二十二年目の衝撃

文字数 1,999文字

 あの夏突然、(あかね)は僕の目の前から消えた。

 茜と付き合い始めたのは、ミステリー・サスペンス研究会、通称ミステリー・サークルの新歓コンパの日。
 同期だったが、挨拶は交わしても会話したことはなかった。耳を露わにしたショートカットに宝塚の男役のような顔立ち。低い声のトーンや皮肉混じりの強気な発言は、どちらかと言うと苦手なタイプだった。

 その日の茜は、長身で自他共に認めるモテ男の松井と一番賑やかな輪の中にいた。
 一方で僕はどのグループとも話が合わず、彼らに背を向けて一人グラスを傾けていた。
 居酒屋の店内は「一気! 一気!」と騒がしい。救急車を呼ぶような騒ぎになる前にこの場を立ち去ろうと、目の前のグラスを片付け始めたときだった。
(しげる)、一緒に飲もう」と茜がいきなり僕の隣に座った。
「彼氏は良いの?」
「あんな奴、彼氏でも友達でもない。アタシ、だめなんだよ。付き合ってもいないのにベタベタして彼氏(づら)するヤツ。さっき髪の毛触られて鳥肌立っちゃった」
「彼氏じゃないんだ」と言ったあと、お似合いだったけど……と続けようとして慌てて口を閉じた。後ろを振り返ると、松井はすでに新入部員の女子二人を両側に侍らせて肩を抱いている。
「滋はあんなことしないでしょ」
「しないっていうより出来ない。アイツみたいにカッコ良くないし、顔も……」
「まぁ月並みだけど。そもそも顔じゃないと思うよ、男も女も」
「君が言っても説得力ないな」と笑ったが、僕の笑顔は引き攣っていたに違いない。
「去年ドラム叩いてるの見たけど、なかなかカッコ良かったよ」
「学祭のステージ? 観てくれてたんだ」
 嬉しくなって演奏の話をしようとしたらいきなり質問された。
「滋は何センチ?」
「え?」と言って僕は下を向いた。松井は酔いが回るとサイズ自慢を始める。
「今、変なこと考えたでしょ。身長よ、身長」
「169だけど」と言ってホッと溜息をついた。
「アタシより2センチ高いから合格」
「やっぱり身長は重要なファクターなんだ」
「顔が良ければもっと低くてもOK!」
「なんだよ。顔じゃないなんて言って」
「まぁいいじゃない。それより早くここ出よ?」

 二人で居酒屋を抜け出し、静かな店で飲み直した。
 近寄りがたいと思っていた先入観は話をするうちに崩れ去った。二人とも一人っ子で、茜は父親を、僕は母親を、幼い頃に亡くしていた。

 父は二回りも年下の心理カウンセラーとお泊まりの温泉旅行に出かけていて留守だったから、僕は彼女を自室に招き入れた。
 僕にとっては初めての経験だった。でも茜がリードしてくれたおかげで朝まで何度も愛しあい、朝日に照らされた茜の素顔を見て「君は綺麗だ」と呟いた。

 父親は自殺だったと言うが、茜も腕に傷があった。不眠症に悩まされ、父親と同じ鬱病ではないかと不安に怯えていた彼女に、僕は精神科医の父を紹介した。

 父のクリニックに通い始めると、茜は少しずつ健康を取り戻し、苦笑いより明るい笑顔が多くなった。それなのに、彼女はいつの間にか僕を避けるようになった。

 そしてあの夏の日、ビルの屋上から転落死した。
 彼女の日記には、精神科医との関係が綴られていた。

 父は警察から殺人の容疑で取り調べを受けた。
 相手が二十歳の学生だったことから週刊誌にスクープ記事が載り、父は精神的に追い込まれていった。当然の報いと僕は思ったが、一月後に父は姿を消し、その後青木ヶ原で遺体が発見された。

 初めての恋人と唯一の家族を失った僕を、父の知り合いがサポートしてくれた。
 大学院卒業と同時に臨床心理士として社会に出た僕は、キャリア十五年めに父の遺産を元手にクリニックを開業した。
 しかし、カウンセラーとしてどんなに多くの人の心に寄り添っても、僕自身はあの夏以来一度たりとも心の安心を得ることが出来ずにいた。

 間もなく茜と父の二十三回忌を迎えるお盆の夜。
 仕事を終えて自宅マンションに帰り、ドアの鍵を開けようとしたとき、暗い廊下を歳の離れた男女がこちらに向かって歩いてくることに気づいた。真夏なのに背筋がゾクッとする寒気を感じ、僕は手を止めた。男は父に、女は茜によく似ていた。
(とうとう二人揃ってお迎えに来たか……)
 視線は真っ直ぐこちらに注がれている。二人が近づくにつれ全身の毛が逆立ち、身体が凍りついたように足が動かなくなった。
 二人は両脇から挟み込むように目の前に立ちはだかった。僕は顔を正視しないようにしていたが、耳を露わにしたショートヘアから懐かしいシャンプーの香りが漂って来た気がして目を瞑った。

 低く押し殺したような男の声が耳に届く。
「町村滋だな」
 黙って頷き、静かに瞼を開くと、茜によく似た女が手に持った書状を読み上げた。
「逮捕状。被疑者、町村滋、42歳。櫻井茜殺害容疑、並びに町村武の殺人・死体遺棄……」

 腕に衝撃を受けると同時に、金属音が虚しく廊下に響き渡った。

     <了>

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