最終話:愚かなわたしが筆を染め造りし歌であるけれど・後編

文字数 6,471文字

 紫の可憐な華の花びらが東北の地から空に舞い上がりそして降ってくる。

 雲が晴れた。
 運河の水が引いた。
 月が、満ちた。

 そう、さっきまで月はとても細いはずだったのに、いつの間にかフル・ムーンに近いぐらいに丸さを増している。

「武器を、華に。紫華(ムラサキバナ)に」

 僕が紫の花びらのその微妙で繊細な香りでもって髪を染められながら歩いて行くと、彼女も白兎にまたがって花の降雨の中を歩いてくる。
 でも、月が万度に輝いて昼のようだから天気雨だ。

「そ、それは・・・釈迦が悟りを開く最終段階に入った時、悪魔マーラーが魔軍に放たせた矢や槍がことごとく花弁に変化してとうとう釈迦の体にかすり傷すら負わせることができなかった、そのシーンではないか・・・小娘!お前、何者だ!」
「わらわが何者かなどどうでもよいこと。わらわはただ、この武士たる夢見僕人の妻にして相棒にして守護者なり」

 ミコちゃん、ありがとう。

 魔神は体の穴の全てから血と体液を流し尽くして、瀕死だった。
 僕は武士の情けでもって、訊いた。

「最後の、言葉は」

 魔神は一旦目を閉じて、また開けた。

「斬首刑を、ショウにした」

 こと切れた。

「?なんだろう、ミコちゃん?」

 少なくとも恒星の誕生から死滅までの期間以上生きてきたEvil Godの余りにも淡泊な死を前に、僕が日常会話のように彼女に問いかけた時、彼女のスマホのLINEが振動した。

 クルト:ボクト、このサイトを見ろ!

 アタッチされているリンクをタップする。
 動画が展開された。

『Mankind! every country everywhere! You must watch this public execution!』

 黒の覆面をした男が訛りの強い英語で抑揚無く英文を呟いた。
 男の前にはアイマスクで目隠しをされた男性が上半身裸でコンクリートの上に正座している。
 日本人に見える。

 男の極めてプラクティカルな英文の意味を直訳すると、

 ’世界中のすべての国々の者どもよ!お前らはこの公開処刑を見なければならない!’

 そして男は、右手にギザギザのサバイバルナイフを持っている。

 またクルトくんからLINEが入る。

 クルト:覆面の男は去年複数の爆弾テロでヨーロッパの1万人の人たちを殺したテロ組織の幹部。国連の組織に対する制裁を解くようにという要求が呑まれなかったので日本人ジャーナリストの公開処刑をライブ映像で世界中に配信している。

 クルトくんのLINEの核心はその後の文章に続けられた。

 クルト:理事長せんせいが御本尊からお告げを受けた。もしこのジャーナリストが殺されたらそれが第三次世界大戦の引き金になると。

 最後に、こう書かれていた。

『ボクトくん。白馬の武士として、駆けてはくれませんか。月影日照』

 理事長せんせいが受けたお告げ。

 第三次世界大戦。

 白馬の武士として。

「そうか。これが僕の使命か」

 そう言ってからまた言い直した。

「使命どころじゃない。義務であり、必然だ。当然のことさ」

 そう言って僕は彼女を白兎から降ろした。入れ替わりに白兎にまたがる。

「行ってくる」
「どうやって」
「光の道を使う」
「光の道?」

 僕らの街が魔神の手下である三人の呪われた武将たちに水没させられんとしたあの晩、神速さまは白兎を使って間違いなく光のトンネルを通過した。
 障害物は残像となっていつの間にか自分から勝手によけて行き、音速どころか光速すら超えたのではないかという、つまり瞬間移動と呼ばれる方法だったのではないだろうか。

 僕も同乗して体験した。

 だが、極めてリスクの高いトライとなることは間違いない。
 僕は人間なのだから。

 白兎の鞍に浅く腰を浮かせ、あの時の感覚を呼び覚まそうと試みる。
 神速さまはどのように振る舞っておられたか・・・

 手足の角度を変えてみる。
 より深い腹式呼吸を行なってみる。
 視線を15度上に向ける。
 滅びた魔神の亡骸をぼんやりと見下ろしてみる。

 掴めない。

「ボクト、聞いて」

 彼女が僕に語りかけてきた。ただし彼女の視線は僕ではなく、この駿馬の瞳に注がれているようだ。

「蹄鉄のない白兎にそんな無理をさせられるの?」

 その通りだ。
 白兎の脚力と速力とはあの素晴らしい緩衝材を附した蹄鉄だからこそ加減せずともフル・パワーを発揮できたのだ。その蹄鉄は魔神が流した血と体液とによって急速に酸化し朽ちてしまっている。
 ならば僕の靴を、とも思ったが人間がアスファルトの上のみを駆けるためのロード用のシューズでは話にならない。この本質を突く制約を述べたのは彼女だったが、ヒントもまた彼女がくれた。

