第1話

文字数 8,164文字

 灰色に霞む工場の連なりを抜け、緩やかなカーブを上っていくと目を見張るような建物が姿を現わした。
 村井は入社当時、本社の工場見学会で一度来たことがあるが、見違えるほどに成長していた。
 東京本社に併設されている研究所で施設係長をしていた村井は、この工場の総務課長として抜擢された。子供がなく身軽な村井は、山が見える工場勤務に胸を膨らませたが、厄介者の左遷だろうという囁きも聞こえてきた。
 岩手県K市郊外で操業する従業員400人の日本セミコンは、半導体部品を生産しており、地元の産業復興と若者の雇用促進に一役買っていた。
 工場特有の流れと、従業員の半数は派遣社員という東京オフィスでは考えられない環境で、労災事故の処理に追われながら三年が経った。
「おお、いつまで待たせるんだよ! 時間を守れって、いつも怒鳴りつけてるのは会社のほうだろ」
 午後二時に上がったB勤の大林が、研修室のテーブルに足を乗せんばかりにふんぞり返り、村井を睨みつけた。空腹の苛立ちがこめかみの辺りを引きつらせている。
「わかった。それでは始めよう」
 物流棟の男子二人が、十五分待っても現れなかった。
 村井は、派遣社員対象に月二回、安全教育を行なっている。七つの部門に、労働力の調整弁となる五つの派遣会社が刺さり込み、商品として扱われる派遣社員の出入りは激しい。
 工場長の黒沼からは、「そんなものは、あんたがしゃべるビデオを勝手に見せればいいじゃないか」とよく言われる。だが研究所時代、年配の上司から化学物質の取り扱い方法を手に取って教えてもらったお陰で飯が食えたことは確かで、村井は信念を曲げなかった。上から疎まれるのは、融通の利かない性格にあるのかもしれない。
「皆さんは指を一本落すと、明日から職場はなくなります」
 村井はいつも、自動機械の延長のように括られる派遣社員の現実を正直に話す。
 雑然とした製造現場のスライドが流れ始めた。
 大鼾で舟を漕ぐ大林をわき目に、再教育を含め男女二十人の派遣社員たちは熱心に耳を傾けている。遠くは北海道から駆り出された派遣社員たちは、みな分断されたように押し黙り、ただ生き残ろうという本能で、危険薬品の取り扱いに耳を立てている。
 一時間の教育が終わるとすぐに、大林は椅子をがたつかせながら出ていった。この程度のことで腹を立てていたら総務課長は務まらない。社員が絡む闇金やヤクザの対応。株主総会の直会では、ねじり鉢巻で大太鼓も叩く。村井は微かな苦味を呑み込んだ。
 その時、来客の知らせが入った。村井はロビーに向った。

「ミライスタッフの竜崎と申します」

 ホールで、約束していた派遣会社の若い女性が笑みを浮かべて待っていた。そのわきに、それとは対照的な表情を見せる青年が立っていた。
 女性は竜崎法子と名乗り、営業課長の名刺を差し出した。
 早々に、会議室で面談に入った。
「いちおう弱電の経験者を選んでみました。とりあえず使ってみていただけませんか。気に入らないときはいつ切っていただいてもかまいませんので――」
 面談が終わり、本人が会議室から退席した後、法子がつるりとした顔を傾けながら言った。それはまるで、包丁やハサミの実演販売の乗りと変わらなかった。
 村井は不快感を覚えた。それは図らずも、人が人を道具として使うことに何の疑問も持たなくなった企業の残酷な本質を突かれたからだ。大手電子機器メーカーM社勤務の経験を買い、村井は安藤彰の採用を決定した。
「それでは明日の朝八時に、社員玄関の前に来てください。総務の女性が案内します」
 安藤は玄関を出たところで、ガラス越しに親しみのある表情を見せ、お辞儀をした。村井は、生まれ育った関西にはない、素朴な温もりに打たれどきりとした。同時に、大理石で固められたようなこの環境に馴染めるだろうかという心配も過ぎった。
 次の日から安藤は、部品の洗浄工程に配属された。
 安藤は地元出身だが、派遣社員の中には少なからず、請負先の二畳ひと間の寮で暮らす流浪の人もいる。労働者派遣法は、手配師が暗躍した周旋屋に端を発するが、その構造的な欠陥に紛れて生きる人々がいることも確かだった。
 恒例の忘年会が、ホテルの大ホールで催された。
 中央に溢れんばかりの料理が並んだ立食パーティーの会場は、参加率ほぼ百パーセントの派遣社員と、上層部派閥の取巻きたちで埋め尽くされていた。自由参加のパーティーでは、正社員の姿はまばらだ。
 不思議なことに、こういう場所で輝いているのは圧倒的に派遣社員の人々だった。男も女も、皆それぞれとっておきのおしゃれをして集まってくる。正社員に混じり、楽しそうにバイキング料理をつつく彼らの姿を見ると、村井はいつも心に安堵を覚えた。
 テーブルの島を行き交う人々と目が合っても、正社員にはよくある儀礼的な挨拶は派遣社員にはない。皆、目礼だけで通り過ぎていく。村井はそういう彼らの態度にも好ましさを感じていた。

