第五章 ③
文字数 3,838文字
死んだ男の身元だった!
テレビの特集でも取り上げられ続けたが、
その被害者-事故で死んだ男-には、
謎が多かった!
彼の前の信号は、確かに赤だった。
だが、周囲の制止の声を聞かないで、
交差点に勢いよく飛び出して行き、
―その後の警察の調べで男の血液から
多量のアルコール分が検出された―
乗用車に轢かれて死亡したこの男。
警察の必死の捜査にもかかわらず、
なかなか身元は判明しない。
もちろん、年齢、職業ともに不詳。
ホームレスではないかと思われる格好、
風貌。
ボサボサの銀髪で、左目には眼帯をし、
また、かなりの長身だった。
そして、その異様な所持品…。
これが、視聴者の関心を引きつけた。
事故の衝撃で、道路に投げ出されたと
思われる彼の所持品は、古い腕時計、
そして小銭数枚、それと、若い女性の
全裸の写真数枚だった。
写真は、明らかに売り物ではなく、
誰かが撮影して現像したものだった、
素人目に見ても。
それに、いすみ市民は不気味さを、
感じていた。
それらの写真は、現場に居合わせた視聴者
の提供で、番組ではモザイク付きであったが
流されていた……。
警察は、それらの写真に写っているのは、
性犯罪の被害者の写真であり、すべて
同一女性が撮影されているものと推測した。
そして、事件性がある写真と警察も
判断したが、それらの写真だけでは、
警察のも捜査のしようがなかった。
とにかく、その事故は、いすみ市民に
とって、ショッキングな『事件』
だった。
昔、その交差点で多重追突事故が起こり、
死傷者がたくさん出ていた。
「あの交差点は呪われている」とか
「あそこは通らない方が良い」と、
この事件に関連して、噂が飛び交った。
だが、いすみ市の主要道路である
その道路を避けて通ることのできない
市民が多かった…。
よって、この事件について連日、
【ケーブルテレビいすみ】が取り上げた。
その番組を、学校に行けなくなった真子は、
毎日、食い入るように見ていた。
「自分も、この事故で死んだおじさん
のように、誰なのか、名前が
分からなければよかったのに」と
思いながら。
……あの日 、盆踊りで売ってる、
テレビのキャラクターの仮面を
かぶって登校していたら、
おもらししてもみんな自分だと、
つまり、奥中真子だと分からなかった
だろう。
……そんな仮面かぶって、学校に行く
なんてありえないことだけど。
でも……と、真子は考えてしまう。
自分だって、みんなが分かっているから、
学校に行けないんだ。
誰がおもらししたのかみんなが知らない
なら、自分も堂々と学校に行ける……。
真子だって、学校に行きたかった、
本心は。
真子は、交通事故で死んだ、
おじさんが羨ましかった。
このおじさんは、死んでしまったけど、
名前も家族のことも、誰も分からない。
お巡りさんたちも知らない。
みんなが、このおじさんが誰なのか
分からない。だから、死んじゃったけど、
このおじさんは幸せだと、真子は思った。
みんなに、誰だが知られてたら、
一生言われる。
『〇〇は、酒に酔って信号無視して、
道路に出て行って、死んだんだ』と。
でも名前が知られてないんだから、
このおじさんは、バカにしようにも、
誰もバカにできない。
しかも、死んでるんだから、何を
言われても平気。
「いいな。このおじさん」と、正直に
真子は思った。
おじさんは、酔っぱらって道路に飛び出して
車とぶつかって死んじゃったけど、
みんなは、あの人の名前を知らないから
「奥中真子がおもらししたよ、昨日!」
みたいに、
「〇〇が、昨日酔っぱらって、道路に
飛び出して車に轢かれて死んじゃった、
昨日!ああ言う大人になっちゃダメよ」
とは言われない。
それに、死んでるから、仮にどんなに
バカにされてもダイジョブなんだ。
自分も、そうでありたかった。
でも、自分は、みんなの前で、奥中真子と
しておもらしをしてしまった。
仮に、誰も、自分を知る人がいない遠い所で
おもらしをしてしまったとしても、
すぐに逃げれば、へんな女の子が
おもらしをした……、と言われるだけ。
「千葉県いすみ市に住んでいる
奥中真子がおもらしをしたよ」なんて
言われない。
そして、自分も忘れたふりして、普通に
生きていける。
だけれど、もう自分はダメなんだ。
あの学校に戻れない!
あの学校で自分のことを知っている
みんなの見てるところで、
おもらししちゃったんだ……。
学校に行ったら、ずっと馬鹿にされ、
ずっと噂に……。絶対、行けない!!