「白兎と相談すればいい」

 僕は目から鱗が落ちた。でもそれは当たり前のことだった。
 駆けるのは、白兎なのだから。

 僕は再び白兎から降りた。
 そしてまっすぐに顔と顔を向き合わせ、白兎の黒目が美しいその瞳の奥を覗くようにして問い掛けた。

「白兎。キミは誇り高き人格の持ち主だ。なぜならばキミは人をその背に乗せて手綱を取らせながらなお自分自身の意思で行動しているからだ。時としてキミは自身の判断で悪鬼をその蹄にかけて踏み滅ぼす。また、時として若武者が老兵に討ち取られんとするシーンにおいて老兵を諫め若武者の命乞いをすら買って出る。素晴らしき気高さと尊厳の持ち主だ」

 白兎は僕の言葉に奢りもしない。

「白兎。今暑い騒乱の国で日本の若きジャーナリストが斬首されんとしている。この卑怯な殺戮のためだけの武器たるサバイバルナイフによって。僕はできうるならば彼を助けたい。だが僕には遥か1万里を、しかも海を越え山脈を越えて突き抜け走ることが我が身ではできない。そして情けないことに神速さまのようにキミと共に光のトンネルを突破する術も知らぬ」

 僕は、懐刀を鞘から抜いて、切っ先を、ぷす、と左の二の腕に刺した。。
 そのまま、まだ習わぬ文字を刻んだ。

『誠』

 皮膚は削れ、刀の筆跡からは血が垂れ、尖痛と鈍痛が同時に走る。目が眩む。

「これで代わりになるなどとは思わない。もしキミが光のトンネルを走れば生の蹄ははがれ、脚を砕くかもしれぬ。馬が脚を失うことが命を失うに等しいことだと僕は十分理解している。それでも」

 僕は気がつくと泣いていた。

「それでもキミに請うしかないのだ。駆けてくれ、と」

 間違いなく白兎はうなずいた。
 そして、一声、いなないた!

「ボクト!白兎!武運を!」
「うん!」

 僕は、たっ!と身を翻して白兎の背に乗った。速馬のレースのごとくに前傾姿勢で鞍を自分の股できつく挟み、手綱は持てど御すためにあらず、どこまでも互いの命をともにし合うという絆としての意味だった。

 彼女が足を肩幅に広げて右拳を上空に突き上げる姿が、可憐だ。それがまるで映画のフィルムの半コマにしかならないかのような加速を白兎は実現した。

 ゼロコンマゼロゼロ1秒で最高速に達したのだ。

 眼球が風圧でおされて窪み込み眼底骨折することを覚悟した。
 失明したとてこの世界に火を灯す気概だった。

 素晴らしいスピードだ。

 眼下をちらりと見ればなんと海だ。
 海面を沈まずに駆ける白馬。
 絵になると思いこの光景を僕は脳裏にプリントした。

 そしてすぐさま大陸に到達する。
 砂塵のその砂一粒一粒が白兎の激走でさらに細かい微粒子へと粉砕される。
 サラサラと風に乗るほどきめ細かに磨かれた砂は夜風に乗って日本に届くだろう。

 大陸を縦走しながらまるで鉄壁のような山肌を走り始めた。億年の時を費やして固められた岩肌や氷河を削るのみならず瞬時に蒸発させ雲へと変える。この雲がさらに全世界に流れて慈雨をもたらす。白兎の大功徳よ。

 大陸を突き抜けると再び海に出てオーシャンとオーシャンを跨って白兎は駆ける。そして先ほどまでEvil God=魔神と精魂をぶつけ合って激闘した舞台となった東北の運河よりもさらにスケールの大きな、ガルフから世界の最恐の紛争エリアへと抉りこむその水路を目に見えないほど微小の水しぶきを上げながら突き進む。

