第27話:悲しみの疑問
文字数 2,476文字
パドマの寝顔を眺めているうちに、不思議と時間が過ぎていた。人の寝顔を見るという行為は、なぜか心を安定させる。どうして心地よさを感じるのだろう。
内面という複雑な側面を見ずに、外見の可愛らしさだけを楽しむことができるから? というのは、さすがにうがった見方をし過ぎだろうか。何かこう、もう少し清らかな心の動きのおかげであって欲しいところだけれど。
かなり早い時間に起きたにも関わらず、頭はすっきりと冴えていた。目を開けた次の瞬間には、眠気を忘れていたような感じだ。パドマの寝顔を見るのにも飽きて、私は静かにガラスの扉を開けた。ひんやりとした風がカーテンをなびかせ、部屋に入ってくる。少女が目を覚めないよう、すぐに扉を閉めた。
サンダルを履いて芝生の上に足を置くと、柔らかな草が肌にあたってくすぐったい。水の流れる音を聞きながら、太陽の光が差している場所まで前進し、思いきり体を伸ばした。ぱきぱきと音が鳴ったところで、脱力。深呼吸をする。どうしてか分からないけれど、何か活力のようなものを感じた。
遠く向こうから聞こえてきた微 かな叫び声も、足をすくませはしない。
私は薄く霧 のかかった庭の中を、小走りで進んだ。小さな水の粒子に光が乱反射して、発光する綿の中にいるような錯覚に陥る。
大きな噴水に差し掛かったところで、階段を駆け上がっていく女性の姿が見えた。もしかしたら、叫び声をあげた張本人かもしれない。その予感に、拳を握る力が強まる。
屋敷を支える崖の終点までたどり着き、右に折れた。昨日真っ暗な闇が満ちていたその場所には、想像したよりも広いスペースが広がっている。まっすぐに伸びた道のわき、視界の左側に置かれたブランケットのような布も、すぐ目についた。布の下からのぞく、誰かの白い足も――
思わず足が止まり、そちらへ近づくのがためらわれた。
布をはいだ瞬間、横たわった彼女がこちらを向く、そんな映像が頭の中に浮かんでいた。
私は頭を振って強引に考えを追い払い、昨日の光景を思い出す。王女が見つかった際の騒ぎを、すべて。
この場所に、あれだけたくさんの人が集まってしまったら、痕跡を探すことは難しくなる。それに、またろくな検証もしないまま、死体は運ばれてしまうだろう。
考えを巡らせながら、勇気を絞り出した。力の抜けた足をつねり、芝生の上に横たわる体へ進む。布の前で再び停止し、呼吸を整えてから、震える手で布を持ち上げた。
「ブルーナ」
無意識に、彼女の名前を呼んでいる。
目を閉じたブルーナの表情は、眠っているよう。しかし、服のはだけた腹部には刺し傷がある。私はその傷を直視することができず、視線をそらした。のどにこみ上げてくるものがあり、遠くの山へ目を向ける。
胸ほどの高さがある柵の向こうには、岩肌の露出した斜面が広がっていた。岩肌の上には緑鮮やかな森が乗っており、さらにその上には、澄み渡った空がどこまでも続いている。青と緑と白のコントラストが美しい。
視覚から得た清涼感で、のどへの圧迫が和らいだのを感じ、深呼吸をした。
しばらく静止した後で、再び彼女に目を向け、スキャンするようなつもりでその体を眺めていく。
血の気のない足は膝が内側を向いており、腕は胸の前でクロスしている。腹部には浅い刺し傷が二か所、血の跡はない。あらわになった胸部の肌はなめらかで、首の周りには二センチほど幅のある痣。目は閉じられている。昔読んだ推理小説の描写を信じるなら、首を絞められたのだろう。腹部を刺した後のとどめ、ということだろうか。何か強い意志のようなものを感じる。
と、そこでふいに、平気で体を観察している自分が意識された。
昨日噴水に集まっていた寵妃候補達の反応と、対比してしまう。
悲しみでうろたえていないことに、若干の罪悪感を覚えた。
けれど。
同時に、その思いに対する疑問もわく。
