第1話 <癒えない傷>

文字数 1,896文字

コーヒーのドリッパーにお湯を注ぐと、
ふわーっと丸く山型に豆が膨らむのと同時に、
優しくほろ苦い香りが立ち上った。

ぽとぽとと、グラスポットに溜まっていく琥珀色の液体が、
私のささくれだった気持ちを落ち着かせる。

42年も生きていると、いろんなものを手にすることができたけど、
トラウマとか心の癒えない傷なんてものも付いてくる。

「ふぅ」

さっきの時田(ときた)さんとの会話で
17年前のあの忌まわしい出来事を思い出した私は、
小さなため息をついた。




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ここは東京下町、清澄白河(きよすみしらかわ)

近年町工場をリノベーションしたカフェが、
雨後の筍のように生まれ、注目が高まっている街。

ここも私の両親が亡くなった後、父の工場を改装してカフェにし、
オープンしてからもう七年になる。

チリン!

と、ドアの開く音がして、時田さんが顔を覗かせた。

「いらっしゃい、
今日もカフェラテ? アイス? ホット?」

私が聞くと、

「いや、今日はミントティーにしようかな」

と、時田さんはミントティーを注文した。

時田さんは近所に住んでいる常連さんで、
高校生の娘さんと二人暮らし。
作家さんなので平日でもこうやってふらりとお店にやって来る。

「かしこまりました」

ティーポットにガンパウダーというモロッコの茶葉を入れて、
お湯で数回茶葉を洗い、フレッシュミントとともに煮立てる。

「こういったカフェで、
本格的なモロッコミントティーやってるお店って珍しいよね」

「前にモロッコ旅行した時にハマっちゃって。
それから出してるんです」

私は笑って答えた。

「そう言えば二子玉川(ふたこたまがわ)に本格的なモロッコカフェがあるらしいんだけど、
良かったら今度一緒に行かない?
ここからなら半蔵門線(はんぞうもんせん)一本で行けるし」

「え……」

私は思わず返事に困った。

「あ、いや、そうだよね
俺と一緒にとか困るよね」

時田さんは慌てて言った。

「いえ、そうじゃなくて……」

私が言うと

「お姉ちゃん、半蔵門線で渋谷より向こうに行けないのよ」

店を手伝ってくれている、妹の八重子(やえこ)が口を挟んだ。

「え? そうなの? なんで?」

時田さんは目を丸くして聞いた。

「いや、うん、ちょっと……」

と、私は思わず口ごもり、

「聞かないであげて」

と、八重子は少し笑いながら言った。

時田さんが帰った後、テーブルを片付けていると八重子が

「お姉ちゃん、まだだめなの?」

と聞いた。

「そこには触れてくれるな」

ダスターでテーブルを拭きながら私は答えた。



二子玉川……。

17年前の忌まわしいあの日。

圭介(けいすけ)から親友の里美(さとみ)を身ごもらせたと突然打ち明けられた。

「どういう事!?」

「ごめん…… つい魔が差して……」

ただただ床に手をついて座っている圭介に腹の底から怒りがこみ上げ、
私は啓介を殴った。

昔見たエンドレスにサンドバッグをパンチする
猿の人形になってしまったんじゃないかと思うくらいボコボコに。

「俺だって寂しかったんだ!!」

圭介は殴られながら叫び、その一言で私の手が止まった。

圭介は乱れた前髪の間からこちらを見上げて言葉を続けた。

「だってお前、いつもカフェの事ばかりで、
俺の事は二の次だっただろ!?」

何も言い返せなかった。

圭介の事は好きだった。
でもずっと念願だったカフェをオープンさせる夢は
それと同じくらい大事だった。

確かに勉強会やカフェ巡りに勤しんで
圭介の事を蔑ろにするような事は度々あった。

でも…… だからってこんな仕打ち……。

信頼していた人たちに裏切られた痛みと、
彼と親友両方を突然失う痛み……。

「無理……」

それだけ言い残して私はその場から立ち去った。

それから圭介にも里美にも会っていない。

その後、風の噂で二人は今、二子玉川に住んでいると聞いた。

二度と近づきたくない理由はそのためだ。

あれから別の人と付き合ったり、
お見合いなんかもした事あったけど、
誰とも上手くいかず、結局42歳まで独身を貫いてしまった。

「二子玉川」というワードからここまで気分が落ちるとは……。

「はぁ」

と、またため息をつき、チリン!とドアが鳴ったので、

「いらっしゃいませー」

とドアに目をやると、入って来た人物の姿に、
私の心臓はズキンと大きく波打った。

圭介!?

いや、圭介はこんなに若くない。
が、そのフォルムと佇まいが圭介を思わせる少年だった。

「どうぞお好きな席にお座り下さい」

動揺を抑えながら声をかけると、
その少年はまっすぐ私の方に歩いて来て、

早川小夜子(はやかわさよこ)さんですか?」

と聞いた。

「そうですけど、何か?」

と聞くと

「俺、小園(こぞの)圭介と里美の息子です。
明日死のうと思ってるんで、最後にあなたに会いに来ました」

と私から目を逸らさず言った。

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