終章

文字数 7,620文字

終章

時間は過ぎて、午後もとうに過ぎ、夜が訪れたその時、手術室から一台のストレッチャーが吐き出されてきた。

「あ、終わったみたいだぜ。」

いち早く、杉三がブッチャーの肩を叩く。

「たぶんそのまま集中治療室にでも行くんじゃないかな。」

「たぶんというか、だれでもそうなりますよ。」

ブッチャーとジョチはそう言い合ったが、

「ようし、じゃあ、すぐに行こう!」

と、それを追いかけていく杉三である。

「杉ちゃん、面会は一般病棟に移ってからだよ!」

慌ててブッチャーが呼び止めるが、

「当り前だい。ちゃんとケアをしてくれるか、見張に行くんだ。基本的に歴史的な事情を抱えているんだから、それのせいでがさつに扱われることは確実なんだから、誰かが見張ってなければいかん!」

と、杉三はでかい声で言って、そのまま行ってしまった。

「杉ちゃん!いくら何でも邪魔しちゃいけないぞ!」

「いや、いいんじゃないですか。杉ちゃんの態度のおかげで、彼が持っている事情がはっきりわかりました。そういうことなら、現在でも大変な社会問題であり、人権問題でもあります。杉ちゃんのような人物であれば、放置することはできないと思います。僕が、名誉院長に話しておきますから、今日はそばに居させてやったほうがいいでしょう。」

「ジョチさん、それでは、もうわかってしまったのですか、水穂さんのこと。」

ブッチャーは思わず聞いてしまう。

「ええ、なんとなくわかりましたよ。彼が、なぜここまで医療を受けるのを拒み続けたのか。」

「じゃあですね!お願いがあるんです!」

ブッチャーは一度頭を下げて、

「お願いですから、ほかの人に、水穂さんのことをばらさないでいただけないでしょうか!それこそ、水穂さんが一番恐れ続けてきたことです!特に、馬鹿にしてきたあの医者には、絶対に言わないでやってください!」

と、懇願した。

「わかりました。了解です。この病院は金儲け主義ですから、隠していたほうが有利だと思います。これは本人には言ってはなりませんが、彼の身分は僕の血縁者ということにしておきましょう。ブッチャーさんも、それで押し通してください。杉ちゃんは、きっとごまかしはできないでしょうけど、何とか切り抜けさせましょう。でないと、彼は十分に回復することはできません。」

「ジョチさん!本当にありがとうございます!俺は、お礼の言葉もありません!もうどうしていいか!」

「いいえ、勝負はこれからです。手術が終了したからと言って、安堵してはなりません。」

「はい!わかりました!ありがとうございます!」

「だから、お礼はまだ早いですよ、ブッチャーさん。手術が終了して、気が抜けたところで容体が急変し、最期という例は、本当によくあるでしょ。」

「す、す、すみません!」

ブッチャーたちがそんな話をしている間に、杉三は、集中資料室の中には入らせてもらえなかったものの、面会ガラスにぴったり鼻をくっつけて、看護師たちの様子を厳重に監視していた。なので、看護師は、勤務を怠けることはできなかった。



翌日の朝。水穂はもう安全になったということで、意外に早く一般病棟に移ることができた。ジョチが、個室を手配してくれたので、ほかの患者と顔を合わす、という心配はなかった。

「水穂さん。」

杉三がそっと呼びかけると、んん、とこえがして、閉じたままの目が動く。

「よかったな。終わったよ。もう、せき込む必要もないんだってよ。」

ゆっくりと、彼の目が開いた。

「こ、こ、ここは、どこ?」

「病院だよ。ジョチと、チャガタイが、連れてきてくれたんだよ。あの馬鹿医者も頭を冷やして、やってくれただよ、開胸手術。」

「ジョチさん、、、?」

「そう。感謝しろ。ここのお代だって、二人でだしてくれるってさ。君は何にも気にしないでいいって。きっと、あの馬鹿医者も、いい教訓になったんじゃないかって、二人とも笑ってたぞ。」

「そうですか、、、。」

「相部屋じゃないからな。内紛が起きちゃう心配もないってさ。ゆっくり休んでな、しっかり治して、もう少し我慢したら、製鉄所に帰ろうな。」

「帰れるの、、、?」

「馬鹿!帰れるのじゃなくて、帰るんだよ。当り前のこと言わせるな。ブッチャーも、恵子さんも、青柳教授も、華岡さんも、みんな首を長くして待ってるぞ、君のこと。ジョチに言われたんだろ。生きることを放棄してはいけないって。もう、こんなにたくさんの人間が、君のことを待っているって、早く気が付いてもらえないもんかね。」