また、真子は、
「自分がロボットだったら良かったのに」
とも、よく考えた。
母と真子のお気に入りのDVD、
【俺のガールフレンドはロボット】を、
真子は学校に行けなくなってから、
何度も何度も観た。
この映画の中では、主人公の彼女、
スゴイ美人のガールフレンドが、
実はロボット、と言う設定なのだ。
真子は、観ながら何度も思った。
「この人のように、ロボットだったら、
良かったなぁ。
そうだったら、トイレなんかいかないでも
良いんだから」と。
そう、真子は、学校に行けなくなって、
一人で家の中や図書館で過ごすようになり、
だんだんと空想の世界に入り込んでいく
ようになった…。
前から空想が好きな女の子だったが、
度々空想に浸る、空想の世界に
逃げ込むようになっていく真子。
そんな真子は、夏休み明けも、やはり
学校には行かなかった。
母も、無理矢理学校に行かせようとは
しなかった。
娘の心の傷、痛みは、切に分かる。
ある時、精神科にも連れて行ったが、
「時間の問題です。時間をかけて、
良くなりますから。
焦らないで、お子さんが自分で学校に
行き出すのを待ってください」と、
若い医師に言われた。
母は涙を堪えるのに必死だった。
「私が、あの子の代わりに苦しみたい!」と
帰り道、何度も思った。
母は決めた。
真子の自由にさせようと。
学校に無理矢理行かせたら、学校で
バカにされて、心の傷が深くなるかも
しれない。
だから、行きたくないなら行かせないで、
そっとしといてあげようと…。
母は愛媛県に住む伯母にいろいろ
相談した。
伯母は、的確なアドバイスをくれた。
そして、その伯母のアドバイスもあり、
母は、「ちょうど良いチャンスだから……」
と、真子を入院させることに、決めた。
ちなみに、精神科の病院ではない。
耳鼻咽喉科がある総合病院に、だ。
小さい頃から、真子は病弱で、
よく寝込んだ。
扁桃腺が大きくて、ちょっとしたことで
風邪をひき、一度風邪をひくと鼻も喉も
肺も全身が悲鳴を上げ出す、
そんなことの連続だった。
保育園に入る頃にはだいぶ治まったが、
アトピーと喘息が幼い真子を苦しめる
ようになった。
喘息の発作が起こり点滴を受け、
緊急入院することも度々だった。
母は、病院のベッドに横にされ、
点滴を受け、苦しむ我が子を見るのが
忍びなかった。
自分の胸が刺し通されるほど苦しかった。
病室で、
「この子はちゃんと育つのだろうか?」
と真剣に思った。
夜、急に泣き出す我が子を抱いて、
そのまま一晩を明かしたこともある。
「この子の苦しみが、
私に移りますように!」
と切に願いながら。
そんな母の心配を取り除くように、
真子は小学校に入る少し前から
急激に元気になりだした。
体力もつき、アトピーも喘息も完治した。
でも、依然として扁桃腺が大きく、
前ほどではないが、扁桃腺がはれて、
そこから熱が出てしまい、そして、幾日も
小学校を休むことが、あった。
だけど、点滴や入院と言うことは、
なくなっていた。
そのことが、母にとっては、唯一の
慰めだった。
そんな母は、かかりつけ医から
「娘さんが中学生になったら、
扁桃腺の手術をした方が良いと
思います」と言われていた。
だから、母は、学校に行っていない娘に
手術を受けさせようと、行動に移した。
かかりつけ医に相談して、紹介状を
書いてもらい、総合病院へ向かった。
奥中親子の家から電車で15分位の
隣の市にある、三心記念病院。
そこが、真子が入院することになった
病院だった。
真子、小3の冬である。
11月に入院した真子。
手術は無事成功した。
だが、術後発熱し、なかなか
熱がひかなかった。
また、検査やカウンセリング等も
受けることになったので、真子は
1カ月半程入院して、退院したのは、
明くる年の1月初旬だった。
なので、大晦日も正月も病院の大部屋で
迎えることになった真子。
ビクビクしながらの年明けだった。
術後、手術痕から出血がある場合があって、
そうなったら再手術と聞いていた。
「血がドバッって出て、また手術になる
のかも」とか「今、唾を出したら血が
混じってるかも」とか、必要以上に
考えてしまい、怖くなる真子。
そんな娘を見て母は、「大丈夫よ。大丈夫
だから安心して」と何度も何度も言った。
でも、真子は怖かった。
恐れやすい性格の子どもに、
なってしまった真子。
それに、正直、寂しかった。
周りは同い年位の女の子の大部屋。
でも、みんな日中はお母さんや
おじいちゃん、おばあちゃんが
お見舞に来てくれているし、
夜はお父さんやお姉ちゃん、弟も来ている。
でも、真子には遠くにおばさんがいる
だけで、お父さんもお姉ちゃんもいない。
母だけ……。
真子は一人寂しさに、耐えた。
周囲には、親子の会話がある。
楽しそうな会話が聞こえてくる。
母も毎日お見舞いに来てくれるが、
働いているので、夕方近くになる。
そして、少ししたら帰っていく。
周りの子たちは、お母さんとかが
ずっと長くいてくれてるのに……。
真子は思った。
「なんでウチは、お父さん、いないの?
おじいちゃん、おばあちゃんも!
なんで、こんな嫌な目に、あたしだけ
あうの?」
(著作権は、篠原元にあります)