 とうとう本当に対峙すべき敵が潜むエリアに届いた。
 再び上陸するとそこは地獄だった。

 地獄のような、ではない、ホンモノの地獄だった。

 テロと暴力と自己の偏狭な信念のみをもって究極の自己実現=アイデンティティの他者への強要、をなさんとする組織が、ごく普通の市民を蹂躙していた。

 銃弾と火薬でもって。
 世界で最も権威が高いと評される賞を作った大元の人間が作り出した爆弾の一種類によって殺戮技術を進化させてきたその結末に抗おうと戦うごく普通のひとたち。

 それを使命として撃ち殺し時として爆弾テロで瞬時に大量殺戮をするテロ組織。さらにはそれを政治的経済的に自分の利害に利用しようと計算高く振る舞ういくつかの国の政治屋や経済屋ども。

 この紛争のエリアを僕と白兎は光速に近いスピードでノンストップで走る。

 僕はできる、と判断して、彼女と同じことを試みた。

「南無御本尊、南無観世音菩薩、南無八幡大菩薩。彼女が使いし最高の停戦(Cease Fire)を我にも!」

 懐刀を右手に握り込み更に左手で右手首をきつく握り、右耳に腕の側面をぴったりとくっつけて腕をまっすぐに空へと突き上げた。
 そして唱えた。

銃弾即変化紫華(ぶきそくへんげムラサキバナ)!」

 銃弾が華と変わる。
 可憐な紫の花びらへと。
 ひとびとも、テロリストも、共に立ち尽くす中、紫の絨毯が戦場に敷き詰められていった。

「白兎!まだ大丈夫かい!?」
「ヒヒン!」

 白兎は最終目的地を目指し、GPSで精密に割り出されたかのような走行ルートを歩幅1ミクロン、歩数半歩違わずに走破する。

 見えてきた。

 あの斬首刑の動画が配信されているそのブロードキャストの部屋が。

 それは砂漠のような荒地に、周囲数キロにわたって草も木も人家もおそらくは細菌すら生きていられぬようなその荒地のど真ん中にぽつりと建つコンクリートの小屋だった。

 僕は懐刀を構えた。
 ジャーナリストの首をサバイバルナイフでギリギリと掻き切ろうとするテロリストの首を逆にこの短刀で撥ねるつもりだった。
 それほどに僕は怒っていた。

 でも、その声が不意に聴こえてきた。

「ボクト、聞きなさい」
「月影さまっ!?」

 僕は理事長先生の名を叫んだ。この場面でこのような現象が起こるということは、理事長先生はやはり52段高(だんたか)のお方だったと断定せざるを得ないだろうと冷静な判断が急に蘇った。月影さまは僕に語り続けた。

「ボクト。仮にテロリストを殺したとて、また新手が次から次へと後を継いで人々を苦しめるのみ。そなたが神仏の遣いとして戦うのならば、敵の戦意を永久に喪失させる圧倒的な完全勝利が必要なのです」
「完全勝利・・・」
「分かりますね?よく、思考して、そして決断しなさい」

 声はそこで途切れた。

 僕は光速の中で園長先生から毎夜聞かされた物語を思い出していた。
 曰く、幽霊となりし漁師を三日三晩かけて成仏させた僧侶の話。
 曰く、早逝した実子以外の先祖の位牌を仏壇の隅に追いやったことを見もせぬのに仏の啓示で言い当てられた話。
 曰く一輪挿しを嫁に指示する姑が実は娑婆に生まれ出た仏であった話。

 様々な逸話であり真実であり世を生きる上でいかなる哲学者や社会学者たちの講釈よりも実利と未来への功徳を含む園長先生の話が僕には身に染みて心に染みて血液・体液・果ては将来子孫を成すための精の水にすら浸透し正しき判断と正しき行動を僕の意志を持って成し遂げさせようとブーストするバック・ボーン(背骨)となり尽くしていた。

 無量に近い園長先生の話の中から、僕は結論を得た。

 完全勝利。

 これしかない。

「白兎っ!全速!」

 光の速度を遥かに凌駕している白兎に対し、それでも僕は更なる奮励をオーダーした。なぜならばここが僕とこの輝かしい名馬との命の使い所だと決断したからだ。

 察知、ではない、決断なのだ。

「ヴヒヒヒィィィイイン!」

 いななき一声、7割の力で光速を超えていた白兎にはさらにその上のレベルがあった。もはや僕の顔面の頬骨が風に斬られてこそげ落ちてもよいとすら思った。さもなくば悔いを残す。

『まだ足りない。まだまだ苦しみが足りない!』

 辛酸。

 いかに努力奮励したとてそれが自己実現の如き快楽であったならば人を救うことはできぬ。

 真の意味で人を救うことができるのは、あり得ぬ困苦を自らの意思によらず被るものでなくてはならぬ。
 だからこそ苦しみを。苦悩を。心身を掻きむしり辛うじて死なずにいられるだけである苦しみを!