なぜ、人の死を嘆き悲しむべきだと感じるのだろう、と。
私たちは、無意識のうちに、亡くなった人からの視線を意識しているのだろうか? 嘆くことによって当人への親愛や敬意を示したい、というような。
あり得なくはない。
あり得なくはないけれど、可能性は低いような気がする。
天国からの視線という物語に、本当の意味でリアリティを感じている人がそれほどいるとは思えなかった。純粋に、亡くなった人へ自分の嘆き悲しむ姿を見せたい、と考えている人がどれだけいるだろうか。
亡くなった人への使命感でないとすれば、意識を向けている対象は自分か自分の周りにいる他者、ということになる。
生きている他者を意識する意味は、ある程度想像がしやすい。人間が他人へ何らかの行動を見せたがる意図は、大体同じだ。人の評価を高めたい、という欲求に基づいている。この場合は、人の死を悲しむという行為で善良さを見せたり、間接的に当人に近い人へ忠誠を示したり、というところだろう。
とはいえ、多くの人は、そこまで打算的ではない。少なくとも、私の少ない経験によれば。もちろん、他人を意識して嘆く人もいるだろうけど、多数は占めていないはず。だとすれば、多くの場合、嘆き悲しむ行為は自分自身を意識して行われている、ということになる。
自分に対して、自分を演出する理由は何だろうか……
自分が抱くべき感情に自分の心を近づけたい、という欲求があるのかもしれない。私は人の死を悲しむことのできる良い人間である、私は死んでしまった人にしっかりと思いを寄せていた、というように。きっと、人は人の死を悲しめないことが恐ろしいのだ。自分が善人ではない、と感じられてしまうから。
私が罪悪感を抱いた理由も、そのあたりにあるような気がする。ブルーナという好人物の死を悲しめない自分を、恐れたのである。
しかし、実際のところ、人の死を悲しむという行為が善良さとどれくらい関係があるのだろう。そもそも、人の死を悲しむという感情は、生来どれくらいの強さをもっているのだろう。他者の振舞から学ばなかった場合、人はどれだけ人の死を悲しめるのだろう。
内面という複雑な側面を見ずに、外見の可愛らしさだけを楽しむことができるから? というのは、さすがにうがった見方をし過ぎだろうか。何かこう、もう少し清らかな心の動きのおかげであって欲しいところだけれど。
かなり早い時間に起きたにも関わらず、頭はすっきりと冴えていた。目を開けた次の瞬間には、眠気を忘れていたような感じだ。パドマの寝顔を見るのにも飽きて、私は静かにガラスの扉を開けた。ひんやりとした風がカーテンをなびかせ、部屋に入ってくる。少女が目を覚めないよう、すぐに扉を閉めた。
サンダルを履いて芝生の上に足を置くと、柔らかな草が肌にあたってくすぐったい。水の流れる音を聞きながら、太陽の光が差している場所まで前進し、思いきり体を伸ばした。ぱきぱきと音が鳴ったところで、脱力。深呼吸をする。どうしてか分からないけれど、何か活力のようなものを感じた。
遠く向こうから聞こえてきた
私は薄く
大きな噴水に差し掛かったところで、階段を駆け上がっていく女性の姿が見えた。もしかしたら、叫び声をあげた張本人かもしれない。その予感に、拳を握る力が強まる。
屋敷を支える崖の終点までたどり着き、右に折れた。昨日真っ暗な闇が満ちていたその場所には、想像したよりも広いスペースが広がっている。まっすぐに伸びた道のわき、視界の左側に置かれたブランケットのような布も、すぐ目についた。布の下からのぞく、誰かの白い足も――
思わず足が止まり、そちらへ近づくのがためらわれた。
布をはいだ瞬間、横たわった彼女がこちらを向く、そんな映像が頭の中に浮かんでいた。
私は頭を振って強引に考えを追い払い、昨日の光景を思い出す。王女が見つかった際の騒ぎを、すべて。
