十月十二日、火曜日。③
文字数 8,969文字
家に戻ると、母はまだ帰っていなかった。
(よかったー、い つ も ど お り だ)
母のことだから、変に心配して早く帰ってくるかもしれないと思っていたけど、杞憂だったようだ。
まず玄関の電灯をつけたわたしは、あえていつもどおりの行動をせず、正面にある階段の電灯をつけた。そのまま階段をのぼっていき、いちばん手前にある自分の部屋のドアを、開 か な い 。
(今用事があるのは、ここじゃない)
いちばん奥――しばらく入ったことのない、父の部屋だ。亡くなった十年前から、そのままになっているらしい。
廊下の電灯をつけ、床板を軋ませながら、一歩一歩近づいてゆく。
(あのドアの向こうに、なにかヒントがあるかもしれない)
父も同じ事件を調べていたと知って、わたしが最初に期待したのはそれだった。寅おじさんにそのことを話したら、父が亡くなったときに寅おじさんも一度部屋のなかに入れてもらったのだと言っていたけど――わたしは、諦められなかった。
(自分の目で確かめたい!)
寅おじさんを疑うわけではもちろんない。
でも、ときが経って初めてわかることや気づくことだって、あるかもしれない。
それに、父の部屋へ入ることを固く禁じていた、母の真意も気になるところだった。
わたしが父の部屋に入ったのは、八年くらい前に一度だけ。そのとき、デスクの上に飾ってあった花瓶を倒してしまって、かなり怒られた。以来わたしは、父の部屋に近づくことを禁じられたのだ。
(ただ部屋を荒らされたくないにしては、なんだか大袈裟よね)
そのことが、少し引っかかっていた。
そこには、母が見られたくないと思うなにかがあるのかもしれないと、期待してしまう。
木目を生かしたドアの前に立ち、深呼吸をひとつ。胸に手をあてて、なにを見つけても驚かない覚悟をつくった。
それからやっと、丸いドアノブに手を伸ばす。
鍵はかかっていなかった。
ドアを手前に引くと、廊下の光が先に室内へと入りこむ。
(電灯のスイッチ、どこだっけ……)
暗闇のなかに手を差し入れて、ドアの傍の壁を探る。前に入ったときには、きっと届かなかったであろう位置に、それはあった。
パチンといい音がして、蛍光灯は二・三度瞬きをする。それでもすぐに点いたところを見ると、母は頻繁に来ているのかもしれない。
室内をぐるりと見まわす。
部屋の奥には窓があり、その傍に立派なデスクが置かれていた。学習机のような木製のものではなく、どこかの会社にありそうな金属製の無骨なものだ。
部屋の左側の壁際には本棚が並んでいて、ぎっしりと様々なジャンルの本やファイルが詰まっている。右側の壁際にはベッドと押し入れ。中央には茶托のようなものがあり、周りにいくつかの座布団が置かれていた。くつろぐときは床に座っていたのだろう。
(埃っぽさは全然ないなぁ……やっぱりお母さん、まめに掃除してるんだ)
本棚に近づいて人差し指を這わせてみたけど、指先はきれいなままだった。
自分だけいっぱい部屋に入ってずるいと、やや見当違いな羨ましさを感じながらも、本やファイルの背表紙に目を這わせてゆく。
(犯罪心理学とか、プロファイリングの本が多いみたいね)
十年も同じ事件を粘り強く調べていたことといい、父は身体を動かすよりも深く考えて動くタイプの刑事だったのかもしれない。
ファイルのほうは、過去に起きた事件の切り抜きや、見てもわたしには意味のわからないメモ用紙などが大量に挟まっていた。
(このなかに、同時死事件のもあるかな)
思ったよりも量があるうえ、分類されていなかったので気が遠くなりそうだったけど、ひとつずつ丁寧に目を通していく。
(わたしも、粘り強くありたい)
せめてひとつくらいは、父と同じところが欲しいと思う。確かに家族であったのだという証しが、『十年後にわたしも死ぬかもしれない』なんて物騒なこと以外にも欲しかった。
(そんなこと言ったら、お父さんに笑われるかもしれないけど)
輝臣先輩という心の拠りどころを失くしてしまった今のわたしには、どんな些細なことでも力になるのだ。
デスクとライトを借りて作業し、一時間ほどかけてすべてのファイルを見た。
しかし――
(おかしい、ひとつもない!)
デスク・チェアに深く腰かけ、文字通り頭を抱える。
(どういうこと……?)
メモ用紙のほうは、書いてあってもわたしにはわからないかもしれないけど、同時死事件の切り抜きまでないのは不自然だった。
(お父さんなら、十年ごとに起きてた事件なんだって、きっと知ってたはず)
それならば、これまでに起こった回数分の切り抜きがあってもおかしくはない。――いや、この情報量を見るに、ないほうがおかしかった。
(現在進行形で調べてたから、別にしてた?)
あるいは、持ち歩いていたのか。
あるいは――
「まさかっ」
思いついてしまったことがあまりにも不穏で、がばと上半身を起こす。
「『犯人』が持ち去った……?」
口に出しただけで、背すじが凍った。そんなことが実際にあったなんて、考えたくはない。
(寅おじさんに調べてもらおうか?)