「杉ちゃん。あと、一人忘れてない?」

「あれ?誰かなあ?忘れたつもりはないんだけどな?ちょっと待て、、、。あ、蘭忘れてた。きっと、今ここに居たら、僕のこと忘れるなって、激怒するわ。すまんすまん。よし、水穂さんに一本取られたぞ。そうやって負かせるんだから、もう大丈夫だな。よし、頑張って治すんだぞ。これ以上、悪化させちゃ、みんな怒るぞ。」

「ごめんね。」

「忘れるなよ。必ず、お礼しろよ。」

「はい。」

このやり取りを病室の外で聞いていたブッチャーは、思わず天を仰いで号泣したのだった。



そのころ、ジョチは例の馬鹿医者と手術の結果について、話をしていた。

「で、とりあえず、彼は、成功と解釈してよろしいのでしょうか?」

と、ジョチが聞くと、

「はい、とりあえず約束は守りました。でも、完全に約束を守り通せたかというと、そういうことはありません。」

と、医者はがっくりと落ち込む。

「はあ、つまりどういうことでしょうか。」

「つまりですね、言いにくい話ですが、一応、彼を開胸して、胸腔にたまった血液を抜くことはできました。そこだけははっきりしています。しかしですね、その原因となっている、気管支の破損だけはどうしても元通りにはできませんでしたので、、、。」

「もったいぶらずに言ってください。つまり彼はどうなるということですか?僕も、ある程度の事なら、驚きませんよ。」

「ええ、つまりですね。彼は、いくら開胸して血液を抜く作業はできたとしても、その本元を防ぐことができませんでしたので、ある程度時間がたてば、また元通りに戻ってしまう可能性が高いのです。いや、可能性というか、根本的な解決には全くならなかったわけですから、今回は一時しのぎにすぎず、数日たてば再度喀血するということになるわけです。ですから、彼の生還ということは、全く期待できないというわけで、、、。」

「そうですか。わかりました。僕が幾ら鼻水を抜いてもダメなのと、同じだと考えればいいわけですから、驚きはしません。とりあえず、今回は、彼を何とかしていただきたいという、僕のお願いは聞いてくれたわけですから、院長の取引には応じることにします。」

「あ、あ、わかりました!そうなると、職場はつぶれることはないということですか!」

こういう反応が返ってきたので、ジョチはまたため息をついた。まったく、本当に馬鹿医者と、杉ちゃんがいうのにふさわしい人物だろう。

「じゃあ、もう一つお聞きします。彼がなぜ、ああいう症状を出すのか、医者として理由をはっきり教えてくれませんか。僕たちのような、医療関係では素人でもわかるように、という条件を付けて。」

「あ、は、はい。そうですね。まず、原因として、彼の血液を検査してみたところ、結核菌は発見されておりません。そこは確定しています。ところが、かなり強度のアレルギーが見つかっておりまして、特に、肉、魚、油類に対しては過剰すぎるほど反応しておりました。おそらく、気管支喘息を生まれつき持っていたのだと思います。それを全く無治療で放置していたために、持っていた喘息が悪化して、気管支が壊滅的に破損していると考えるのが、一番の理由ではないでしょうか。まあ確かに、医学的には、そういうことになりますよ。でもですねえ、今の日本で喘息を放置しておくということは、どうなんでしょうか?少なくとも親がいるのでしょう?あそこまでひどい症状を出すまでに、子供のころに治療を受けておくとか、そういうことをして、食い止めるのが当たり前なんですけどねえ。どうしてそういうことができなかったのでしょう?そこが不思議でなりません。まさかストリートチルドレンだったわけではないでしょう。まあ確かに、アフリカあたりの無医村に行けば、ああいうこともあり得るかもしれませんが、でも、この日本で、子供のころから無治療で放置しておくことが、果たしてあるでしょうか?」

「あるんだと思います。」

ジョチは、首をかしげる馬鹿医者に向かってきっぱりと言った。

「彼が、以前こう言っていたそうなんです。日本人は法の下に平等であるなんて、大間違いだって。僕たちが知らないだけで、隠れたところで人種差別は残っているのでしょう。彼は、そこを恐れて、医療機関には行けない。そうもいっていました。彼の最大の天敵は、医療とか、行政とか、そういうものだそうです。きっと、あなたたちにとって、強い味方になるものは、彼にはすべて敵ということになるのでしょう。いいですか、そういう人たちが少なからずいるってことを、知ってください。それをご承知の上で、本当に人の役に立てているのかどうか、考え直していただいてから、また病院に戻ってきていただきたい。」

