第38話  楠 健次郎。

文字数 6,921文字

「えっ、弟がいたの?初めて聞いたわ。そんなこと、誰も言ってなかったじゃない。」
 
「そうだね、まだ確信が持てなかったからね。」
 
 博美は、思わずテーブルの上の写真を手に取った。
 
 染み付いた泥色の肌に、深く刻まれた額のしわ、無造作に束ねられた髪は白く長く、喉仏あたりまで伸びた白い髭。その容姿は、いわゆる悟りの境地の立ったような神的な仙人の姿ではなく、写真の中の楠は、煩悩のままに生きてきた人生を体現したような鬼のような顔貌を呈し、あふれるほどの毒気を放っていた。
 
 その垂れた白髪の間から覗く、上目使いの鋭い視線は、一瞬で、博美を身震いさせるには十分だった。
 
 
 
「やだ、ほんと、よく似てる。でも久住先生とは違うわ。なんか、怖い。殺気を感じる写真ね。」
 
 慎は、飴玉を舐め、額の滲む汗をおしぼりで拭きながら、ラウンジのスタッフに、水をオーダーした。
 
「ちょっと怖い顔だね。赤野さんから、聞いたかな。罪を犯した久住先生と、赤野さんが知っている久住先生と同一人物とは思えないって。自分もそれは感じていた。でも、灯しや診療所がまだ確立されてない時、自分の犯した罪を、久住先生本人の口から聞いていたんだ。それを聞いたときは、どう受け止めていいか分からなかったよ。腑に落ちないこともあったし、美香が亡くなってから、納得がいくまで調べてみたんだ。それで、突き詰めていくうちに、この楠健次郎の存在がわかった。美香からも、弟の存在は聞いてなかったから、驚いたよ。」
 
 
 自分たちの父と交流のあった久住先生に、幼い頃から、勉強や釣りなどを教わったりと、愼と賢にとっては、信頼できる優しい兄のような存在だった。久住からの、その残酷な罪の告白を受け入れることが出来ず、真実は何なのかを求めて、母、富山の知人、親戚などから、久住宗一郎の父、白三郎について、そして、健次郎と、母親の久美子についての情報を集めていたのだった。
 
「じゃ、この楠って人が、どう関わっていたの?もしかして…真犯人とか?」
 
 
「先生が告白した罪のすべてではないと思うが、ほとんどが、おそらく楠だ。」
 
 
「うそっ。自分で言っておきながら言うのもなんだけど、久住先生本人が告白したんででしょ?なんでそうなるの?」
 
「誰だって、そう思うよな。これから話すことは、久住先生や、この楠自身が話した内容、富山での親戚からの話などから、賢と、全体像をまとめてみたんだ。あくまでも推測の域を出ない内容だ。信じるかどうかは、奈美さんたち次第だが。」
 
「そこまで、久住先生って信頼されてたのね。でも、この楠って人、自分に都合の悪いことなのに、よく話したわね。」
 
「奈美さんも知ってる通り、自分は催眠術をかけることがで来る。本人の意思ではないから、卑怯な手かもしれないがな。驚くほど、よく話したよ。」
 
「そう、なるほどね。そう言うことだったのね。」
 
 奈美は、博美から渡された楠の写真をじっと見つめながら、博美とのやりとりを聴いていたが、得意げな慎の声に、ぼそっと、そう反応した。
 
 卑怯な手と言いながらも、手柄を自慢するかのような愼の言葉に、軽い嫌悪感を抱いたのだ。
 
 鉛筆のような真っ直ぐな立ち姿は変わらない。けど、あの時の小綺麗なマスターとは何だか違う…。何か、きれいじゃ無い…。
 
 奈美は、深いため息のあと、写真をテーブルに戻し、ぬるくなった珈琲を口にした。
 
 博美は、あからさまな奈美の態度と、自分らのやり取りを聴いている赤野の無言も気になりながらも、時おり、濡れたテーブルをティッシュで拭くなど、その場の空気に気を使っていた。
 
