第1話

文字数 3,042文字

 玄関の呼び鈴が鳴った。
 どうせ新聞か宗教の勧誘だろう。根岸は居留守を決め込んだ。
 しかし呼び鈴は鳴り止まなかった。苛立ちを覚えながら、根岸は玄関のドアを開けた。アパートの廊下には二人の男が立っていた。
 一人はスーツ姿の中年男、もう一人は無性髭を生やした若い男で、首元のよれたTシャツを着ていた。
 スーツの男は、Tシャツの男を連れてずかずかと部屋にあがりこんできた。
「ああ、よかった、ベランダがある」
 エアコンの室外機だけで手狭なベランダを覗き込み、スーツの男は満足げな笑みを浮かべた。
「ちょっと、いきなり人の部屋にあがりこんできて、一体何なんだ」
「申し遅れました、私、こういう者です」
 スーツの男が差し出した名刺には「法務省 刑務局 処刑課」とあった。「法」だとか「刑」だとかいった字面を目にし、根岸の背筋がぴんと伸びた。
「警察関係の人?」
 そう言いながら、根岸はそれとなく玄関先に視線をやった。いざとなったら逃げだすつもりだ。
「ケサツとは連携してますねえ。ところで、死刑制度が廃止になった事はご存知ですか?」
「はあ、さんざん報道されてたから」
「死刑のかわりに導入された新しい刑罰については?」
 肩をすくめてみせると、スーツの男はため息をついた。
「ですよね。政府の宣伝が足りないのもあるけど、なくせって言っていた死刑がなくなったんで、そっちばかり注目されてしまって、新しい刑がどんなものかなんて皆さん関心もたれてないんですよねえ」
「新しい刑って何なんです? それと俺とどんな関係が?」
「『目には目を、歯には歯を』のハムラビ法典にヒントを得ましてね。シンプルに、犯人が行った事と全く同じ事を犯人に仕返すんです。この人ね、自分の子供を殴り殺したんですよ」
 見覚えがあると思ったら、Tシャツの男はネットで見かけたニュースの主人公だった。男は三歳の長男に殴る蹴るの暴行を加えた末、ベランダに放置し、死亡させたのだ。両手を後ろ手に組んだ姿勢を不自然に思っていたが、彼は手錠をかけられているのだった。
「あなた、『同じ目に遭わせてやりたい』ってコメントしたでしょ。その瞬間にこの人の刑が確定して、あなたは執行人に選ばれたんです。ですから、こうして伺ったというわけでして」
 スーツの男は、畳の上に転がるペットボトルやコンビニ弁当の容器を足先ではらいよけ、空いた場所に腰を下ろした。「楽にしたら」と言われ、Tシャツの男もその隣に座った。一人だけ立ったままでは居心地が悪く、慌てて畳の上に座したのは部屋の主である根岸だった。
「いろいろ書いてありますけど」と前置きしながら、スーツの男はカバンから分厚い書類を取り出し、根岸の膝の前に滑らせてきた。
「要するに、被害者がされた事を加害者に仕返せばいいだけですから。書類の半分以上は事件についての詳細です。全く同じ事をしていただきますんで、細かい所まで説明してあります。注意していただきたいのは……」
「あの、全く同じ事って、どこまでですか? だってこいつ……」
 よどみなくまくしたてるスーツの男を根岸は遮った。殴る、蹴るぐらいなら憂さ晴らしにできそうだが、死ぬほどの暴行を加えるとなると、さすがに気がひける。
「ですから、全く同じにです」
 スーツの男は小さな目をぱちくりさせた。
「大丈夫です。全く同じ事を仕返した場合は殺人罪に問われませんから。少しでも違うことをすれば、罪に問われますけど。ですから、書類の隅々までよーく目を通しておいてください」
「全く同じに」を何度も繰り返しながら、スーツの男はそそくさと部屋を出ていってしまった。
 覚悟を決めたのか、肝がすわっているのか、男はちんまりと畳の上に鎮座している。
 茶菓子を出してもてなす客でもない。場が持たないので根岸は書類を手に取り、パラパラとめくった。
 書類は供述書、検察調書などが主で、男の子が受けた暴行の様子がこと細かく記されてあった。それらは報道されていない内容で、報道できないほどの酷い内容だった。
「……あんた、本当にこんなことしたの?」
 男は素直にうなずいてみせた。質問されたのではなくて咎められているのだとはわかっていないようだ。
「自分の子だろ? よくあんなひどい事ができたよな?」
 根岸の強い口調にも男は悪びれる様子がなく、薄ら笑いを浮かべた。
「あんた、子供いねえだろ。てか、女もいねえだろ」
 男はぐるりと散らかり放題の部屋を見わたした。
「ガキのいねえあんたにはわかんねえって。あいつら、うざいんだよ。言うこと聞かねえし、なんかっつーとギャーギャー泣きわめきやがってさ」
「だからって、死ぬほど暴行するってのはどうなんだよ。親なんだから、そこは言って聞かせるのが躾ってもんだろ?」
 突然、男は大声で叫び始めた。後ろ手の格好のままで散らかった畳の上を転がり周り、両足をばたつかせている。
「おい、何すんだよ、やめろって」
 注意すればするほど、男は調子に乗ってわめきたてた。
「やめろって!」
 勢いを止めるつもりで、根岸は男の肩をつかんだ。男の抵抗にあい、思わず力の入った両手は反射的に男を畳の上に叩きつけていた。その際にぶつけたのか、赤くなった頬をもちあげ、男は薄気味悪く笑ってみせた。その瞬間、根岸は部屋を飛び出していた。

 スーツの男は近所の公園のベンチで菓子パンをほおばっていた。
 その隣に腰かけるなり、根岸は「私にはできません」と告げた。
「あの男がした事と全く同じ事をするなんて、とてもじゃないができませんよ。あんた、あの男が何をしたか知ってますか」
「そりゃ、調書を読みましたからね」
「あんな事ができるなんて、人間じゃない。罰するためっていったって、あいつと同じ事をするなんて、まっぴらごめんです。こっちの気がおかしくなりそうだ」
「ですよねえ……」
 スーツの男は缶コーヒーで口の中のものを胃に流し込むとため息をついた。
「皆さん、そう言うんですよ。ひどい事をした人間に、同じ目に遭わせてやれって言っておきながら、実際自分がその役目を負うとなると、尻ごみされるんです。そんなひどい事、とてもじゃないができないってね」
「大体、人を殺すだとか、普通の人間ができることじゃない。やれって言われても、まともな人間ならできませんって」
 男を力任せに叩きつけた時に感じた理性の腐臭を思い出し、根岸は嘔吐いた。
「困ったなあ……。処刑してもらわないとならないんだけどなあ……」
 スーツの男は菓子パンの袋をくしゃっと丸め、近くのゴミ箱へと放り投げた。袋はゴミ箱まで届かず、途中で地面に落ちた。
「こうしましょう。全く同じでなくてもいいです。とにかく、やっちゃってください。検死があるんですけど、何とかごまかしますから」
 
 すぐには部屋に戻る気にはなれず、根岸は近所をふらついた。パチンコでは負けがこんだ。飲んで憂さを晴らそうにも金がない。だからといってコンビニで酒を万引きしようだとか、考えなくもないが行動には移さない。理性が働くからだ。まともな人間ってのはそういうもんだ。
 俺はまともな人間だ。
 ドアを開けると、男はまだ部屋にいた。眠りをむさぼっている。
 人ひとりを殺しておいて呑気なものだな――
 音を立てないよう細心の注意を払いながら根岸はドアを閉めた。
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