第1話 あばばばってなった話

文字数 1,938文字

 大学を卒業してから、僕はIT企業に務めていました。職種は技術職。システムエンジニアとか、SEなんて呼ばれるお仕事です。

 2021年現在ではIT業界も大きく変化を迎え、ホワイト企業と呼ばれたり、働き方改革を進める組織も沢山あります。
 ですが当時の僕は多忙を極める毎日。一番多いときは月間300時間以上働いたこともありました。しかも(うるう)年ではない2月に。オイオイ霞が関の官僚か。

 プロジェクトが佳境に入ると終電を逃したり、職場で寝たり、職場近くのネットカフェやホテルで寝たり……そんなことが日常茶飯事でした。

 この状況に僕はストレスMAX。

 そもそも仕事があんまり好きな人間ではなかったのです。あくまで生活の糧を稼ぐ手段、プライベートを犠牲にするなんて嫌で嫌で仕方がない。そう考えていました。

 なのでこなせるハズのない業務量やスケジュールに、いつも不満を感じていました。
 とはいえ何も対策をせず、言われるがままに仕事をこなしていたというワケでもなく。

 激務を改善しようと自分なりに模索し、転職活動だったり、上司に直談判したり、部下を勝手に作ろうとしたり、上司に指示を出したりスケジュールを勝手に調整したり……残念ながら色々と切ない事情によりことごとく失敗したのですが。

 とまれ、そんな感じで自分に出来る(と思った)ことは全て手を打ち、けれども状況は一向に改善せず。
 自分を取り囲む状況は八方ふさがりに思え、気が付けば怒りや不満、焦燥感に絶望感、色々な感情が綯い交ぜとなりもはやコントロール不可能な状態になっていったのです。

 ◇

 ちょっと体調がおかしいな?

 何だか思考が回らないし、記憶力も落ちているし、なにより集中力が落ちた気がする。今までのスピードや精度で仕事が出来ないの。

 歳だから?
 流石にちょっと無理がたたった?

 社会人になって10年目の4月、そう感じる日が増えてきました。

 まぁ大丈夫だろう、それより目の前のプロジェクトを終わらせなきゃと自分に言い聞かせてみるものの、日を追うごとにパフォーマンスは低下。まともに集中できるのが週4日になり、3日になり……ついにまるっきり仕事が手につかないことも。

 それでも何とか会社に向かい、朝から晩までパソコンをカタカタ触る日々。今にして思えばヤバイという自覚も無いほど、何もかもを麻痺させて……というか、麻痺しなければ正気を保てなかったのだと思います。

 無意識のうちに、正気を失っている自覚さえ持たないよう、細心の注意を払って。

 やがて心も身体も限界を迎えたのでしょう。ある日、仕事でどえらいミスをしでかしました。何故そんなミスをしたのか自分でも理解できないレベルのケアレスミス。ユーザへの影響も大きくてちょっとシャレにならない感じ。

 この時点でもうダメだって気付ければ良かったのに、それでも頑張り続けた結果、遂にはメモさえ取れなくなっちゃいました。

 メモを取れない、なんて感覚を説明するのも難しいのですが……話を聞いてメモを取る。そう難しいことではありません。

 けれども人の話が頭に入って来ないの。文字を書こうと思っても『あれ? この人なんて言ってたっけ?』みたく、 ほんの1秒前の単語さえ頭の中に残らない、シンプルに短期記憶力が消失した瞬間でした。

 あぁ、脳みそって壊れるとこうなるんだ、みたいな。
 名付けて頭あっぱらぱぁ状態。

 それでも必死で仕事をこなしていると、ある夜、凄まじくネガティブな、どうしようもない焦燥、これまでの人生で感じたことのない、どす黒い津波のような感情に溺れて息もできない感覚へと陥りました。

 希死念慮。いわゆる自殺願望というヤツですね。
 あの状況をどう言語化すればいいのか……もう一言でいえば、

「あばばばばば」

 的な。

 衝動的というか恐慌状態というか『あっこれ死ななきゃダメだわ』という、何とも言えない思考が脳の中を支配する、筆舌に尽くしがたい、もう二度と味わいたくない、強制力を伴った自殺願望。

『僕の人生は失敗した。もう、手遅れだ』

 それだけが強い確信を持って、明確な事実として、疑いようのない現実として認識されました。

 ベランダの柵を今すぐ飛び越えたい/飛び越えないといけない/けれども自殺はいけない/それだけはいけない――不思議なことに()()()()()()とは思いませんでした。死にたい/死ぬべきだ/でも死んではいけない――そんな三つの思考がグルグルと高速回転を繰り返すのです。

 葛藤が落ち着くまでどれくらい経ったのかも分からないけれど、何時間ものあいだ、身体を押さえつけていた気がします。

 ここに来てようやく自分がヤバイ状態にあると気づく鈍感さ。

 翌日、僕は心療内科を受診することになりました。あばば。
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