「ぅぅぅぅぅぅうううあああああぁぁぁぁぁぃぃぃぃぃいいいいいいえぇぇぇぇぉぉぉぉぉおおおおおおおうううっ!」

 僕は、いじめに遭う子たちが、ミコちゃんが遭ったいじめの生き地獄に匹敵するような苦しみを、白兎と共に超光速のグラン・ツーリングの今この瞬間に味わった。

 ならば、できる!

 僕は風圧でビリビリする懐刀を右手の親指をその柄の最端部にかける。
 左手を右拳に数ミクロンの隙間を開けて祈りのように添える。

 刃が切り裂く空気の層に包まれて更に速度が上がる。
 この領域に達すると小屋の中を透視できる。

 先ほどの動画の通り、覆面をしたテロリストが正座をするジャーナリストの首に卑怯なサバイバルナイフの刃を擦り付ける程に近づける。

 ぴったりと当てた。

 映像を配信するための三脚に乗ったそのカメラ目線になる覆面男。目隠しをされた日本人ジャーナリストは、なんとか尊厳を保とうと努力していたが、ナイフが彼の首に触れた瞬間にとうとう落涙し、顎をガクガクと鳴らし始めた。

 僕は、その一点を目指す。

 白兎が大宇宙史上、最も速く移動する物体の速度記録を更新する。もはや僕と白兎は粒子と化し、小屋のコンクリートの壁をすり抜けた。

 そして、僕は、親指を上に、小指を刃の根元に少しかかるような構えでもって、神速さまより授かりしこの懐刀をハンマーのように重く振り下ろす。
 そして、切っ先を、まるでミシンの針が繊維すらすり抜く鋭さで、照準を精密にする。

 切っ先がテロリストの持つサバイバルナイフの刃の腹のど中心に触れた瞬間、僕は怒鳴った。

刀尋段段壊(とうじんだんだんね)!!!」

 全世界にその瞬間が配信された。

(いかづち)!!」

 数十億人にはそうとしか見えなかっただろう。
 サバイバルナイフが突然雷に撃たれたと。
 そして、ピシッ!、と粉砕されて金属片がコンクリートの床に、キン・キンと落ちたとしか見えなかったであろう。

 テロリストが、即座に発狂した。
 ずだあ、っとコンクリートにひれ伏し、

「ガガガガガガガガガッ!オオオオオオオオオ!」

 控えていた他の二人のテロリストたちも口を手で覆って涙を流し、自分たちの民族の言語で叫んでいる。

 おそらく、自分たちの神に、身勝手な救いを求めているのであろう。
 それとも、あり得ぬ誅戮を下す神を呪い始めたのか。

 これは一部の人々が安易に口にする『奇跡』でもなんでもない。厳然たる事実だというだけの話だ。

 僕は園長先生の毎夜のお話の内のひとつのエピソードを忠実に再現したにすぎない。

 謀略により無実の罪で刑場に端座する聖人のうなじに斬首の大太刀が振り下ろされるその瞬間、電撃か稲光かによってその日本刀が、ポキリと折られるそのシーンを。

 白兎は再度スピードを上げ、小屋の壁をすり抜ける。僕はその刹那、勝鬨を挙げた。

「神をも畏れぬ者ども!あるいは神を都合よく利用する者ども!そして弱者を虐げる者ども!我は汝らを永遠に(ほふ)ったりぃっ!」

 僕の光速から放たれる声無き声は、あらゆる言語に翻訳されて以心伝心で全世界に浸透し、邪悪な者たちを震撼させた。

 テロの首謀者どもを。
 私欲で戦争を起こす政治屋どもを。
 他者をいじめる卑怯者たちを。

「白兎。休もうか」

 僕はいたわったつもりだった。

 だが、この人間以上に人間たる、武士以上に武士たる名馬は、再度いなないてストップすることなく、ささくれだって血すら流すその脚のまま、はるか僕たちの故郷、日本を目指して復路を駆け続けた。


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