「そうなんでしょうか、いまどきそういう人がまだ、存在するのでしょうか。」

「するんですよ。するんだからこそ、先生の前に現れたんでしょう。いいですか、日本にはまだまだ哀れな人は大勢いるんです。ですから、患者に向かって、江戸時代からタイムスリップなんて、そんな暴言を吐くのは、一切やめて下さい!」

「はい、、、。すみません。これからは気を付けます。」

「じゃあ、必ずこれからは、今の言葉を遵守してくれますね。そうでなければ、先ほどの取引は、白紙撤回にさせていただきますよ。」

「わかりました!もう二度としませんから、今回はお願いします、今回は!もう、病院は火の車で、困っているのです!」

そういって馬鹿医者はジョチの前で手を突いた。本人としては、応じる気は全くなかったが、こうされると、しなければならないかなあと、渋々買収の取引に応じることにした。



数日後。

蘭は、今日も、入れ墨の仕事に取り組んでいた。杉ちゃんもブッチャーも、自分のところへは一切寄り付かなくなってしまい、情報が全く手に入らなくなり、水穂はどうしているのか、知りたくても知ることができなかった。お客さんから、先生、どうしたんですか、あのうるさいおじさんは、全く顔を出さなくなってしまいましたけど、どうしたんですかねえ、と言われても、答えがでず、どっかにいってしまったよ、としか、答えが出ないのである。

それでは仕事に支障が出てしまうと思った蘭は、由紀子にお願いして、時折製鉄所へ様子を見に行ってもらうことにした。由紀子も、大変心配していたので、快く承諾してくれた。ただ、彼女が製鉄所を訪問することができたとしても、今はよくないからと言って追い出されるのが常であり、水穂に関する情報は皆無であった。とりあえず、わかったのは、畳を張り替えて綺麗にしたことだけであった。

ある日。今日も偵察に行って来てくれた由紀子が、にこにこして蘭の家に入ってきた。何かうれしいことでもあったのか、すぐにわかる顔であった。

「どうしたんですか、由紀子さん。何かありましたか?」

「ええ、喜んでください!水穂さん、昨日退院して帰ってきたそうです。無事に手術は成功し、もう胸の痛みを訴えることもないって、青柳先生が言っていました。」

「と、いうことは、僕がもう、製鉄所を訪問してもいいってことでしょうか!」

蘭は、礼をするより早くそう聞くと、

「ええ、あんまり大喜びしすぎて、騒ぎ立てたりしなければ、行っていいそうですよ。」

と、返ってきたので、一瞬歩けたら飛び上がって喜ぶほど、うれしい気持ちになったのであるが、

「ちょっと待って。」

と、すぐ真顔になる。

「どうしたんですか?」

由紀子が聞くと、

「いや、手術ということには、開胸手術のことですよね。あれ、かなり難易度は高いと聞きましたが、ずいぶんお金もかかったのではないですか?そのお金は、だれが負担したんだろう?」

と、蘭は疑問を放った。

「あいつに、それだけの経済力があるわけじゃないし、もしかしたら青柳教授がカンパしたのでしょうか?それとも、製鉄所の利用者が有志で出したとか?」

「ええ、それがね、杉ちゃんが病院で偶然知り合った資産家の人が、かわいそうに思ってくれたようで、全額出してくれたというんですよ。杉ちゃんってすごいわねと、恵子さんもあたしもびっくりしました。でも、不思議なものですね。そういう人脈って、意外に近いところに転がっているのでしょうね。」

由紀子は、恵子さんに言われたとおりの答えをだす。

「間違いないんだろうな?」

「ええ。恵子さんはとてもうれしそうに言っていましたから、嘘偽りはないと思いますよ。とても素敵な方だって、恵子さんは言っていましたよ。」

「由紀子さん、その人物の名前はなんていうんですか?もしかしたら、うちの母が知っているかもしれません。」

「あ、はい。恵子さんの話によると、曾我正輝さんというそうです。松岡で、焼き肉屋さんをやっている方だそうです。」

「松岡の、そがまさき、焼き肉屋、、、?そがまさき、曾我正輝、あ、も、もしかして!」

「知ってるんですか、蘭さん。」

由紀子は思わず聞いてみると、

「知っているというか、なんであんな男と杉ちゃんが手を組むんだ!もう、僕が全く手が出なかった間に、あの男と杉ちゃんがくっつくなんて、運命の神という人は本当に意地悪というかなんというか!」