 愼は、その冷めた雰囲気も気にする事もなく、グラスの露を素手で拭い、溶けかけた氷の入った冷たい水を一気に飲み干してから、その得た手柄を話始めた。
 
「健次郎は、久住先生が3歳の時に、生まれたんだが、それからすぐに、両親は離婚したらしい。母親の久美子の浮気がもとで、と言うことになっていて、父親の白三郎は、健次郎は自分に子ではないかもしれないと、久美子と健次郎を久住家から、追い出した形になったんだ。そのあと、久住の家では、後妻がきて、その継母が、久住先生を育てた。先生は、母親だと思ってた人が、継母であることを小学生になった時に、父親から告げられたらしい。それで、久美子の方は、病弱で、再婚はせず貧困な生活を送っていたらしい。健次郎が中学生か高校生の頃に、もしもの時は頼ってほしいと、久美子から、父親と兄がいる事を告げられている。」
 
「そうか、だから、弟の存在は分からなかったのね。でも、母親の浮気と言うことになってるって、違うってこと?」
 
「そうなんだ。楠家や、久住家の周囲でも、久美子が不倫をしていたなんて誰も知るものはいなかったよ。白三郎が言っていただけだと。」
 
 
「それ、ひどいわね。久住先生のお父さんって、地域では有名な人なんでしょ。なんでそんな事したのかしら。」
 
「詳しい事までは分からなかったが、久美子さんは、小さな農家の娘、すぐに来た後妻は、なんでも、大きな旅館の娘だったと言うことだ。おそらくは、お金が絡んでたんじゃないなのかな。それで健次郎は、父親が医者で、兄もいる事を知って、同じ兄弟なのにこの貧富の差なんだと。母親の浮気をでっち上げて、自分たちを追い出した久住家を妬むようになったんだ。まあ、そうなる心情は分かるね。だから、母親思いの健次郎は、何とかして、久住家に援助をお願いしようとしたけど、父親に会うのはハードルが高い。それで、兄の久住先生に、この理不尽さを訴えて、母親と自分のために生活費を要求しようと接触したようだ。でも、まだ学生だった久住先生もそんな自由にできるお金があるわけもないからね。でも健次郎は、諦めきれずに、それ以降、虎視眈々と、その機会を狙っていたんだよ。先生の方も、自分に弟がいたことを初めて知った。酷い境遇に置かれていることもな。優しい久住先生は、少しは援助もしたいし、母親に会ってみたいとも思った。でも、あの厳格な父親にバレたら、母や健次郎が、どんな目にあうかと思うと、何もできなかったようだ。」
 
「確かにね、そんな事知ったら、許せないわね。でも、私だったら、何かしてやろうなんて、怖くて、そんな事とても出来ないわ。諦めると思う。」
 
「よほど生活が困窮していたんだろうね。久美子も、離婚した当時は、いろんな噂が出回って、仕事もなかなか決まらなかったらしい。ようやく決まった飲み屋の皿洗い洗いや、掃除婦の仕事も働き詰めで、何度も、職場で倒れて、救急搬送されたが、入院費が払えずに、仕事を再開して、無理がたたったんだろうね。健次郎が高校生の時、亡くなったんだよ。それから、母親の死をきっかけに、健次郎の心は、憎悪した憎しみに変わってったんだな。東京の大学に行った久住先生を追って、健次郎も東京へ行った。居酒屋などでアルバイトをしながら、先生とも接触はあったようだが、先生も金銭的には余裕もそんなにあるはずも無く、それでも出来る限り、親からの仕送りの中で健次郎への援助を工面していた。それでも健次郎は、足りずに遊ぶ金のために借金を重ねていったんだ。それも、久住宗一郎の名前で。一種の復讐のようなもんさ。だから、高野さんのお父さんが保証人になった借金は、この健次郎だったという事だ。」
 
