第5話

文字数 2,533文字

 その時だった。
 さっきまで大人しかったカップルの男、河原崎信吾が腰から銀色のバタフライナイフを取り出すと、決死の表情を浮かべて水無瀬の前に飛び出した。
「この野郎!」
 鋭く光る刃が水無瀬を襲う。河原崎は奴の胸を狙ってナイフを突き出す。
 体勢を崩しながらも、水無瀬はかろうじてそれを避けると、すぐさま反撃に出た。

 バーン!

 一瞬の出来事だった。
 耳をつんざくような爆音が響くと、河原崎は苦悶の表情を浮かべながらバタフライナイフを落とし、スローモーションのようにゆっくりと倒れていった。わき腹を押さえる彼の手からは真っ赤な模様がじわじわと滲んでいく。悲鳴が飛び交い店内は騒然となる。
 カップルの彼女の方――つまり石内山沙里は、倒れている彼の元に駆け寄ると、膝に抱きかかえて頬をさすった。水無瀬は素早くバタフライナイフを拾い上げると、ジャンバーのポケットに入れた。
「ふん、小僧のクセに、俺にたてつくとは百年早えわ! 本気で撃たねえとでも思っていたのか? 甘ちゃんだな。俺は素人じゃねえんだ。危険を察知したら容赦はしねえ!」一人ひとり順番に銃口を向けながら、「……お前らも死にたくなかったら、しっかりと憶えておけ!」
 河原崎の横腹からは血液がみるみる流れ出し、床を赤色の海に染めていく。顔面蒼白の河原崎は必死で口を動かし、声にならない声を上げようと、涙ぐむ沙里の瞳をしっかりと見つめていた。
 高野内とマスター、そして国長野の三人は瀕死状態の河原崎を店の奥まで慎重に運び、ゆっくりと床に横たえる。息も絶え絶えとなり、このまま放っておけば、心臓が動きを永遠に止めるのに、そう時間はかからないと思えた。
 水無瀬の無情な声が轟く。
「最初に開放する奴が決まったぞ! そこのクソ生意気な小僧だ。俺も鬼じゃねえ、今すぐに医者に診てもらえば、命が助かるかもしれねえしな」
 自分で撃っておいて、その言い草はないだろうと思ったが、河原崎の自業自得とも言えず、何ともやりきれない気持ちになった。
「こうなったら救急車を呼ぼう。麗奈、すぐに電話を」マスターが叫んだ。
 しかし、携帯の類はすべて水の中。この中で唯一通信手段を持っているのは――。
「すみません、救急車を呼んでもらえますか?」麗奈は水無瀬に言った。
「馬鹿野郎! 救急車なんか呼べる訳ねえだろう」
 そこで沙里は大声で喚いた。
「じゃあ、どうしようっていうの! 彼は……信吾は今にも死にそうなのよ」次第に涙声に変わる。「そうなったら、私……私……」
 顔を伏せ、肩を震わせながら泣きじゃくる。悲しみの海は店中を真っ黒の底に沈めていく。だが、高野内にはそんな沙里の態度が何処かオーバーに感じられた。うがった見方をすれば、この状況を利用して、悲劇のヒロインを演じているのかもしれない。
「おい、落ち武者!」
「西木屋です」落ち武者のマスターは訂正する。
「あんた、車あるよな?」
「……ええ、裏の駐車場に止めてあります」それが何かと言わんばかりに、眉をしかめるのが見えた。
「俺も悪魔じゃねえ。このまま外に放り出してもいいが、武士の情けだ。あんたの車でそいつを病院まで運んでやれ。そのかわり病院は俺の知っているところにしろ」
 返事の代わりにマスターは深く頭を下げる。沙里もハンカチで涙を拭いながら感謝の言葉を述べた。
 水無瀬はカウンターにあるメモ紙にボールペンを走らせると、それをマスターに渡す。どうやら病院の名前と住所が書かれているみたいだ。さっき回収した車の鍵も一緒に添えてある。
「そこなら銃で撃たれた傷痕を見ても、警察にチクったりはしねえ筈だ。もぐりの闇医者で、いけすかねえ野郎だが、腕だけは超一流さ。向こうには俺から連絡を入れといてやるから、さっさと連れて行くんだな」
 沙里は自分も一緒に行きたいと懇願したが、撃たれる覚悟があるのならと、水無瀬は一笑に付した。
 すがるような目でマスターを見上げ、沙里はその手を必死に掴んだ。
「どうか信吾を助けてください。彼は恩人なんです。……いじめられて引きこもりがちになり、私は悪い友達にそそのかされて、スリばかりを繰り返していました。クスリに手を出したことも一度や二度ではありません。そんな地獄のような毎日から抜け出せたのは、彼と出会ったからなんです」チャラそうに見える沙里だが、意外と辛い過去があるようだ。
泣き崩れる沙里に寄り添い、国長野は背中を優しくさする。
 水無瀬はカウンターの下のに置いてあったボストンバッグを片手で拾い上げると、テーブルの上に乗せ、チャックを開ける。中に手を入れてすぐに抜き出すと、その手には現金の束が握られていた。それをホイとマスターに投げてよこす。
「百万ある。小僧を運んだらそいつを黙って医者に渡せ。ここからだと片道で二時間は掛かるだろうが、三時間以内に戻ってこい。いいか、妙な真似するんじゃねえぞ。もし一秒でも遅れたり、警察に通報でもしやがったら、あんたの可愛い娘には二度と会えないと思え。……その小僧には余計な事を喋らせねえようにしっかりと麻酔を打ってもらう。……心配するな、急所は外してある。よっぽどの事がねえ限り、明日までは持つだろうよ。それとも小僧を見殺しにして、あんただけさっさと逃げるか。百万で娘を売ってな」
 水無瀬の言葉に緊張の色を隠せないマスターは、現金の束をポケットに入れ、車のキーを握りしめる。
「そんな事はしない。あんたの指示通り、医者に彼と現金を渡したら、全速力で戻ってこよう。だから約束してくれないか、娘には決して手を出さないと。……もちろん他の客たちにもだが」
 マスターの悲痛な叫びに、今度は麗奈の泣き混じりの声が聞こえてきた。
「……お願いします。私はどうなっても構わないから、みなさんにはこれ以上危害を加えないでください」
「泣かせるね~、お嬢さん。俺にあんたのような娘がいたら、こんな人の道を外すような真似はしなかったかもしれねえな」本気なのかおどけているのか、サングラス越しだけに、内心を計り知ることは出来ない。仮にサングラスが無かったとしても、知れたところではあるが。
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