「村井さん、元気にしてますか!」

 突然背中に、歯切れのいい声が響いてきた。振り向くと、ストーンウォッシュの革ジャンで決めた若者が、ビールジョッキーを片手に白い歯を見せている。
「おぉー、元気そうだね。私は相変わらずだよ」
 村井は稀に廊下ですれ違った時など、親しみを込めて挨拶してくれるこの青年の名前が即座に浮かばなかった。逆に自分の名前を呼んでくれたことに、嬉しさと同時にわずかな気後れを覚えた。
「ああ、安藤君、今はどちらの工程にいるんだい?」
 やっと名前を思い出した村井は、安藤の職場の近況を訊いた。
「今も洗浄工程です。三年になります。こう見えても一番古いんで、新人の指導までやってますよ」
 主任の下はすべて派遣社員という洗浄工程のリーダーになった安藤は爽やかな笑顔で答えた。
 村井は、正社員にはめったにない、このように気さくに声をかけてくる派遣社員が何人かいたが、言葉には表わせない嬉しさを感じた。それは、石組みの牙城のような組織の中で、相当な勇気がなければできないことだからだ。
 参加者に正社員が少ない理由は、村井にはよくわかった。正社員は組織の上部に位置するが、それは決して快適な集団ということではない。一歩中に入ると、上下の関係は絶対で、いじめや足の引っ張り合いは凄惨を極める。その中で実績を上げなければ、追い出し部屋に入れられ、リストラが待っている。武器も持たずに前線を守る派遣社員を率いる正社員もまた、血を流しながら闘う傭兵だということも事実である。正社員は、戦場の延長のような宴席よりも、鎧を脱いだ一日を選ぶのだろう。
 年が明けると、生産がさらに上向きの兆しを見せた。
 派遣社員の増員依頼が製造部より入ってきた。
 三人目の面談で会議室に入ってきた女性は、笑顔は見せなかったが、澄んだ目をしていた。派遣会社からは腕に怪我をしている旨、事前に連絡が入っていた。白神美樹と記された履歴書には、大手M社勤務の経歴が載っている。ふと、安藤も確かこの会社から来たことを思い出した。
「腕の怪我、大変だったのでしょうね?」
 村井は、左腕を心持庇うようにしている美樹に、それとなく尋ねた。すると彼女は無表情のまま、左腕のシャツを捲り上げた。
 村井は思わず息を呑んだ。顔には出さず、「痛みますか?」とだけ訊いた。美樹は、「いいえ」と顔を横に振り、念を押すように言った。

