第3話 高校受験前夜

文字数 1,332文字

 中学三年になると、高校受験が待っていた。受験といっても、通信制の高校を選んだので、先生との面談で合否が決まる。
 受験前日、わたしは母と喧嘩をした。いや、一方的にわたしが言いすぎてしまったという方が正しい。受験を控えて、緊張からピリピリしていたというのもある。
 面談はどんな服装でも構わないとのことだったので、久しぶりにブレザーの中に着るワイシャツにアイロンをあててほしいと頼んだ。でも、そのアイロンが壊れてしまっていたのだ。母を責めるのはお門違いだった。普段から自分でアイロンがけをしていればすぐに気づけたはずのことなのに、いま考えると本当に申し訳ない。

「なんで今日までに、アイロンが壊れてることに気がつかなかったのっ」
 母は言葉に困っていた。その悲しそうな表情を見て、わたしはやっと我に返った。きっと、壊れました、じゃあ替えましょう、とアイロンを買い替えるほどのお金や時間の余裕がなかったのだ。あったとしても、他に充てるべきだと母は判断していたのだ。だのに……。
 自分の幼稚さが情けなくて、涙が出た。でも母の前で泣くのは心配させてしまうから、気が引けて、わたしは押し入れに潜り込んだ。ぎゅうぎゅうに詰められた布団の中で、わんわん泣いた。ああ、こんなに泣いたら明日の面談のときは目が腫れて不細工だろうな、なんて思いながら。
 泣きながら、とりわけ裕福でなくともお金に特には困っていなかった幼少期を思い出した。またじわじわと涙が溢れてきた。チェリーと一緒に遊んだあの平和で幸せな時代を想うと、やるせなくなった。
 あとで叱られることをわかっていて、薄暗くした部屋でチェリーと一緒に見た大好きな洋画のVHS。今はどこにあるのだろう。捨てただろうか。母のことだから、わたしの大切だったものは捨てていないのかもしれない。
 大切だった、大好きだったチェリーは、もうどこにもいない。わたしがこの手で、捨ててしまったからだ。今から百貨店に行って買おうたって、そんなことできるはずもない。
 幼い頃は、欲しいものを簡単に欲しいと言えた。環境もあるが、素直だったからだ。でも、少しずつ大人に近づくにつれて、言えなくなった。環境も変わり、わたしも変わってしまった。
 ある程度、落ち着いたわたしが押し入れから出ると、母がいなかった。言いすぎたことを謝ろうと思っていた。言いようのない不安に苛まれた。ふと、テーブルの上を見てみると、丁寧な母の字で書き置きがあった。
 ――これから、新しいワイシャツを買いに行ってきます。不甲斐ないお母さんで、ごめんね。
 わたしは声を出して泣いた。母はわたしと二人で暮らして、苦労しかしていないのではないだろうかとさえ思った。連絡用にと渡されている自分の携帯電話から、母の携帯電話に電話をかけた。母は5コールほどで応答した。

「あ、カイ? ごめんね、カイが欲しがってたワイシャツのお店、この時間じゃあ、開いてなくって」
 困ったように笑う母の顔が目に浮かんだ。いつか、わたしは言ったことがある。ワイシャツはあのお店のやつがお洒落だよね――。
 何気なく言った言葉を、母は覚えていたのだ。

「お母さんっ」
 わたしにはもはや、「ごめんなさい」という言葉しか出てこなかった。
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