僕の顔が曇ったのを察したかのように、紗枝さんが言った
「あなたの声には、今言ったような問題があった。だから、上達しない理由というのは、前にも言ったけど、もしかすると――ドベネックの桶の可能性があるのよ」
「え?」
 そういえば、その言葉、前回も去り際に聞いたけれど。
「ドベネックの桶、というのは、ある事象の例えでね――」
 紗枝さんの説明によるとそれは、元々は植物の生育要因の因果関係の説を説明するモデルのことなのである。
 植物の生育の良し悪しは、必要な養分の内で最も少ないものによって決まる、という説について、そのイメージを、壁面を囲う板の長さが個々に違っている桶で例えたものだ。個々の板の長さを各養分の量、溜まった水を植物の生長度合に見立てると、水は一番短い板の分までしか入らない、つまり一番不足している養分の分までしか育たない、ということを視覚的に説明しているモデル図なのである。

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