「仕事には何も支障はないですから」

 骨が露になるほど肉が削ぎ落とされた傷跡が、村井の脳裏に焼きついた。何かを思い出したように、美樹の顔が青ざめていた。
 報道もなく、派遣会社も触れなかった怪我の原因については、やはり本人も話そうとはしなかった。
 白神美樹は、洗浄の次工程となる乾燥ラインに配置が決まった。
 月初めの安全教育に、白神を始め十人の派遣社員が詰めかけていた。村井は、来週から洗浄工程に入る新谷桜の姿が見えないことに気づいた。桜は前回も、子供の病気を理由に欠席した。村井は一抹の不安を残しながらも、ステージに立った。
 深夜勤務が明けた早朝六時、村井は二百近くあるロッカーの鍵点検に入った。最近、盗難事件が続いていた。中ほどで、思わず足を止めた。
「おい、みんな、あの村井には気をつけたほうがいいぜ。あいつは善人ぶって俺たちに近づいてくるけど、目的は不満分子の探りに違いねぇ。この前も会社の悪口言ってた仲間が、よくわかんねぇ理由で契約更新を拒否されたぜ。特に安藤、お前あいつに擦り寄ってるようだけど、チクったりしてねぇーだろーな。上と親しいからって、のぼせ上がるなよ」
 日ごろから会社への不満を露にしている大林が毒づいている。疲れきった洗浄工程の作業員たちが、ロッカーの壁の向こうに集まっているようだ。
「なにぃー、俺がどうのぼせ上がってるってんだよ!」
「まあ、まて安藤、大林もお前のことを心配して言ってるんだ。やっぱ俺たちは結束していかなくっちゃな。村井だって、いずれは本社に戻るエリートだ。何を言ったところで、ひな壇であぐらをかいているヤツが怪我をすることはない。本当に俺たちのことなんて理解できやしないんだよ」
 年かさの長光が二人の間に入り、その場をなだめている。彼の言葉は楔のように、村井の胸に深く突き刺さった。
 派遣社員の不満には、その不安定な処遇に重ねて、労働安全問題が濃い影を落としていた。
 半導体工場は多くの化学物質を使い、つねに危険が伴う。不思議なことに、事故に遭遇するのは大半が派遣社員だった。
 社員はマニュアルにないことは決して手を出さない。派遣社員の良かれと思って行動する善意が、逆に事故を引き起こしていると村井は分析していた。
 以前、作業手順書にはない、テフロン容器内部の異物除去を試み、噴き出した硫酸で顔半分が焼け爛れた事故があった。村井は、真面目な被災者の雇用継続を考えていたが、逆に派遣会社のほうが気を利かせ、もう少しましな者を送りますといって、一方的に契約解除を申し出てきた。
だがそれを知らない現場の怒りや不満は、すべて村井に向けられるのだった。
 そんな時、村井の緊急用携帯電話に着信があった。音声の代わりに、現場のただならぬ喧騒が雪崩れ込んできた。どうやら洗浄室のようだ。手の平に、じわりと汗が滲む。
「おい、あれちょっとヤバかねぇー」
「マジ、ヤバイぜ! あのままいくと爆発すんじゃねぇーの」

「いいか、誰も通報するなよ!」

 派遣社員たちの怯えた声に混じり、大林の怒声が響いている。
 村井はとっさに、洗浄室の隅の薬品置場を思い浮かべた。
「誰かあの缶の中に何か入れたか?」安藤が周りに訊いている。
 薬品の缶が内部で、何らかの化学反応を起こしたに違いない。
「私です……過酸化水素の廃液をどうするか電話で主任に訊いたら、薬品置き場のそばにある容器に入れろと言われたので――」
 消え入りそうな声は、新谷桜だ。村井は思わず立ち上がった。
「バカヤロー! お前、あの缶に過酸化水素を入れちまったのか」
 安藤の声が、携帯電話を破壊せんばかりに突き抜けてきた。
「ごめんなさぁーい」桜が、大声で泣き出した。
「安藤、いいじゃねぇーか。このまま爆発させてみようぜ。少しはこの会社反省すんじゃねぇーの」大林の声だ。
 口角を吊り上げる大林の表情が目に浮ぶようだ。大林が続ける。
「だがよ、俺たちがやられちまったら何にもなんねぇーからよ、あの周りにコンテナでも重ねて様子を見てみようぜ」
 その時だった。甲高い女性の声が響いた。大手M社に勤務していた乾燥工程の白神美樹だ。
「だめよ! みんな危ない! 早く逃げて、私、知ってるのよ!」
 村井の脳裏に、美樹の深く削がれた腕の傷が蘇った。
 恐らく美樹は、M社で同じ経験をしたに違いない。破裂した鉄の破片が刃となって自分の左腕を抉ったように、今、爆発すればコンテナなどは軽く吹き飛ばし、無数の鋭利なナイフが作業員たちに襲いかかることが、彼女の目には映っているのだ。
 村井は事務棟から、洗浄室に走った。
 洗浄室は高度なクリーンルームだ。陽圧に耐えるガラスは厚く声は通らない。製品が不良になるのを覚悟で、村井は非常扉をわずかに開いた。風圧で眼鏡が飛ばされそうだ。薬品置場は背丈ほどに積み上げられた黒いコンテナで隠されている。村井は叫んだ。