もし本当に母以外の誰かが立ち入ったのならば、どこかに痕跡があるかもしれない。
わたしの視線は自然と、デスクの右隅に置かれた黒い電話に向いていた。今時珍しいダイヤル式で、まだ動くのかどうかはわからない。
それが逆にわたしの興味を惹いて、手を伸ばしてみた。左手で、電話の上にちょこんと載っている受話器を持ちあげる。
(うわ、受話器重っ)
その受話器の下から出てきた白い部分を押してみても、アナログ的な「チーン」という音が鳴るだけで、受話器そのものからはなにも聞こえなかった。さすがにもう繋がってはいないようだ。家の電話を取り替えたときに、これだけ残しておいたのだろう。
(一度まわしてみたかったんだよね……)
好奇心が抑えられないわたしは、今度は右手を伸ばしてダイヤルをまわしてみる。
(うわ、こっちはきついっ)
わたしの指の力が弱いせいなのか、ダイヤルよりも本体のほうが動いてしまった。
そこでわたしは、あることに気づく。
(――あれ? 電話の下になんか紙が挟まってる!?)
引っ張り出してみると、小さなメモ用紙だった。一本の線で繋がれた四角がたくさん並んでいて、そのなかにいくつかの漢字が書かれている。
(……なに、これ……)
一見すると、子どもがテキトーに書いた路線図みたいに見えた。鉛筆で走り書きしたような、乱暴な筆致だから余計にそう見えるのだろう。
(でも、書いてあるのは駅名じゃなくて、人の名字……?)
『佐藤』や『田中』といったメジャーなものや、『英 』など珍しいものもある。
数えてみると、名字の入った四角は全部で十個あり、それらを貫いている一本の線はひとつの『?』に繋がっていた。
(どういうこと?)
この『?』が、最初なのか最後なのかはわからない。ただ、メモ用紙が電話の下にあったことを考えれば、おのずと浮かんでくる答えがある。
(もしかして――電話をした、順番?)
しかも、挙がっている名前は十人。過去の同時死事件で犠牲になった人数と同じなのだ。
もしこの予想があたっていたら、無 関 係 と 思 わ れ て い た 被 害 者 た ち が 、実 は 連 絡 を 取 り あ っ て い た ことになる。
「……っ」
とんでもないものを見つけてしまった気がして、メモ用紙を持つ手が震えた。
(明日、泉先輩に確認してもらおう!)
心のなかでそう決めて、なんとか震えをとめたそのとき、不意にスマホが鳴りはじめる。胸ポケットから取り出して見てみると、母からだった。
(やば! もしかして、もう帰ってきた!?)
時計はもうすぐ午後八時を指そうとしている。帰ってきてもおかしくはない時間帯だ。
「――も、もしもし?」
おそるおそる電話に出ると、
『舞! あんた、お父さんの部屋でなにをしてるの!?』
案の定母の怒声がわたしの脳みそを揺らす。
「そういうお母さんは、どこから電話してるわけ? 車庫のシャッター音、全然しなかったけど」
『まだ開けてないわ。そこの部屋の明かりが点いてるのが見えたから、現行犯で捕まえようと思ったのよ』
「――参りました」
『下に降りてらっしゃい! すぐ行くから』
言いおわると、母のほうから通話を切った。直後、シャッターが開く悲鳴のような音が聞こえはじめる。そのシャッターは自動で開閉できるものなのだけど、なにぶんシャッター自体がかなり古いので、音がうるさいのだ。
(お母さんが帰ってきたら、その音でわかるからごまかそうと思ってたのに……!)
どうやら完全に読まれていたようだった。
わたしは見つけた紙をスカートのポケットにねじこんで、電灯を消してから部屋を出る。そして下へとおりる前に、自分の部屋に寄ると、鞄 の 中 身 を 明 日 用 に 入 れ 替 え た 。そのまま鞄を持って、階段をくだっていく。
するとちょうど、母が外から入ってきた。あたりまえだけど、表情はかなり硬く、怒りを必死にこらえているようだ。
「ごめんね、お母さん」
きつく握りしめられた拳を見て、わたしは先に口を開く。
「わたし、調べるよ。お父さんや輝臣先輩が亡くなった事件のこと」
「あ、あんた……なに言って……」
「お母さんが心配してくれてるのもわかってるけど、なにもしないなんて、わたしにはできないから」
「舞っ!」
勢い余った母は、土足のまま数歩あがりこみ、わたしの両肩を強く掴んだ。
「あんたになにができるのよっ? お父さんが十年かけてもわからなかったことを――」
「でも、お父さんは答えに近づけたからこそ、死んじゃったんでしょ!?」
その手を振りほどいて叫んだら、母は「信じられない」といった目でわたしを見てくる。
「どうしてそれを……っ」
「わたしが引き継ぐよ! お父さんが知りたかったこと。絶対に死んだりしないし、絶対に答えを見つけてみせるから……!!」
そこまで告げると、わたしは母の横をすり抜けて、自分の靴を引っかけた。そのまま飛び出し、よろけながらも走り出す。
「舞……っ」
呼ぶ声が聞こえても、振り返らなかった。
(大丈夫よ、お母さん)
「絶対死なない」とか、「絶対見つける」とか、百パーセントの可能性なんて本当は存在しないことも、ちゃんとわかっている。それでもわたしがあえて口にしたのは、そうありたいと思ったから。
『一度でも言魂に乗せた想いは、乗せていない想いよりも、現実に近づくのです』
それは、輝臣先輩に近づきたくて悩んでいたわたしに、セイちゃんがくれた言葉だった。
(想っているだけではいけない)
それを僅かでも、行動に移すために。