「うそ、広志さんのお父さんが保証人になって、借金作って逃げた人って、この人だったの?」
 
 博美の声が、写真の楠を刺した。
 
「そうだ。健次郎本人から聞いたんだから、間違いない。同じ兄弟で、育った環境がそうさせたのか、正反対の性格だな。まるで、2人の美香みたいだ。」
 
 慎は、少し自分の身体が揺れるのを感じながら、もう一杯の水をオーダーし、話を続けた。
 
 「それから…久住先生が富山に戻り…久住産婦人科を父親の意思を継ぎ、地域の産婦人科として定着しつつあったころ、再び、健次郎が現れた。」
 
「まるで、ストーカーね。狙った獲物は逃がさないってことなのね。」
 
 博美は、そう言いながら、スタッフが、運んできたピッチャーの水を受け取り、慎のグラスに注いだ。
 
「あ、ありがとう。見ての通り…糖尿がね。コントロールが上手くいってなくてね。」
 
「やっぱりね。顔色悪いもの。ブドウ糖持ってないの?」
 
「飴玉で何とかなるかと思って、飴しか持ってないよ。」
 
 赤野さんも看護師なのに…。
 
 博美も、視線も合わさず、無言を続ける赤野が気になっていた。
 
 
「あの、実は、私の旦那も、そうなの。これ、今すぐ飲んだほうが良いわ。」
 
「わ、博美さんは、神様だ。すまない。ありがとう。」
 
 愼は、博美に礼を言って、受け取った顆粒のブドウ糖を、喉を鳴らしながら、水で流し込んだ。
 
 ふうっと、毒された気を追い出すように、大きく息を吐き出し、さらに話を続けた。
 
「助かったよ。これで、大丈夫だな。じゃ、話続けるよ。えっと、富山に戻って来ていた健次郎の話からだね。彼は久住先生にやたらとコンタクトを取っている由美子の存在を知り、近づいたんだ。そして由美子に、ある計画を持ちかけた。」
 
「由美子さんは、久住先生の弟ってわかってたの?」
 
「それは、話したらしい。それに健次郎は、より久住に似せてたとこがある。髭を生やせば、健次郎も生やす。太れば、太る。久住先生になりきって、悪行を行い、何も言えない久住を追い詰めることも考えてたようだ。同じ臭いを感じていた由美子を、協力者として仲間にするのには、ちょうど良かったのかもしれない。」
 
「凄い執念ね。怖いわ。でも、肌の色は似せれないと思うけど。」
 
 「これは、健次郎が、腎臓を患って、透析してた頃だからね。どうしても、肌の色は、黒っぽくなるんだ。若い頃の写真も見たけど、久住先生と同じ感じだったね。この写真の時とは、違って、けっこう、似てたんじゃないかな。」
 
「そうなんだ。それにしても、一緒のところを見られることってなかったの?よくバレそうだけど。」
 
 
「それは、久住先生の行動を徹底的に調べて、矛盾がないように、楠も行動してたんだろう。健次郎と、久住先生が一緒にいたところを見た者はいなかったよ。二人が兄弟ってことも知ってる人はほとんどいなかったし。それで、ある時、由美子から、『妊婦健診時に変な触り方をされたと、久住に文句を言った事があった』と聞いて、その事を利用したんだ。身体を触られたと事を広げると言って脅し、久住先生からお金をせしめる。という計画を由美子に話した。それが思いのほか、上手くいって、幾らかの日銭が稼げたことに味をしめていた健次郎は、里香の恋人が亡くなった、あの事故も利用したんだ。あとから久住先生に聞いた話では、急に眠気に襲われたと言っていたんだが、おかしいんだ。実は、あなたたちよりも前に、久住先生が灯しや診療所で、体験をしていたんだが、その中では、先生は、車には乗っていたが、運転をしていない。気がついたら、健次郎に、人を轢いたんだと、伝えられていた。それでも、先生は、自分が轢いたと譲らなかったよ。おそらく、久住先生に睡眠薬でも飲ませて、健次郎の運転で事故を起こしてしまった車に乗せ、目が覚めたところに、『あなたは、人を轢いた。』と話す。それを由美子が目撃したことにする。久住先生に罪を負わせ、それをネタに脅し、金銭を詐取する。そう健次郎が描いたシナリオを実行したと言うことだろう。」
 
「そんなんで、信じちゃう?自分がやった記憶がないのに、おかしいわ。」
 
「そうなんだよ。脅されて従ってると思ってたが、先生は、自分がやったと思い込んでいるようだったよ。もしかしたら、久住先生には、自分ばかりが、恵まれている環境で育ったという、負い目もあったからなのかもしれないが。健次郎がやった事だと分かっていても、先生がそれを認めない。だから、真偽が確かでない以上、あなたたちにも、健次郎の存在は、言えなかったんだ。」
 
「そうだとしても…。久住先生って、よく分からない心理ね。」
 
 
「バカなのよ。」
 
 
 静かに聴いていた奈美が、声を挟んだ。
 
「奈美、そんな言い方しなくたって。久住先生の犯罪だと思ってたことが、ほとんどが、この楠って弟がやった事なんでしょ。良い人過ぎたのよ。」
 
 
 
