臭いか匂いか

文字数 4,684文字

()(はな)
という仮の名を聞いた時から、「会ってみたい」と思っていた。
 卯の花と名づけられたその男は、数日前の新月の夜、屋敷の門前に(ひと)りで倒れていたらしい。
 華奢な体つき、奴隷の身につけるような着物、腰には帯の代わりに荒縄を巻き、その髪に小さな卯の花を二つ三つ絡ませていたらしい。そうして髪は恐いほど白く、これも白い卯の花が目立たぬほどだったという。
 屋敷の主人は「温厚な領主」で通っていたので、明らかに身分の低い行き倒れでも、屋敷の門前で倒れた者を放っておくわけにいかなかった。拾って介抱してみると、目を開けた青年の瞳は紅玉(こうぎょく)のように真っ赤だった。
「これは嫌な拾いものをした」と思いながらも、主人は行き倒れの青年に事情を訊いた。すると青年、今までの記憶が全くないという。主人はやむなく、記憶が戻るまで青年を屋敷に置くことにした。食うものや住まいの面倒(めんどう)を見る代わり、ここに住む間の屋敷の雑用を言いつけた。要は下働きである。
 髪の白いので「卯の花」と名づけられた青年には、いろいろ妙なうわさが立った。
 まず体臭がひどいという。無論「拾った」時から分かってはいたことだろうが、青くさいような生臭いような、「(へび)のような臭いがする」と。それから夜な夜な近くの泉に忍んでいき、泉の(おもて)に口をつけて大量の水を飲むという。
「お(ひい)さまも、近づいてはなりませんよ。あやつは何か魔性の者やも知れません」
 そう言って「おお嫌だ」と顔をしかめて袖で口もとをおおう女中に、白桃(しらもも)姫は内心で「面白い」とつぶやいていた。
 白桃の姫。このあたりの領主である、屋敷の主人の一人娘。産まれた時から白い肌に血の色が()っすらのぼせ、白桃の実のように可愛らしかったので、白桃という名がついた。しかし姫は常人のように、魔性の者を恐れはしない。
 なんせ物心つく以前から、異形の者を見ることの多かった姫である。姫の父は昔から人外を嫌う性質(たち)だった。しぜん姫も、見えても見えないふりをするようにはなった。
 しかし庭の石灯籠(いしどうろう)の穴にはまって遊ぶ小鬼とも、庭の泉水(せんすい)の中を縦横無尽(じゅうおうむじん)に泳ぎ回る小さな人魚とも、姫は昔から友だちである。したがって目の赤い、雪のように白い髪をした体臭のきつい青年とも、姫は友だちになれる気がした。
 そうは言っても、むやみに広い屋敷である。姫は「卯の花」の話を聞いた時からひそかに彼を探していたが、新月から三日目の今日、いまだに出逢えない。姫は半ばふてくされて、井戸のそばで独りで手毬(てまり)をついていた。
「っあ、」
 姫の不機嫌を嫌ったのか、手毬はふいと手をそれて、深い井戸へと落ちてしまった。姫がつるべをいじって苦戦している背中から、何者かが声をかけた。
「もし、お(ひい)さま。何をなされておいでです?」
「毬が……手毬が落ち込んでしもうたのじゃ……」
 後ろも見ずに井戸をのぞいたまま(こた)え、姫はふっと振り向いた。聞き覚えのある声ではない。はたして背後に立っていたのは、白い髪に赤い瞳の青年だった。恐いくらいに美しい、すかっとした切り立ての青竹のようなにおいのする青年だった。
 ぽっと(ほお)に血の色を濃くする姫に近づき、青年はささやくようにこう告げた。
「白桃の姫さま、しばし目をおつむりくだされば、この私が手毬を取り戻してさしあげましょう」
 それからすうっと冷たい指で、()でるように姫の左のまぶたに触れた。とっさに目をつぶる姫の真横で、さあっと風が動いた気がした。
「……さ、取れました」
 涼やかな声に目を開けると、青年の手には濡れた手毬がおさまっていた。一瞬の間に、青年の体も全身が濡れている。
「……そなた、卯の花じゃな? ……ありがとう」
 思いもよらない出逢いに舌足らずになる姫さまに、卯の花はそっと眉根をひそめて微笑んだ。どうやらこの男、()む時に困り眉になるのがくせらしい。
 その晩、姫の父は夕餉(ゆうげ)のみそ汁が「青くさい」と文句を言った。
「何だ、今宵(こよい)の膳は! 飯も汁も、何もかも青臭(あおくそ)うてたまらん……! おい、水は何を使った? 近くの泉は『水蛇の神が()もうて、臭う』とのうわさだが、泉から水を()んできたのか?」
「いえ、そうではございませぬ。お屋敷の井戸から汲み立ての水を……」