その第一歩として、口に出すことは無駄ではないのだと、わたしを励ましてくれた。
(今だって、同じだよ)
わたしは死なずに答えを見つけたい。
それが難しいことだということも、充分にわかっている。
だけど――逃げたくは、ないから。
途中で立ちどまり、靴をちゃんと履きなおしてから、改めて走り出した。
わたしの目的地は、最初から決まっている。琴田探偵事務所――セイちゃんのところだ。
セイちゃんが事務所の奥の部屋に寝泊まりしていることは知っていた。それに、夕方の電話の返事をまだ聞いていなかったから、直接会って確認したかった。
『それでも僕は、手伝えません。きみのお母さんの気持ちを考えたら、とても、ね』
土曜日に電話したとき、そんなことを言っていたセイちゃん。
(お母さんや寅おじさんと同じように、お父さんは殺されたんだと信じてるのね)
だからこそ強く反対したのだと、今ならわかる。
だ か ら こ そ 、味方につけなければならないと。
(お母さんはきっと折れないもの、周りから固めていくしかないんだ)
そんなことを考えながら、学校の前を通りすぎ、走りつづけること十数分。さすがにかなり息が切れていた。
ビルの階段をなんとか駆けあがるも、弾みきった息ではドアの向こうに呼びかけるのも難しく、ただ激しくドアを叩いた。普通のお客さんならインターホンを鳴らすから、それでわかってもらえると思ったのだ。
すると案の定、なかからバタバタと近寄ってくる足音と、
「はいはーい、舞ちゃんですか?」
まだドアを開けてもいないのに、そんな確認の声が飛んでくる。
両膝に手をあてて、背中で息をしていたわたしは、ドアが開くのと同時に上半身を起こした。
「こ、こんばん…は、セイ…ちゃん」
「どうしましたっ? ずいぶんとお疲れのようですが」
セイちゃんは目を丸くしながらも、すぐにわたしの身体を支えて事務所のなかへと促してくれる。
(やっぱり優しいなぁ、セイちゃん)
電話で感じたような冷たい印象は、まるでない。もしかしたら嗣斗の発言で、考えを改めてくれたのだろうか?
期待してちらちらと顔色を窺いながら、いつもの特等席まで歩いた。
「あのね、わたし、家からずっと走ってきたの」
やっと息も整ってきて告げると、理由を悟ったのだろうセイちゃんの眉間に皺が寄る。
「もしかして、家出ですか?」
「まあそんなとこ。とりあえず今夜だけでも、泊めてほしいの。わたしはソファ で寝るから……いいでしょ?」
柔らかいソファに身体を沈めながら、普段ほとんど出したことのない甘えるような声音を、精一杯しぼり出して訊いてみた。
腰に手をあてたセイちゃんは、あからさまなため息をひとつ吐いて、
「さすがにソファでは寝かせられませんよ。寝るなら僕のベッドにしなさい。僕がこっちで寝ますから」
「いいのっ?」
「きみが『捜査を手伝え』と言いに来たのなら、追い返しているところですけどね」
「う……っ」
言葉に詰まったのはもちろん、そういう側面がないとは口が裂けても言えないからだ。
セイちゃんもそれをわかっていて口にしたのか、口許は完全に笑っていた。
「とりあえず、温かいココアでも入れてあげましょう」
わたしの頭の上にポンと手を置いてから、セイちゃんは事務所の奥にある簡易キッチンのほうへと歩いて行く。
それだけで、かなり落ちついた。
(子ども扱いされて嬉しいなんて――)
そう思う心の裏側で、
(でも実際子どもなんだから、仕方ないじゃない)
擁護するのもわたし自身。
自分から甘えるのが苦手なわたしにとっては、甘えさせてくれる手は本当に貴重なのだ。
ソファの上で身体を反転させると、背もたれに頬杖をついてセイちゃんの背中を見やる。
「――ねぇセイちゃん。わたしは多分、確認に来ただけだよ。結果的にセイちゃんは手伝ってくれるだろうってこと、最初からわかってるからね」
セイちゃんはわたしに背中を向けたまま、「ハハ」と小さく笑った。
その声を掻き消すように、所長デスクの上の電話がけたたましく鳴り出す。
「舞ちゃん! 事務所の名前で出てくれませんか?」
作業を中断したくないのか、セイちゃんの声が飛んできた。
「うん、いいよー」
事務所には何度も遊びに来ているものの、電話に出るのはさすがに初めてだ。
わくわくしながらソファの端に寄り、そこから電話に手を伸ばす。ぎりぎり届く距離だった。
「――はい、琴田探偵事務所です」
『琴田さん? すまんねぇ、部屋の電気が急に消えちまって、どうしたらいいのかわからんのよぅ』
一方的に喋り出した声音は、どう聞いてもかなり年配の――おばあさんだった。
「あのー、どちらさまですか?」
そう確認してみても、
『はぁ? どちらさまって、こ ち ら さ ま だわい。わしの声がわからんのか? いつもの琴田さんなら、すぐ対応してくれるんに……』
その『いつも』とは声が違うことにすら、このおばあさんは気づいていないようだ。
(これはセイちゃんじゃないと無理だ)
そう思ったわたしはすぐに、受話器を耳から離すと下の部分を掌で隠した。
「セイちゃん! どこかのおばあさんからだよ」
声をかけると、両手にマグカップを持ったセイちゃんがのんびりと歩いてくる。
「どこのおばあさんですか?」
「わかんないけど、部屋の電気が急に消えたって」
「ははぁ、それは木村のおばあさんですね」
どうしてそのヒントだけでわかるのかは謎だけど、セイちゃんは自信満々に続けた。
「今息子さんを行かせますからって、伝えてください」
「セイちゃんが出ればいいのに」
