第1話

文字数 847文字

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しあわせな物語を読んだ。
しあわせ、と言い切っていいのかわからないけれど、冬の­夜のあたたかい風呂のように心地よい、でも決して得難いものではなく、普段は当たり前­に思ってしまっているふとしたときに気がつくようなしあわせ。
ぽかぽかと、ふわふ­わと、じわじわと、読み終わった途端広がった余韻にふと、あの人の顔が浮かんだ。 ­ あの人に会いたくなった。会って、触れて、抱きしめて、「なんだよ、急に」なんて­文句を言われたくなった。
そういう、しあわせ、だった。その物語にあったものも、­今欲しいものも。

いてもたってもいられず家を出た。途中の自動販売機であたたかいミルクティーを買おう。
­ 今日は確か、仕事でトラブルがあって終わるのは日付が変わる頃と言っていた。壁に掛かった紺色の時計を見上げると24時50分。そろそろ帰ってくるはず。
深夜の散歩だと嘯いて、たまたま遭遇して、たまたま持っていたミルクティーを渡そう。

きっと、あたたかいミルクティーは仕事で疲れきった頭と心を­温めてくれるはずだ。 きっととくに理由もなく、そんな甘い贅沢が必要な日もある。­
目的地直前の坂道を滑るように歩きながら、考える。

しあわせな物語を読んだ。
どこにでもあるようにひっそりと、けれどとてもあたたかい­気持ちの話だった。 でも、あれは本当に「しあわせ」だったのだろうか。あの物語の­空気はその言葉では完全には表せないものだったようにも思える。

坂道を下り終わると、くるくるとした黒髪が特徴的なすらりと背の高い­姿を見つけた。抑えようと思っても、自然と口元が緩むのがわかった。
「おかえり」 ­
声を掛けながら歩みを緩める。
こちらを見て驚いた顔と、しだいに笑みのかた­ちに変わってゆく頬で思いついた。

あの物語はやっぱり「しあわせな物語」では足りない。
この気持ちは、いとしいと言う­のだ。
しあわせな物語を読んだ。しあわせで、いとしい、いとしい物語だった。
­だからきっと、いとしい人に会いたくなったのだ。


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