「コンテナをどけて缶を見せろ!」

 大林が振り向いた。
「誰だ! 垂れ込んだのは」大林が周りを睨み回す。
「俺だよ。ここの様子は筒抜けだ」
 安藤が、向こうの電話台に顎をしゃくった。
「このヤロー!」大林が安藤に殴りかかる。
 大林の拳が安藤の顎をとらえた。仰け反った安藤が頭部を軽く振ると、大林に飛び掛った。他の作業員たちが、二人を引き離す。その隙に、白神とその仲間たちが、コンテナを取り払った。
村井は息を呑んだ。密栓された十八リットル缶が、メタボ腹のようにせり出している。過酸化水素が容器の内部で金属と反応し、水素ガスが発生したに違いない。
 大林をはじめ作業員たちは、この缶の爆発エネルギーがどれほど巨大なものであるか、わかるはずもない。
「全員、乾燥室に避難しろー!」
 村井は叫ぶと、工場長室に走った。
 すぐに、製造部長が呼ばれ、緊急会議が始まった。
「消防に連絡して爆発物処理隊を要請するしかないでしょう」
 製造部長が、眉間の奥で生産量の落ち込みを計算している。
「村井君、あんた会社の安全管理者だろ。教育で何を教えてるんだ! 実際のところはどうなんだ、爆発するのか、本当に?」
 消防に通報すれば報道が入り自分の首が危なくなる工場長は、何とか穏便に済ましたい一念で、村井に怒りをぶつけた。
 その時、技術課長が部屋に駆け込んできた。
「今、内圧の計算値が出ました。約1メガパスカル。爆発炎上の可能性があります」
 1メガパスカルとは自動車のタイヤの約五倍の圧力で、極めて危険な状態と言わざるを得なかった。
「申し訳ございません。私の責任です」
 村井は苦渋の声を絞り、頭を下げ続けた。
「いつまで頭を下げてるんだ。仕方がない。すぐ消防に電話を入れるんだ。責任は取ってもらう」
 工場長の怒りの顔が、あきらめの色に変わった。
 村井は無念の思いで受話器を取った。
 119番が屈辱の番号になるとは思いもしなかった。初めての雪国、工場の仕事、希望、第二の故郷、そして、敗北……様々な想いが脳裏をよぎる。ふいにあの時の長光の声が蘇った。
 村井は受話器を戻し、踵を返した。
 
「おい、どうしたんだ? どこへいくんだ!」

 眼を剥いて叫ぶ工場長を後に、村井は無言で部屋を出た。
 今こそ、ひな壇を下りる時だ。何の気負いもない清々しい覚悟だった。村井は新任の、あの日の気持ちを胸に洗浄室に走った。
 なんと安藤が、洗浄装置に身を隠すように、じりじりと膨らみ続ける金属缶を見守っていた。
 村井は廊下で、ツナギのクリーン服を着込んだ。靴を履き替え、フードをかぶり、目だけを出して、渾身の力で非常扉を開く。室内の気圧は凄まじく、ドアと共に吹き飛ばされそうだ。いつの間にか安藤が、ドアに手をかけていた。全開にしてしまえば、廊下の粒子が内部に入り込み、すべての製品は不良となる。
「安藤、なんで避難しなかったんや! いつ爆発するかわからんぞ」
「すみません、村井さんは必ず来ると。その時、俺も手伝おうと」
「バカヤロウ。死ぬかもしれへんのや。あとは私がやる」
「この扉の開閉は、一人では無理です」
 村井は金属缶の取っ手をつかんだ。反応を続ける液体の感触が伝わってくる。腕を天秤のようにして持ち上げた。わき腹が刃物で抉られるような恐怖が襲う。安藤が再び非常扉を開ける。その隙間を、村井はすり抜けた。
 白い息を吐きながら、非常階段を、一歩一歩下りて行く。わずかな衝撃が爆発につながる。左腕が、白神の深く削がれた腕と重なる。村井は初めて、派遣社員たちの心の叫びを聞いたような気がした。
 爆発寸前の金属缶は、屋外の堅牢な実験棟の中で無害化された。