「誰が出てもみんな『琴田さん』ですから、大丈夫ですよ」
(なにがどう大丈夫なんだか……)
釈然としないものを感じながらも、わたしは受話器を耳にあてなおす。するとすぐに、おばあさんのしゃがれ声が耳に届いた。
『――もし? もしもし? なぁあんた、聞いてんべか?』
「あ、聞いてます聞いてます。これから息子さんをそっちに行かせますから、ちょっと待っててください」
『な、なに言ってんだ! 息子なんぞ来ねくていいっ』
「へ?」
『息子が来るくれぇなら、暗いままでいいわい!』
そこで通話を切られた。耳の奥に「プツッ」という嫌な音だけが残る。
「ありがとうございます、舞ちゃん。さあ、ココアをどうぞ」
テーブルの上に片方のマグカップを置いて、もう片方はまだ手に持ったまま、セイちゃんは促した。
しかしすぐに手を伸ばす気になれなかったのは、電話のおばあさんの態度が引っかかったからだ。
「どうしました? 変な顔をして」
「変な顔もするわよー。なぁに? 今の人。『息子が来るく ら い なら暗 い ままでいい』って、勝手に電話切っちゃった」
「こっそり駄洒落まで入れるとは、木村のおばあさんも侮れませんね」
「どこに感心してるのよ……」
若干呆れた目で追っていると、セイちゃんは所長デスクの上にマグカップを置き、代わりに受話器へと手を伸ばす。
「ちょっと! ほんとに電話するのっ?」
(嫌がってたみたいなのに……)
問いかけたわたしに、セイちゃんはウインクだけを返して、番号を押しはじめた。
「――琴田探偵事務所の者ですが。ええ、ええ……今度は電気が切れたそうですよ。いえ、とんでもありません。お母さまをお大事に」
短い通話を終えると、セイちゃんはもう一度マグカップを手に取り、今度は口をつける。
それを見て、わたしもつられたように手を伸ばした。そっとマグカップを傾ける。
(――あ、おいしい)
久々に飲んだココアの甘さは、疲れた心と身体に深く染みこんでくるような感じがした。
「さっきの電話はですね、たんに息子さんを呼んでほしくてかけてきたものなのですよ」
セイちゃんは唐突に話を戻すと、説明を始める。いつもこうだから、わたしも気にせずついていった。
「でも、おばあさんは嫌そうにしてたけど」
「それはポ ー ズ です。自分で呼ぶのが恥ずかしいから僕を頼っているけれど、それを悟られるのもまた恥ずかしい。だからあんな態度になっているわけです」
「うわー、面倒くさそう」
「そうですよ、舞ちゃん。大人とは、実に面倒なものなのです。僕が両手を振ってきみを手伝えない理由も、そこにあるのですよ」
「あ、それはさっきわかったよ。セイちゃんも、お父さんは事件のことを調べてたせいで死んだんだって、そう思ってるからでしょ?」
そこでセイちゃんの眉がぴくりと動いたのを、わたしは見逃さなかった。
「――またあ の 刑 事 ですか?」
「気がついたのは嗣斗だけどね」
「そうですか……」
まだなにか言いたげな顔をしながらも、セイちゃんは口を噤む。こんな煮え切らないセイちゃんは、なんだか珍しかった。
「どうしたの? なにか気になる?」
マグカップを置いて尋ねると、セイちゃんは小さく首を振って、
「いえ――ああ、そうだ。嗣斗くんといえば、彼にはちゃんとここにいることを伝えておいてくださいね。きみのお母さんに伝えろとは、隠れている身の上ではとても言えませんが」
最後には苦笑した。
「セイちゃんのこと、まだお母さんに話しちゃ駄目? お父さんの弟だって知ったら、お母さんきっと喜ぶと思うんだ」
そう、母にセイちゃんのことを口止めしていたのは、実はわたしではなくセイちゃん自身なのだ。
セイちゃんは顔の前で両手を合わせると、目を伏せながら告げる。
「それは勘弁してください。僕は家族と会うことを父から固く禁じられていました。それなのにテツ兄さんと会っていたことは、今でも負い目に感じていて……透子さんはテ ツ 兄 さ ん の 家 族 ですから、同じことでしょう?」
「そんなの、屁理屈だと思うけどなぁ」
「僕の気持ちの問題ですから。――それよりほら、早く嗣斗くんにメールを!」
強い口調で促すセイちゃんに、わたしは思わずソファの上で姿勢を正した。
「ど、どうしてそんなに急かすのっ?」
「きみがここに泊まると知ったら、あとで恨まれるのは僕ですからね。ちゃんと最初から手を打っておかなければ」
「なんでそんなことで嗣斗が……」
「彼にも事情があるのですよ。色々とね」
満面の笑みで、やっぱり色々と、ごまかされたような気がした。
(よかったー、
母のことだから、変に心配して早く帰ってくるかもしれないと思っていたけど、杞憂だったようだ。
まず玄関の電灯をつけたわたしは、あえていつもどおりの行動をせず、正面にある階段の電灯をつけた。そのまま階段をのぼっていき、いちばん手前にある自分の部屋のドアを、
(今用事があるのは、ここじゃない)
いちばん奥――しばらく入ったことのない、父の部屋だ。亡くなった十年前から、そのままになっているらしい。
廊下の電灯をつけ、床板を軋ませながら、一歩一歩近づいてゆく。
(あのドアの向こうに、なにかヒントがあるかもしれない)
父も同じ事件を調べていたと知って、わたしが最初に期待したのはそれだった。寅おじさんにそのことを話したら、父が亡くなったときに寅おじさんも一度部屋のなかに入れてもらったのだと言っていたけど――わたしは、諦められなかった。
(自分の目で確かめたい!)
