第2話

文字数 3,497文字


 カチッ。

 銃声は起こらなかった。マスターは何度も撃鉄を起こし、引き金を引き続けたが、拳銃が火を噴くことはついぞ無かった。
 高野内はゆっくり腰を上げるとマスターの前に立ちふさがる。
「さっき拳銃を確認した時、用心のために弾丸を抜いておきました。これでも探偵なんでね。西木屋さん、あなたの気持ちは痛感しますが、そんな事をしても娘の麗奈さんは喜ばないと思いますよ」
 小夜子は全身の力が抜け、そのまま床にへたり込む。沙里と五反田も椅子に崩れ落ちていた。
 拳銃が手から離れ、音を立てながら転がる。両ひざをついて茫然とするマスターは、やがて声の限りに叫び出すと、こぶしを床に叩きつけた。
 滝のように落ちる涙は床を濡らし、やがて小さな水たまりを作らんとする勢いで広がった。高野内はそんなマスターの隣にしゃがみ込むと、背中に手を当ててそっと囁いた。
「麗奈さんは素敵な方だったと思います。今日初めてお会いしましたが、明るい笑顔と細かな心配り、そして何より、父親であるあなたを心配してこの店を手伝っていた。何とも親孝行の娘さんじゃありませんか。……確かに沙里さんのしたことは決して許されることではありませんが、彼女にしても、突然、河原崎君が撃たれ、その上、恋人である国長野さんが殺されて平常心ではいられなかったからに他なりません。もう充分に反省しているでしょう。……許してやって下さいとは言いませんが、沙里さんへの罰は彼女自身の判断に委ねようじゃありませんか」
 涙が止まり、ふらふら立ち上がると、マスターは一瞬だけ沙里に視線を向けたが、すぐに顔を戻し、厨房の奥に消えた。
 やがて戻ってくると、その手には小さな紙袋を持っている。
「……とっておきのハワイ・コナです。最上級の貴重な豆だから、普段はメニューに出していません。ですが、今日は特別です。もちろん毒なんて入れませんよ。警察が来るまでの間、しばしくつろぎませんか」
 マスターは誰の返事も待たずにコーヒー豆を挽き出した。小夜子は床から立ち上がり、沙里の元へ足を向けると、彼女の顔を覗き込んだ。
「あなたもマスターの気持ちは痛いほど判るでしょう? 復讐は負の連鎖しか生みません。もうすぐ警察がやってきます。自分のやるべきことは判っていますよね」
 沙里はコクリと頷き、国長野に目を向けると、ゆらゆらと歩き出した。
 国長野の前でひざまずくと、沙里は腕時計を外してそっと置いた。まるで横たわっているかつての恋人に決別の意を表しているかのようであった。