「そうだな。いい人過ぎたのかもな。まるで解離性同一障害の善と悪が分離しているみたいだ。里香の子供をさらおうとしたり、奈美ちゃんを埋めたり、久住のせいにしてた事も、健次郎本人から聞いた。でも、由美子は、美香に久住がやった事として、話している。健次郎の存在は、隠したかったんだろう。あくまでも、久住を悪者にすることで、いざと言うときに、久住に好意を持っている美香に対しての取引の材料にもなるからね。美香にしてみれば、そんな善人と犯罪者という二面性を持った久住は、格好の研究材料だった。自分の中にも違う美香がいる現象の解明にも繋がるからね。」
 
「美香も相当な悪人だったけど、由美子さんも、ひどい悪ね。奈美ちゃんを死なせて、代わりに花香ちゃんなんて、普通思わないわよ。物としか思ってなかったって事でしょ。思考が人間じゃない。動物以下ね。動物だって、必死に子ども守るわ。」
 
「だから、健次郎は、由美子に同じ臭いを感じたんだろうな。」
 
 博美は、愼兄弟が描いたドロドロした物語に、徐々に引き込まれていった。
 
「ほんと獣くさいわ。プンプン臭う。」
 
「そうこうしているうちに、初めは、久住も仕方なく、健次郎の企みを受け入れていたが、健次郎の仕業なのか、もしかして、本当に自分がしたことではないのか。自分の中に健次郎という人物を作り出した多重人格ではないかと思い始めていたんだ。さっき、そんなことで信じるのかって言ってただろ。多分、そういうことなんだと思う。」
 
「えっ、久住先生も多重人格だったの?」
 
「いや、それはない。灯しやでは、美香みたいに、久住先生は、二人出てこなかったよ。」
 
「そうか、なるほどね。じゃあ、なんで、そう思うようになったのよ。私だったら、いくら弟でも、やってもいない事を、ねつ造されて、それをネタに脅迫されたら、いい加減にしてって、許せないわよ。」
 
 博美は、腕を組み、眉間にしわを寄せ、口調も強くなっていった。
 
「博美さん、そう興奮しないで。久住先生が、そんな健次郎を責めないで、自分の中に住まわせてしまったようになったのは、考えられることが一つある。」
 
「それ、早く言ってよ。」
 
 博美は、愼の語りの展開を待ちきれずに愼にソファを寄せた。
 
「健次郎はな、どこで覚えたのか、質の悪い催眠術を久住先生にかけたようだ。それからだ、やってないのに、自分がしたことのように思えたんだ。本気で、自分がしたことだと思うようになった。今でも、自分のこととして、信じているのか、時折、借金を作って逃げたことを、壁に向かって謝っているよ。自分たちは、真の久住宗一郎で、人生を全うして欲しくてね。この催眠を解くために、色々やってみたが、ダメなんだ。」
 
 
「えっ、ちょっと待って。さっきの老人は、やっぱり、久住先生?楠って人の写真から始まってるから、さっきの老人が写真の楠健次郎?、でも違う人みたいだったし、なんかこう、モヤモヤしてたのよ。」
 
「まあ、そうなんだが…。」
 
 愼が口ごもっていると、エントランスの方から、慌ただしい声が聞こえてきた。
 
 愼のハッキリしない返事に、詰め寄ろうとした時、異様な気配を感じ、博美は、とっさにエントランスの方を見た。
 
 すると、先ほどの老人が、車椅子から降りて、身体を震わせながら這いずるようにこちらの方に向かってくる姿が見えた。
 
 勢いづいていた博美の言葉が止まった。
 
「先生、待ってください。」
 
 付き添っていた女性は、騒がしく声を立てながら、他のスタッフとともに、その老人を車椅子に乗せてから、奈美たちの元へ車椅子を押してきた。
 
「もう、やんなっちゃう。すみません、どうしても、ここへ来たいって、おっしゃるもので。ホテルの外へ出たときに、親子でしょうか、何か、お話をされていたんですが、その二人の女性の方に向かって、急に大きな声を出して、車椅子から降りたんですよ。降りたっていっても、ずり落ちた感じになって。危ないってありゃしない。それで、私の手を振り払って、こっちに向かおうとしたもので、お連れしたんです。」
 
 老人は、奈美をゆっくりと指さしたあと、子どものように、目をこすりながら、大きな声で泣き出した。
 
「花香~、花香~。ごめんなさい。ごめんなさい。」
 
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