寅おじさんを疑うわけではもちろんない。
でも、ときが経って初めてわかることや気づくことだって、あるかもしれない。
それに、父の部屋へ入ることを固く禁じていた、母の真意も気になるところだった。
わたしが父の部屋に入ったのは、八年くらい前に一度だけ。そのとき、デスクの上に飾ってあった花瓶を倒してしまって、かなり怒られた。以来わたしは、父の部屋に近づくことを禁じられたのだ。
(ただ部屋を荒らされたくないにしては、なんだか大袈裟よね)
そのことが、少し引っかかっていた。
そこには、母が見られたくないと思うなにかがあるのかもしれないと、期待してしまう。
木目を生かしたドアの前に立ち、深呼吸をひとつ。胸に手をあてて、なにを見つけても驚かない覚悟をつくった。
それからやっと、丸いドアノブに手を伸ばす。
鍵はかかっていなかった。
ドアを手前に引くと、廊下の光が先に室内へと入りこむ。
(電灯のスイッチ、どこだっけ……)
暗闇のなかに手を差し入れて、ドアの傍の壁を探る。前に入ったときには、きっと届かなかったであろう位置に、それはあった。
パチンといい音がして、蛍光灯は二・三度瞬きをする。それでもすぐに点いたところを見ると、母は頻繁に来ているのかもしれない。
室内をぐるりと見まわす。
部屋の奥には窓があり、その傍に立派なデスクが置かれていた。学習机のような木製のものではなく、どこかの会社にありそうな金属製の無骨なものだ。
部屋の左側の壁際には本棚が並んでいて、ぎっしりと様々なジャンルの本やファイルが詰まっている。右側の壁際にはベッドと押し入れ。中央には茶托のようなものがあり、周りにいくつかの座布団が置かれていた。くつろぐときは床に座っていたのだろう。
(埃っぽさは全然ないなぁ……やっぱりお母さん、まめに掃除してるんだ)
本棚に近づいて人差し指を這わせてみたけど、指先はきれいなままだった。
自分だけいっぱい部屋に入ってずるいと、やや見当違いな羨ましさを感じながらも、本やファイルの背表紙に目を這わせてゆく。
(犯罪心理学とか、プロファイリングの本が多いみたいね)
十年も同じ事件を粘り強く調べていたことといい、父は身体を動かすよりも深く考えて動くタイプの刑事だったのかもしれない。
ファイルのほうは、過去に起きた事件の切り抜きや、見てもわたしには意味のわからないメモ用紙などが大量に挟まっていた。
(このなかに、同時死事件のもあるかな)
思ったよりも量があるうえ、分類されていなかったので気が遠くなりそうだったけど、ひとつずつ丁寧に目を通していく。
(わたしも、粘り強くありたい)
せめてひとつくらいは、父と同じところが欲しいと思う。確かに家族であったのだという証しが、『十年後にわたしも死ぬかもしれない』なんて物騒なこと以外にも欲しかった。
(そんなこと言ったら、お父さんに笑われるかもしれないけど)
輝臣先輩という心の拠りどころを失くしてしまった今のわたしには、どんな些細なことでも力になるのだ。
デスクとライトを借りて作業し、一時間ほどかけてすべてのファイルを見た。
しかし――
(おかしい、ひとつもない!)
デスク・チェアに深く腰かけ、文字通り頭を抱える。
(どういうこと……?)
メモ用紙のほうは、書いてあってもわたしにはわからないかもしれないけど、同時死事件の切り抜きまでないのは不自然だった。
(お父さんなら、十年ごとに起きてた事件なんだって、きっと知ってたはず)
それならば、これまでに起こった回数分の切り抜きがあってもおかしくはない。――いや、この情報量を見るに、ないほうがおかしかった。
(現在進行形で調べてたから、別にしてた?)