「良かった、無事に済んだ……」

 へたり込んだコンクリート床に、二人の脂汗が滴り落ちる。
「二度とこのような危険なことはするな」
 自分を信じ連絡してくれた安藤に感謝しながら、村井は静かに諭した。
「村井さんは自分でやるって分ってた。でも一人では無理だ。失敗したら、俺たちは明日から飯が食えなくなる」
 村井は言葉に詰まった。
 脱力から立ち上がり、続けた。
「結果はともあれ、私は法を無視してしまった……」
「大手さんはこんなもんじゃないです。白神さんはM社で、自分で始末しろって言われたみたいです」
 恐らくM社は、それ相応の補償を餌に、労災適用を免れたに違いない。
 安藤は命がけで皆の職場を守ったことは確かだが、自分は何を守ろうとしたのだろう。ひな壇を下りて守ったものは、やはりひな壇だったのではないだろうか……。虚しい笑みが漏れた。
「おーい、全員すぐ職場に戻れ! 生産の遅れを取り戻すんだ」
 製造部長の一声で、工程は再び動き始めた。
 村井は、事故の調査結果をまとめた。直接原因は、不明瞭な主任の指示で、間違って過酸化水素を金属缶に入れたことにある。新谷が薬品置場にいくと、いつもそこにある安全弁つきの過酸化水素専用容器は廃液業者が引き取りにきて、無かったのだ。
 主任は解任され、村井は黒沼から賞与カットを言い渡された。
 大林は退社し、洗浄工程は、安藤を始め派遣社員に支えられながら生産は順調に伸びていった。
 そんな時、日本国内を震撼させる事件が起こった。
「えらいことが起きたわよ! 大丈夫? あんたの会社」
 ちょうど九時のニュースで、都内で発生した無差別大量殺人事件を報じているところに帰宅した村井に、妻が心配そうに訊いた。
 キャスターが、派遣先でのトラブルが引き金になった可能性もあると解説している。
「うーん、なんともいえへんな……」
 村井は画面に流れる、死体が片付けられた後のドス黒い血溜まりの映像を見て、ついにここまできたかと戦慄を覚えた。それは、人間が人間を狩る現代社会の影絵のように、村井の瞼に焼きついた。
 ほどなくしてリーマンショックが襲いかかり、生産は激減した。
「とりあえず派遣社員をすべて切れ! 今回は派遣切りだけでは済まない。あんたら管理者も覚悟しておいたほうがいい」
 村井は会議の席で、黒沼の射るような目が自分に向けられたような気がした。
 恐れていたことが現実となった。村井は定年まで四年を待たずして退職を余儀なくされた。
 底冷えのするような二月の寒い午後だった。村井は雇用保険の手続きにハローワークへと歩を進めていた。

「村井さんじゃないですか?」

 背後に近づいてきた車から、見覚えのある若者が声をかけてきた。
「おお、安藤君だね、今どうしているんだい?」
 村井は立ち止まり、笑顔を向けた。
「おかげさまで俺、セミコンに正社員として採用されました。事務所の竜崎さんが退職する前に強く押してくれたらしいです」
「そうか、それは良かったな! おめでとう。がんばれよ! ところであの竜崎さんが辞めた――」
「うつ病で入院したみたいです。それと、セミコンの工場長も変わりました」
「え、そうだったのか……」
「それでは村井さんも、お元気で」
 安藤は、今の村井の境遇については何も訊かず、車は道路をUターンして去っていった。
 正社員になれば、また新たな困難が待ち受けているはずだ。村井は、安藤が自ら勝ち取った舞台で、活躍できることを祈った。
 かの構造改革で、根こそぎひっくり返された日本の企業文化を元に戻すのは不可能かもしれない。だが、世のひな壇が多くの犠牲の上に成り立っていることに気がつけば、企業風土だけでも建て直すことはできる。

 しばらく行くと、いつもの橋に差しかかった。

 両岸の雪に挟まれた、黒く光る水面にたくさんの白鳥が羽を休めている。その時、雲間からやわらかな陽光が差し込み、川面を照らし始めた。にわかに水面が波立ち、白鳥は一斉に飛び立った。首を真っ直ぐに伸ばし、光に向かい、群れを成して飛び去っていく姿は雄々しく、また美しくもあった。
                  (了)




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