 コーヒーの香りが鼻を刺激すると、マスターは全員にコーヒーを配る。
 マスターはカップを持ちながら、さっきまで座っていた椅子に腰を下ろした。全くの無表情だったが、まるでそこが特等席であるかのごこく、リラックスしているようにも見える。
 カップを持ち上げ、まずは香りを堪能する。鼻腔をくすぐる心地よいアロマを感じさせる。さっきのコーヒーも素晴らしいと感じたが、今回はそれをはるかに上回る。小夜子はゆっくりと口をつけた。口中に広がる芳醇な香りとまろやかさ、それでいてすっきりとした後味は、これまで経験した全てのコーヒーの概念を覆すような新たな感動と極上の心地よさを感じる。改めてコーヒーの奥深さに心を奪われるほどだった。
 高野内と五反田も満足そうに唸り声をあげ、沙里はためらいつつもゆっくりとなめるように口を濡らすと、少しだけ笑みをこぼし、カップを最後まで傾けた。
 マスターは一旦厨房に入ると、お代わりはご自由にどうぞとコーヒーサーバーをカウンターの上に置き、元いた椅子に再び座り直した。高野内は五反田の前に腰掛けると、お代わりしたてのコーヒーを片手に話しかけだした。小夜子は聞くとはなしに耳を澄ます。
「そういえば五反田さんってここの常連なんですか? なんだかんだでゆっくりとお話し出来なかったので、今さらですが」
「ええ、三か月ほど前に偶然この店を知りまして、その時から毎週月曜日に通うようになったんです。何せ私もアイドルオタクですから」
 そういえば今日は月曜日。そのせいでこの人は騒動に巻き込まれてしまった。何とも不運なのだろう。
 同情せずにはいられないが、考えてみれば、それは自分も含め、他のみんなにも言えること。五反田ばかりではない。
「なるほど。私もグラビアアイドルに知り合いがいましてね。大野城エイラっていうんですが……」
 すると小夜子は聞き捨てならぬと割り込んだ。
「ちょっと! あんまりエイラさんの事は他人に話さない方がいいわよ。事件に関わる事だし、どうせ向こうだって、あなたの事、どうでもいいと思ってるんだから!」
「そんなことはないぞ。いいか、エイラの正体はな……」
 口をつぐむ高野内。何か言えない事情でもあるのだろうか。
「何? 彼女がどうしたって?」
「……何でもない」
 そのごまかし具合から、本当は何でもない事はないのだろうと察する事が出来た。問い詰めたいところであるが、ここでは多くを語る訳にはいかないのだろう。
 繰り返しますが、詳しく知りたい方は『名探偵、超苦難』をお読みください。 
 そこで高野内は陽気な声を上げた。
「ところでみなさん、読者も含めてお忘れかもしれませんが、水無瀬はどうやって死んだのか? その謎がまだ残っていますよ」
 まるで沙里の一件が無かったかのような振舞いだった。それが高野内なりの配慮なのであると思われる。小夜子はげんなりしながら、もう勘弁してという色を出した。
「そうだったわね。私はもう疲れたわ。推理するのは簡単だけど、ここは助手として名探偵に華を譲ることにするわ」もちろんそれは詭弁であり、事件の真相なんて考えたくもなかった。
 当然、高野内も理解している筈だが、この人の辞書に“空気を読む”という文字は無いらしい。
「調子のいいこと言っちゃって。今の推理だってかなり危なっかしかったじゃないか」
「何とでも言いなさい。とにかく私の出番は終わったの。それに私がこのまま真相を解明したら、タイトルが変わるわよ。『名探偵“小夜子”の苦難』ってね」
「それは勘弁して欲しいところだぜ。ただでさえ前作から俺の存在が薄れてきているみたいだしな」
「だったらここで本領発揮といきなさい。でないとマジで出番を下ろされるわよ。数少ない読者だって、むさいオッサンよりも、可憐でナイスバディの美少女探偵の方が絶対ウケるに決まってるし」
「へえ、そうですか。貧乳で小便臭い小娘のどこが人気なんだろうね」
「貧乳じゃなくてシンデレラバスト! それに成長期だからまだまだ可能性があるわよ。それに本気でそう思うんなら、あなたの推理を聞かせて頂戴。マスターも期待しているわよ。あと、よくわからないといった感じの五反田さんもね」
 小夜子は虚ろな目でホクロをいじっている五反田を見る。自分には関係ないと思っているのか、それとも敢えてとぼけた演技をしているのか――? 小夜子にはどちらとも判断が付かないでいた。
「ならば仕方がない。リクエストにお応えして、特別に私の推理を披露させていたたきましょうか」
「よっ! それでこそ『名探偵、苦難』。主役の意地を見せてあげて」小夜子はありったけの声を張り上げる。我ながら歌舞伎の舞台のようだ。
「何だか上手く乗せられた気がするけど、一丁やってみますか」
 これで面倒な推理はしなくて済むと胸を撫で下ろした。実際のところ、水無瀬に関しては解決の糸口さえ見えなかった。この難解な事件を彼は一体どう料理するのか? 
 小夜子は高みの見物モードに入る。
 高野内は改めてお辞儀をした。もう拍手を送る者はいない。
「まず初めに、水無瀬の死体の様子を説明しましょう。御覧の通り、椅子の背もたれに仰向けの状態で座っています。では、昨夜の状態はどうだったのでしょうか? 私の記憶ではテーブルにうつ伏せの状態で、拳銃を握りしめたまま眠り始めていました。当然ながらうつ伏せの方が眠り易いからです。では、何故今は仰向けなのでしょう? それが自殺だとすれば問題ありません。我々が眠っている間に起き出して、小夜子の言ったように何らかの理由で自殺願望が芽生え、椅子に座ったまま胸に銃口を押し当て、引き金を引いた……彼の右手には硝煙の匂いが残っています。そしてその真下に拳銃が落ちていた……一見自殺で間違いないように見えます。ですが、何故自殺を思い立ったのでしょうか? 先ほども述べたように、水無瀬には自殺をする理由がありません」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み