恋遍路10.つくし

文字数 1,629文字

「彼女とは、全然違うからね」Kが淡々と言った。
 少し残念そうに聞こえたのは、私が「自分と全然違う」私の恋人を残念に思っていたからだろう。Kは彼の恋人と自分との「違い」を包容する、寛大な男だった。
「愛は、相手を変えようとしないこと。自分が変わろうとすること」である。だが、いかに心のひろい彼としても、まだその境地にまで行っていない。その手前の、「相手を変えようとしない、そして自分も変わろうとしない」男だった。

 彼の、恋人に対する愛情は、一種のあきらめ、諦念から始まっていた。おたがいに違うことを認め、おたがいに言いたいことはあるけれど、その違いをつくる人間的な違い・根本的な違いには目をつむり、表面上だけうまくやる、仮面夫婦の様相も呈していたが、彼はそれをも包容していた。つまり、許していたのだ。彼女が彼女であることを、彼が彼であることを。その二人が、

をつくっているということを。
 
 だが、この寛容さがまた、彼の恋人に「もの足りなさ」を感じさせる一因にもなっていた。彼、Kは海綿体のような男で、自我という突起物は確固としてつぶさにありながら、全体的にスポンジ的な柔らかい人間で、よく言えば鷹揚、わるく言えばとりとめのない、角がなさすぎて掴みどころのない人間だった。
 したがって、私のような自己主張の強い人間は、「自由」を与えられた気になった。彼が、私のすべて言うことを笑って受けとめ、ほんわりと彼は彼のなかに私を吸い込む。吸い込まれるから、私はさらに一層、自由を与えられた気になって、せっせと自己を開示する…
 
「愛した男に尽くしたい。尽くすこと、それが女の幸せというもの。あなたには、尽くしたくても尽くせない、もどかしさを、彼女、感じてるんじゃないかしら?
 ぐにゃぐにゃした、こんにゃくみたいなあなたからは、こちらがどんな刃物で突き刺しても、何の手ごたえもない。私には、とてもありがたい、あなたのすごいところだと思うけれど、一緒に暮らす彼女からしたら、もの足りないかもよ。もっと情熱的に愛してほしい、とも思ってるかもよ。
 自分勝手な人間は、自分が大好きだよね。他人の勝手は許せないくせに、自分の勝手には、すごい大らかでさ」
 自由を与えられた私は、その賦与者である彼に、どんどん言いたいことを言う。彼は、大きな眼を、私が彼を見ていない時に、私に向けている。私が彼を見ると、彼はさっと視線を他に向ける。シャイな男なのだ。

「人間って、自分で自分を、好きで苦しめているんだから…」
 そう言った時、彼は、「うん、ほんとにそうだよね」と私を真っ直ぐ見た。(彼は、同意する時、真っ直ぐこちらを見つめ、否定したい時は視線をそらして「そうかなぁ」と言い、ほんとに否定する時は「違うんじゃない?」と笑いながら言うのだ)
「好きで自分を苦しめていることを知ってる人、少ないよなぁ」
「私たちの体験することは、ぜんぶ

の体験なのにね」
 こういう微妙な思考が、おたがいにでき、分かり合えることが、彼と私の貴重な接点だ。
「結婚なんかしなきゃよかったのよ。やさしい他人のままでいられたのに」
 彼に翼を付けられ、私はさらに言葉を飛ばす。
「やさしい他人か…」彼は、少し目を伏せて言う。

「さあ、そろそろ帰らなきゃ」
「うん、また来てね」
「うん、ありがとう」
 私たちが会ったのも、10年ぶりだった。20歳の頃に知り合って、もう30年。
 そう、何年経っても、昨日のように会って、話ができる友達。
 彼と私は、恋に落ちないだろう。彼は私が

ことを知っているし、そうさせているのが彼であることを知っている。私が彼を自由にさせないことを、私も知っている。
 私たちは、

いるのだ。
「10年なんて、またすぐ過ぎるんだぜ」彼が笑って言う。
「うん。また、10年後に会おうか」私が笑って言う。
 またね。
 うん、また。
「久しぶりに会えて、よかった。人間って、本質的に変わらないね」と、年賀状が届いた。
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