蘭は、思いっきりテーブルをバアンとたたいた。

「蘭さん、そんなこと言ったら、テーブルが壊れますよ。落ち着いてください。」

「落ち着かずにいられませんよ。あの男は、うちの会社にとって、常に戦う運命にあった宿敵です。こっちが何かしだすと、汚い手を使って、相手をもっていってしまうって、評判でした。何かあると、相手の取引先を買収して、自分のものにしてしまうので、母が怒りに怒っていましたよ!」

「そんなに悪い人には見えなかったって、恵子さんもおっしゃっていましたが?確かに、病院の一部機関を買収して、自身の事業所にすると計画していると言っていたそうですが、それは、いまどきなら、よくあることじゃないですか?」

「いいえ、あの男はあの顔の下に、強力な毒牙を有した男です。そうやって、弱いものが使う機関を自分のものにして、弱い人たちから高い評判があるのを毒牙にして、経営者側からは金をむしり取っていくという、そのやり方は、あの男の十八番なんですよ!斎藤道三が美濃の蝮と言われて恐れられたそうですが、あの男は蝮以上に強力で醜悪な、いってみれば波布ですよ!波布!」

「でも、杉ちゃんたちは、焼肉を食べさせてもらって、かなり良くしてもらったようですし、そんなに粗暴で陰険な戦国大名と同じ性質なんでしょうか?」

「同じどころじゃありません。母がよく言ってました。波布狩りをすれば、生活費に困らないほど、波布狩り名人は貴重だって。母は、僕がドイツに行く前に、波布狩りはしっかりやるから安心しておくようにと言っていたので、僕は気にも止めていなかったのですが、母が、紙が売れなくなって海外に手を出したら、また波布は息を吹き返したんでしょうね。そして、いよいよ、製鉄所に手を出してきたか!ああ、どうしよう、どうしよう、どうしよう!」

蘭のあまりにも豹変ぶりに、由紀子も返答に困ってしまって、ポカンとしてしまった。

「とにかくですね。僕、すぐに製鉄所に行ってきます。恵子さんや、青柳教授が、どれだけ波布の毒液にやられたのか、確認してこなければ!」

「ちょっと、蘭さん、いったいどうしたんですか!」

由紀子には目もくれず、急いで支度をし、自宅を飛び出してしまう蘭であった。



「ええ、水穂ちゃんなら、今さっきご飯食べて寝てますけど?病院の先生が、手術してしばらくは、安静にしているようにと言っていたそうなので、それを厳守するようにと、青柳先生もいい聞かせてましたわ。」

「あ、そうですか。じゃあ、大事な話があるので、水穂と、青柳教授に会わせていただけないでしょうかね。」

と、蘭は平静を装ってそう聞いてみる。

「青柳先生は、先ほど東京大学に出かけましたよ。講演会があるって。でも、水穂ちゃんなら、起きるんじゃないかしら?きっと、蘭ちゃんは心配でしょうがなかったでしょうから、お話してあげてちょうだい。」

「わかりました。恵子さん。ありがとうございます。」

蘭は、製鉄所の中に入った。

「あの、あいつの手術代、本当に曾我という人が出してくれたんでしょうか?」

廊下を移動しながら、蘭はそう聞いた。

「ええ。今はすっかりお友達よ。時折様子見に来てくれて、あたしたちも大助かりだし。曾我さんも、若い頃には難しい病気でずいぶん苦しんだそうだから、介護者のあたしたちにとっても、頼りになるわ。」

恵子さんが嬉しそうにそういうので、蘭は実はそれこそ、波布が毒液として使うものであると、言いたかったが、なんだか言うべきではないなと思った。

「どうぞ、話もできるはずよ。」

と言って、恵子さんは四畳半のふすまを開けた。開けると、張り替えたばかりの畳のにおいが充満していて、水穂は、黒豹の毛皮をかけて布団で眠っていた。

「おい、起きてくれ。お前、なんで何も言わないんだよ。ずいぶん大変だったみたいだけど、僕は何も知らされてなかったぞ。」

水穂は、目を覚ましてくれて、寝ぼけ眼ではあったが、すんなりと布団に座ってくれた。これができただけでも、蘭はすごいと思った。

「やっぱり、餅は餅屋とはこのことか。お前、なんであの時倒れたりしたんだ。」

「血胸さ。癖になるといけないから、定期的に通わなきゃダメだってさ。」

せき込まず、さらりと答えを出してくれたのも、またすごいことである。

「もう、胸も痛まないか?平気か?」

「しばらくはな。」

たぶん、本人も行く末をある程度分かっているようなのか、半分笑って水穂は答えを出した。蘭は、これのせいで、今すぐ波布狩りを決行しなければと進言する気持ちを、打ち明けられなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み