あるいは、持ち歩いていたのか。
あるいは――
「まさかっ」
思いついてしまったことがあまりにも不穏で、がばと上半身を起こす。
「『犯人』が持ち去った……?」
口に出しただけで、背すじが凍った。そんなことが実際にあったなんて、考えたくはない。
(寅おじさんに調べてもらおうか?)
もし本当に母以外の誰かが立ち入ったのならば、どこかに痕跡があるかもしれない。
わたしの視線は自然と、デスクの右隅に置かれた黒い電話に向いていた。今時珍しいダイヤル式で、まだ動くのかどうかはわからない。
それが逆にわたしの興味を惹いて、手を伸ばしてみた。左手で、電話の上にちょこんと載っている受話器を持ちあげる。
(うわ、受話器重っ)
その受話器の下から出てきた白い部分を押してみても、アナログ的な「チーン」という音が鳴るだけで、受話器そのものからはなにも聞こえなかった。さすがにもう繋がってはいないようだ。家の電話を取り替えたときに、これだけ残しておいたのだろう。
(一度まわしてみたかったんだよね……)
好奇心が抑えられないわたしは、今度は右手を伸ばしてダイヤルをまわしてみる。
(うわ、こっちはきついっ)
わたしの指の力が弱いせいなのか、ダイヤルよりも本体のほうが動いてしまった。
そこでわたしは、あることに気づく。
(――あれ? 電話の下になんか紙が挟まってる!?)
引っ張り出してみると、小さなメモ用紙だった。一本の線で繋がれた四角がたくさん並んでいて、そのなかにいくつかの漢字が書かれている。
(……なに、これ……)
一見すると、子どもがテキトーに書いた路線図みたいに見えた。鉛筆で走り書きしたような、乱暴な筆致だから余計にそう見えるのだろう。
(でも、書いてあるのは駅名じゃなくて、人の名字……?)
『佐藤』や『田中』といったメジャーなものや、『
数えてみると、名字の入った四角は全部で十個あり、それらを貫いている一本の線はひとつの『?』に繋がっていた。
(どういうこと?)
この『?』が、最初なのか最後なのかはわからない。ただ、メモ用紙が電話の下にあったことを考えれば、おのずと浮かんでくる答えがある。
(もしかして――電話をした、順番?)
しかも、挙がっている名前は十人。過去の同時死事件で犠牲になった人数と同じなのだ。
もしこの予想があたっていたら、
「……っ」
とんでもないものを見つけてしまった気がして、メモ用紙を持つ手が震えた。
(明日、泉先輩に確認してもらおう!)
心のなかでそう決めて、なんとか震えをとめたそのとき、不意にスマホが鳴りはじめる。胸ポケットから取り出して見てみると、母からだった。
(やば! もしかして、もう帰ってきた!?)
時計はもうすぐ午後八時を指そうとしている。帰ってきてもおかしくはない時間帯だ。
「――も、もしもし?」
おそるおそる電話に出ると、
『舞! あんた、お父さんの部屋でなにをしてるの!?』
案の定母の怒声がわたしの脳みそを揺らす。
「そういうお母さんは、どこから電話してるわけ? 車庫のシャッター音、全然しなかったけど」
『まだ開けてないわ。そこの部屋の明かりが点いてるのが見えたから、現行犯で捕まえようと思ったのよ』
「――参りました」
『下に降りてらっしゃい! すぐ行くから』
言いおわると、母のほうから通話を切った。直後、シャッターが開く悲鳴のような音が聞こえはじめる。そのシャッターは自動で開閉できるものなのだけど、なにぶんシャッター自体がかなり古いので、音がうるさいのだ。
(お母さんが帰ってきたら、その音でわかるからごまかそうと思ってたのに……!)
