神の副官

文字数 2,561文字

 空軍基地から飛行機に乗せられ、天馬とエリカはシベリア南にある目的の基地へと向かっていたのだった。基地に着いても、そこから車で国境を越え、3日はかかる道中らしい。

 機内ではエリカはずっと本を読み、一言も口を利かなかった。しかしちょうど本を読み終えたタイミングだったのだろう、本をパタリと閉じて、天馬睨みつけてくる。

アンタさ、さらわれてロシアに来たのよ。反発しようとか思わないの?
俺が本気で反発すればロシアは滅亡する。
 そんな天馬の言葉をエリカはスルーする。
むしろ逃げてくれたほうが私には嬉しいんだけど。そしたら二度とその口利けないようにしてあげられるのに。
物語がこれから始まろうとしている。地球が変わる壮大な歴史絵巻の始まりだ。それを前にして、主役がどこに行くという?
あっそ。

ところで、さっきから何をブツブツ言ってるのよ。気が散ってまともに本を読めなくて困ってたんだけど。

ロシア語を学んでいる。
そんなタブレット一つで学べるわけ?
 何も荷物を持たない天馬が、唯一要求したのがPC環境だった。すぐに与えられたのがホテルでネットゲームにログインしていたノートPCと、このタブレットである。
俺の頭脳は特別性でな。大量の短文、その発音を脳にインプットしている。発音ばかりは日本語訛りだが、読み書き会話に困ることはなくなるだろう。中国語、パシュトー語、ダリー語についてもマスターしておく予定だ。
 この輸送機にネット環境は備わっていたが、それは軍のネットワークのようで、天馬がアクセスすることは拒否されていた。そのため、いつものネットゲームにアクセスさせてもらうことはできず、基地で予めダウンロードしてあったロシア語の膨大な例文集と音声を頭に叩き込んでいたところだったのだ。
それが本当なら、たしかに知能だけは高いのね。人間性は激しくマイナスだけど。
人間性?

俺は万人に好かれたくて生きているわけじゃない。世界を変えるために生まれてきたのだ。

 わずかな迷いすら見せず、天馬は強く言い切った。

 険悪だったエリカの表情は戸惑いに変わる。

…………。

おかしく聞こえるわ。だって引きこもりだったんでしょ? 何一つ行動してこなかったじゃないの。

この俺がひとたび行動を起こせば世界の色が塗り替わることに確信があった。舞台を待っていただけなのだよ。
結局、他力本願だっただけじゃない。
世界が俺を見出さなければ、この世界には変えるほどの価値はなかった。だがプーチンが言っていたように、世界はどうやら俺を発見したようだ。

次は……俺の番だ。

……よくそんな風に何から何まで自分に都合のいい自信が持てるものね。
自信ではない、確信だよ。

人生の主役は自分であるべきだ。主役が行動すれば世界が変わるのは当たり前だろう?

…………。
貴様は、自分の人生の主役じゃないのか?

それとも、とっとと役を降りてしまったのか?

 エリカはハッとした様子になり、つぶやくように口にする。
……考えたこともなかった、そんな風に。……貴様じゃなくて、エリカよ。エリカ・マリシェヴァ。
俺のことは天馬でいい。

エリカに、副官として基本的な事情を聴いておこう。プーチンが半分日本人だと言っていたが、なぜFSBなどに席を置いている?

ロシアでのし上がるのに最善なのは、情報機関員としての地位を確立することよ。プーチン大統領だって情報機関員のエースから、あれだけの出世を遂げて、今や世界政治になくてはならない人になっているわ。この道に入れるなら、入らない理由はなかった。
ほう、ただの小間使いかと思っていたが、少しは自分の意思があるじゃないか。
母は日本人。父がロシア人で、日本との貿易で大きな利益を上げていたの。

でも私が16歳のころ、父の会社が倒産してね。そのときよ、なんとかして自分のポジションを作らなきゃいけないと思ったのは……。幸いにも高い教育は受けられていたし、日本語もネイティブだったから、日本担当として採用してもらえたわ。

俺を三顧の礼で迎えるミッションにも参加していたのだな?
ええ、天馬を拉致するバンで私は運転手を務めてたのよ。三顧の礼じゃないけどね。

この仕事で、見聞きする話のすべてが私の糧になる。ささやかだけど世界の深部の一端に触れることができているし、こんなに面白い仕事があるんだと思ってた。不満はなかった。天馬のサポート役に付かされるまでは! 天馬が日本人だったことが私の運の尽き。

運が尽きたと考えていることが間違いだと、この俺が証明してやる。黙って俺についてこい。
……なっ!?

何なの……?

FSBで見る世界など一欠けらの破片にすぎん。世界のすべてを、この俺が見せてやる。
…………ほ、本当に本気で……言ってるわけ?
俺の言葉はすべてが真だ。
なんか、ひと昔前の日本映画で見たような強引なプロポーズみたい。
どんなネットゲームでも、俺の指示が間違えたことはなかった。ギルメンどもが勝手に判断しない限り、俺はすべて勝ってきた。これからも同じだ。エリカはただ、うなずいて俺に従えばいい。
日本女性とロシア女性は丸っ切り違うと知っておいたほうがいいわよ。耐え忍ぶ美徳が未だ生きている日本の女性と違って、ロシア女性は自分で決断できる力があるからね。
ロシア人の離婚率は世界一だったな。女性がスパッと別れの決断をするから、離婚率80%を超えていると聞く。
私の性格は母親譲りで日本式のほうが強いかもしれない。でも残念ながら、耐え忍ぶ性質だけはゼロなのよね。私が天馬を殺さないでいられるかどうか、かなり際どいところだと思う。
殺しの経験はあるのか。
ないわよ。でもそれが工作員としての仕事となれば躊躇はしない。
決断を工作員のせいにするな。重大な決断は、自分の意思で決めることだ。
……いちいち偉そうに……。やたら腹が立つんだけど。
腹が立つ理由は、それが図星だからだ。
 エリカは端正な顔をゆがめる。
天馬みたいな男には一度も会ったことがなかったわ。
エリカに神殺しはできん。

これからの世界は、俺を中心にして動くことになる。俺が紡ぎ出す地球を変える物語を、エリカは特等席で見物できるのだ。その幸運に果てしなく感謝することだな。

 天馬の断言に、エリカは半信半疑といった顔をした。しかし否定することもせず、ただ戸惑いの色を強くするばかりだった。
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登場人物紹介

不動天馬(ふどうてんま)

40歳ニートだが、自分を神だと主張して憚らない。引きこもり歴は実に25年にも及ぶ。近所のコンビニがライフライン。

エリカ・マリシェヴァ

25歳。ロシア連邦保安庁(FSB)の情報工作担当官。日本人とロシア人のハーフで、日本語に精通していたため、東京より呼び戻される。

イヴァ・クリチコ

15歳。アスタリア人を率いる族長。しかし亡き父を継がざるをえなかっただけであり、祖父である長老が実質的に部族を仕切っている。

プルト・カシモフ

32歳。前族長の副官として部隊を率いていた。14歳で従軍して以来、アスタリアの全戦闘に従軍してきた歴戦の兵士。天馬に反旗を翻す。

ライザ・フローレンス

24歳。世界最大級のリベラル系メディアCNMの報道特派員。無名の天馬に狙いを定めて取材を申し入れてくるが……?

ロスティスラフ・プーチン

64歳。ロシア連邦大統領。元KGBのエージェント出身であり、国際政治に多大な影響力を持っている大政治家。

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