この場所に、あれだけたくさんの人が集まってしまったら、痕跡を探すことは難しくなる。それに、またろくな検証もしないまま、死体は運ばれてしまうだろう。
考えを巡らせながら、勇気を絞り出した。力の抜けた足をつねり、芝生の上に横たわる体へ進む。布の前で再び停止し、呼吸を整えてから、震える手で布を持ち上げた。
「ブルーナ」
無意識に、彼女の名前を呼んでいる。
目を閉じたブルーナの表情は、眠っているよう。しかし、服のはだけた腹部には刺し傷がある。私はその傷を直視することができず、視線をそらした。のどにこみ上げてくるものがあり、遠くの山へ目を向ける。
胸ほどの高さがある柵の向こうには、岩肌の露出した斜面が広がっていた。岩肌の上には緑鮮やかな森が乗っており、さらにその上には、澄み渡った空がどこまでも続いている。青と緑と白のコントラストが美しい。
視覚から得た清涼感で、のどへの圧迫が和らいだのを感じ、深呼吸をした。
しばらく静止した後で、再び彼女に目を向け、スキャンするようなつもりでその体を眺めていく。
血の気のない足は膝が内側を向いており、腕は胸の前でクロスしている。腹部には浅い刺し傷が二か所、血の跡はない。あらわになった胸部の肌はなめらかで、首の周りには二センチほど幅のある痣。目は閉じられている。昔読んだ推理小説の描写を信じるなら、首を絞められたのだろう。腹部を刺した後のとどめ、ということだろうか。何か強い意志のようなものを感じる。
と、そこでふいに、平気で体を観察している自分が意識された。
昨日噴水に集まっていた寵妃候補達の反応と、対比してしまう。
悲しみでうろたえていないことに、若干の罪悪感を覚えた。
けれど。
同時に、その思いに対する疑問もわく。
なぜ、人の死を嘆き悲しむべきだと感じるのだろう、と。
私たちは、無意識のうちに、亡くなった人からの視線を意識しているのだろうか? 嘆くことによって当人への親愛や敬意を示したい、というような。
あり得なくはない。
あり得なくはないけれど、可能性は低いような気がする。
天国からの視線という物語に、本当の意味でリアリティを感じている人がそれほどいるとは思えなかった。純粋に、亡くなった人へ自分の嘆き悲しむ姿を見せたい、と考えている人がどれだけいるだろうか。
亡くなった人への使命感でないとすれば、意識を向けている対象は自分か自分の周りにいる他者、ということになる。
生きている他者を意識する意味は、ある程度想像がしやすい。人間が他人へ何らかの行動を見せたがる意図は、大体同じだ。人の評価を高めたい、という欲求に基づいている。この場合は、人の死を悲しむという行為で善良さを見せたり、間接的に当人に近い人へ忠誠を示したり、というところだろう。
とはいえ、多くの人は、そこまで打算的ではない。少なくとも、私の少ない経験によれば。もちろん、他人を意識して嘆く人もいるだろうけど、多数は占めていないはず。だとすれば、多くの場合、嘆き悲しむ行為は自分自身を意識して行われている、ということになる。
自分に対して、自分を演出する理由は何だろうか……
自分が抱くべき感情に自分の心を近づけたい、という欲求があるのかもしれない。私は人の死を悲しむことのできる良い人間である、私は死んでしまった人にしっかりと思いを寄せていた、というように。きっと、人は人の死を悲しめないことが恐ろしいのだ。自分が善人ではない、と感じられてしまうから。
私が罪悪感を抱いた理由も、そのあたりにあるような気がする。ブルーナという好人物の死を悲しめない自分を、恐れたのである。
しかし、実際のところ、人の死を悲しむという行為が善良さとどれくらい関係があるのだろう。そもそも、人の死を悲しむという感情は、生来どれくらいの強さをもっているのだろう。他者の振舞から学ばなかった場合、人はどれだけ人の死を悲しめるのだろう。