どうやら完全に読まれていたようだった。
わたしは見つけた紙をスカートのポケットにねじこんで、電灯を消してから部屋を出る。そして下へとおりる前に、自分の部屋に寄ると、
するとちょうど、母が外から入ってきた。あたりまえだけど、表情はかなり硬く、怒りを必死にこらえているようだ。
「ごめんね、お母さん」
きつく握りしめられた拳を見て、わたしは先に口を開く。
「わたし、調べるよ。お父さんや輝臣先輩が亡くなった事件のこと」
「あ、あんた……なに言って……」
「お母さんが心配してくれてるのもわかってるけど、なにもしないなんて、わたしにはできないから」
「舞っ!」
勢い余った母は、土足のまま数歩あがりこみ、わたしの両肩を強く掴んだ。
「あんたになにができるのよっ? お父さんが十年かけてもわからなかったことを――」
「でも、お父さんは答えに近づけたからこそ、死んじゃったんでしょ!?」
その手を振りほどいて叫んだら、母は「信じられない」といった目でわたしを見てくる。
「どうしてそれを……っ」
「わたしが引き継ぐよ! お父さんが知りたかったこと。絶対に死んだりしないし、絶対に答えを見つけてみせるから……!!」
そこまで告げると、わたしは母の横をすり抜けて、自分の靴を引っかけた。そのまま飛び出し、よろけながらも走り出す。
「舞……っ」
呼ぶ声が聞こえても、振り返らなかった。
(大丈夫よ、お母さん)
「絶対死なない」とか、「絶対見つける」とか、百パーセントの可能性なんて本当は存在しないことも、ちゃんとわかっている。それでもわたしがあえて口にしたのは、そうありたいと思ったから。
『一度でも言魂に乗せた想いは、乗せていない想いよりも、現実に近づくのです』
それは、輝臣先輩に近づきたくて悩んでいたわたしに、セイちゃんがくれた言葉だった。
(想っているだけではいけない)
それを僅かでも、行動に移すために。
その第一歩として、口に出すことは無駄ではないのだと、わたしを励ましてくれた。
(今だって、同じだよ)
わたしは死なずに答えを見つけたい。
それが難しいことだということも、充分にわかっている。
だけど――逃げたくは、ないから。
途中で立ちどまり、靴をちゃんと履きなおしてから、改めて走り出した。
わたしの目的地は、最初から決まっている。琴田探偵事務所――セイちゃんのところだ。
セイちゃんが事務所の奥の部屋に寝泊まりしていることは知っていた。それに、夕方の電話の返事をまだ聞いていなかったから、直接会って確認したかった。
『それでも僕は、手伝えません。きみのお母さんの気持ちを考えたら、とても、ね』
土曜日に電話したとき、そんなことを言っていたセイちゃん。
(お母さんや寅おじさんと同じように、お父さんは殺されたんだと信じてるのね)
だからこそ強く反対したのだと、今ならわかる。
(お母さんはきっと折れないもの、周りから固めていくしかないんだ)
そんなことを考えながら、学校の前を通りすぎ、走りつづけること十数分。さすがにかなり息が切れていた。
ビルの階段をなんとか駆けあがるも、弾みきった息ではドアの向こうに呼びかけるのも難しく、ただ激しくドアを叩いた。普通のお客さんならインターホンを鳴らすから、それでわかってもらえると思ったのだ。
すると案の定、なかからバタバタと近寄ってくる足音と、
「はいはーい、舞ちゃんですか?」
まだドアを開けてもいないのに、そんな確認の声が飛んでくる。
両膝に手をあてて、背中で息をしていたわたしは、ドアが開くのと同時に上半身を起こした。
「こ、こんばん…は、セイ…ちゃん」
「どうしましたっ? ずいぶんとお疲れのようですが」
セイちゃんは目を丸くしながらも、すぐにわたしの身体を支えて事務所のなかへと促してくれる。
(やっぱり優しいなぁ、セイちゃん)
電話で感じたような冷たい印象は、まるでない。もしかしたら嗣斗の発言で、考えを改めてくれたのだろうか?
期待してちらちらと顔色を窺いながら、いつもの特等席まで歩いた。
「あのね、わたし、家からずっと走ってきたの」
やっと息も整ってきて告げると、理由を悟ったのだろうセイちゃんの眉間に皺が寄る。
「もしかして、家出ですか?」
「まあそんなとこ。とりあえず今夜だけでも、泊めてほしいの。わたしは
柔らかいソファに身体を沈めながら、普段ほとんど出したことのない甘えるような声音を、精一杯しぼり出して訊いてみた。
腰に手をあてたセイちゃんは、あからさまなため息をひとつ吐いて、
「さすがにソファでは寝かせられませんよ。寝るなら僕のベッドにしなさい。僕がこっちで寝ますから」
「いいのっ?」
「きみが『捜査を手伝え』と言いに来たのなら、追い返しているところですけどね」
「う……っ」
言葉に詰まったのはもちろん、そういう側面がないとは口が裂けても言えないからだ。
セイちゃんもそれをわかっていて口にしたのか、口許は完全に笑っていた。
「とりあえず、温かいココアでも入れてあげましょう」
わたしの頭の上にポンと手を置いてから、セイちゃんは事務所の奥にある簡易キッチンのほうへと歩いて行く。
それだけで、かなり落ちついた。
(子ども扱いされて嬉しいなんて――)
そう思う心の裏側で、
(でも実際子どもなんだから、仕方ないじゃない)
擁護するのもわたし自身。
自分から甘えるのが苦手なわたしにとっては、甘えさせてくれる手は本当に貴重なのだ。
ソファの上で身体を反転させると、背もたれに頬杖をついてセイちゃんの背中を見やる。
「――ねぇセイちゃん。わたしは多分、確認に来ただけだよ。結果的にセイちゃんは手伝ってくれるだろうってこと、最初からわかってるからね」
セイちゃんはわたしに背中を向けたまま、「ハハ」と小さく笑った。
その声を掻き消すように、所長デスクの上の電話がけたたましく鳴り出す。
「舞ちゃん! 事務所の名前で出てくれませんか?」
作業を中断したくないのか、セイちゃんの声が飛んできた。
「うん、いいよー」
事務所には何度も遊びに来ているものの、電話に出るのはさすがに初めてだ。
わくわくしながらソファの端に寄り、そこから電話に手を伸ばす。ぎりぎり届く距離だった。
「――はい、琴田探偵事務所です」
『琴田さん? すまんねぇ、部屋の電気が急に消えちまって、どうしたらいいのかわからんのよぅ』
一方的に喋り出した声音は、どう聞いてもかなり年配の――おばあさんだった。
「あのー、どちらさまですか?」
そう確認してみても、
『はぁ? どちらさまって、
その『いつも』とは声が違うことにすら、このおばあさんは気づいていないようだ。
(これはセイちゃんじゃないと無理だ)
そう思ったわたしはすぐに、受話器を耳から離すと下の部分を掌で隠した。
「セイちゃん! どこかのおばあさんからだよ」
声をかけると、両手にマグカップを持ったセイちゃんがのんびりと歩いてくる。
「どこのおばあさんですか?」
「わかんないけど、部屋の電気が急に消えたって」
「ははぁ、それは木村のおばあさんですね」
どうしてそのヒントだけでわかるのかは謎だけど、セイちゃんは自信満々に続けた。
「今息子さんを行かせますからって、伝えてください」
「セイちゃんが出ればいいのに」
「誰が出てもみんな『琴田さん』ですから、大丈夫ですよ」
(なにがどう大丈夫なんだか……)
釈然としないものを感じながらも、わたしは受話器を耳にあてなおす。するとすぐに、おばあさんのしゃがれ声が耳に届いた。
『――もし? もしもし? なぁあんた、聞いてんべか?』
「あ、聞いてます聞いてます。これから息子さんをそっちに行かせますから、ちょっと待っててください」
『な、なに言ってんだ! 息子なんぞ来ねくていいっ』
「へ?」
『息子が来るくれぇなら、暗いままでいいわい!』
そこで通話を切られた。耳の奥に「プツッ」という嫌な音だけが残る。
「ありがとうございます、舞ちゃん。さあ、ココアをどうぞ」
テーブルの上に片方のマグカップを置いて、もう片方はまだ手に持ったまま、セイちゃんは促した。
しかしすぐに手を伸ばす気になれなかったのは、電話のおばあさんの態度が引っかかったからだ。
「どうしました? 変な顔をして」
「変な顔もするわよー。なぁに? 今の人。『息子が来る
「こっそり駄洒落まで入れるとは、木村のおばあさんも侮れませんね」
「どこに感心してるのよ……」
若干呆れた目で追っていると、セイちゃんは所長デスクの上にマグカップを置き、代わりに受話器へと手を伸ばす。
「ちょっと! ほんとに電話するのっ?」
(嫌がってたみたいなのに……)
問いかけたわたしに、セイちゃんはウインクだけを返して、番号を押しはじめた。
「――琴田探偵事務所の者ですが。ええ、ええ……今度は電気が切れたそうですよ。いえ、とんでもありません。お母さまをお大事に」
短い通話を終えると、セイちゃんはもう一度マグカップを手に取り、今度は口をつける。
それを見て、わたしもつられたように手を伸ばした。そっとマグカップを傾ける。
(――あ、おいしい)
久々に飲んだココアの甘さは、疲れた心と身体に深く染みこんでくるような感じがした。
「さっきの電話はですね、たんに息子さんを呼んでほしくてかけてきたものなのですよ」
セイちゃんは唐突に話を戻すと、説明を始める。いつもこうだから、わたしも気にせずついていった。
「でも、おばあさんは嫌そうにしてたけど」
「それは
「うわー、面倒くさそう」
「そうですよ、舞ちゃん。大人とは、実に面倒なものなのです。僕が両手を振ってきみを手伝えない理由も、そこにあるのですよ」
「あ、それはさっきわかったよ。セイちゃんも、お父さんは事件のことを調べてたせいで死んだんだって、そう思ってるからでしょ?」
そこでセイちゃんの眉がぴくりと動いたのを、わたしは見逃さなかった。
「――また
「気がついたのは嗣斗だけどね」
「そうですか……」
まだなにか言いたげな顔をしながらも、セイちゃんは口を噤む。こんな煮え切らないセイちゃんは、なんだか珍しかった。
「どうしたの? なにか気になる?」
マグカップを置いて尋ねると、セイちゃんは小さく首を振って、
「いえ――ああ、そうだ。嗣斗くんといえば、彼にはちゃんとここにいることを伝えておいてくださいね。きみのお母さんに伝えろとは、隠れている身の上ではとても言えませんが」
最後には苦笑した。
「セイちゃんのこと、まだお母さんに話しちゃ駄目? お父さんの弟だって知ったら、お母さんきっと喜ぶと思うんだ」
そう、母にセイちゃんのことを口止めしていたのは、実はわたしではなくセイちゃん自身なのだ。
セイちゃんは顔の前で両手を合わせると、目を伏せながら告げる。
「それは勘弁してください。僕は家族と会うことを父から固く禁じられていました。それなのにテツ兄さんと会っていたことは、今でも負い目に感じていて……透子さんは
「そんなの、屁理屈だと思うけどなぁ」
「僕の気持ちの問題ですから。――それよりほら、早く嗣斗くんにメールを!」
強い口調で促すセイちゃんに、わたしは思わずソファの上で姿勢を正した。
「ど、どうしてそんなに急かすのっ?」
「きみがここに泊まると知ったら、あとで恨まれるのは僕ですからね。ちゃんと最初から手を打っておかなければ」
「なんでそんなことで嗣斗が……」
「彼にも事情があるのですよ。色々とね」
満面の笑みで、やっぱり色々と、ごまかされたような気がした。