「ふん、井戸に水草でも生えたのか? 明日井戸さらいを呼んでよっく掃除させておけ! もう膳はいい、酒だけにする!」
 姫は同じ飯も汁も、全てきちんと胃の()に収めた。
(いつになく、青竹の良いにおいがするではないか。おかしな父上じゃ)
 そう思ったが、もちろん口には出さなかった。翌日、また顔を合わせた卯の花にその話をすると、彼は困ったように眉根をひそめてまた微笑(わら)った。
 ほどなくして、姫と卯の花は恋仲になった。別段何をするでもなく、ただほんのわずかな間、隣同士にいるだけで、妙に心が安らいで、幸福な気持ちになれるのだった。
「おかしいのう。皆が嫌がるそなたの臭いが、わらわにはとても良い香りに思えるのじゃ。夏の青竹をすかすかと切って、その切り立ての青い器で清水を汲んで飲んだような、何とも爽やかな香りにの……。これはわらわがおかしいのかのう? それとも皆がおかしいのかのう?」
 卯の花は何とも応えずに、ただほんのりと眉根を寄せて微笑っていた。
 やがて満月の夜が来た。
 卯の花は白桃の姫の手を引いて、夜中に屋敷を()け出した。姫は危ないとも何とも思わず、ただ手を引かれてついていった。「この者が自分に危害を加える訳はない」という、もうそこまでの信頼を、卯の花は姫から勝ちとっていた。
 卯の花は屋敷近くの泉まで姫を連れていき、泉のほとりで立ち止まって振り向いた。泉に映る切れぎれの月の光と、月の光に濡れたような赤い瞳が綺麗だった。
「……姫さま、あなたはご自分を人間なのだと、今でも信じておいでですか?」
 突拍子もない問いかけに、姫はあんまり驚きすぎて、すぐには返事も出来なかった。卯の花は赤い瞳を危ういくらい潤ませて、懺悔(ざんげ)のように語り始めた。
「姫さま。あなたは魔性の血を引く蛇性(じゃせい)の生き物。そうして私の血のつながった妹です」
 白桃の肌が、ぷっと血を吐いたように紅潮し、それからさあっと血が引いて、幽霊のように青白く陶器(とうき)の肌へと色を変じた。卯の花は彼女を気づかいながらも、真実を(こと)()にのせて語り重ねた。
「そもそもの始まりは、あなたの母上、(あおい)姫が私の父に恋したことです。この泉でたまたま父と出逢った葵姫は、『一度で良いから一夜を共に』と父に懇願(こんがん)したのです。父は『私は妻子を持つ身だ』とはねつけましたが、葵の姫は聞きません。『わらわの婚姻は家と家とを結ぶもの、いわゆる政略結婚です。夫もわらわも、互いに情などありませぬ』と言いつのり、目の前で舌を噛み切るそぶりをする始末。どうにも断れず、父が寝床を共にして、身ごもったのがあなたなのです」
「すると……わらわは……蛇なのか?」
「半分蛇の血が流れる体、十七を越せば次第しだいに肌にうろこが浮いてくる、その黒髪も透き通るように白くなる。変化が起きたら気の毒な目に()うだろう、そうなる前にこの泉へと引き取らねば。そう命じられて、この卯の花が……真名(まな)を『淡雪丸(あわゆきまる)』と申します、私がお迎えに参りました」
 白桃姫の黒い瞳に、ひとすじ赤い色がさす。じわりじわりと色を変じる大きな瞳に、母親違いの兄の姿が映っている。
「……すると……あなたさまは……あ、兄上……?」
 ひとつうなずいた淡雪丸は、口調を変えてなお愛しげに、言葉をさらに積み重ねる。
「そう呼んでくれるのならば、こちらも言葉を変えて話そう。白桃、おまえを迎えに行く日はいつがいいかと、泉の底で占われた。そうして『新月の宵が良かろう』という()が出たのだ。新月の日は我ら水蛇(みずへび)、泉の主の妖力(ちから)が減じる日なのだが、そう卦が出てはしようがない。我は今宵満月の夜、妖力の満ちるこの夜まで、この時をずっと待っていたのだ」
 兄の言葉も、ほとんど耳に入らない。長い下げ髪が毛先から白くなってゆくのも気がつかず、白桃は淡雪丸にすがりつくように問いかけた。
「すると我らの恋情は……すべて偽りとおっしゃいますか? わらわをここまで連れてくるための方便だとおっしゃいますか? 我らが兄と妹ならば……結ばれることはないのでしょうか……!?」
「いや、我は真実お前を好いている。兄妹間での契りが禁忌と申すのは、人間が人間同士で勝手に決めた掟にすぎぬ。蛇の間にそんな掟は存在しない。ただ、おまえ自身が人間でないと知った今、正直おまえが舌を噛んで死にはせぬかと……!」
 赤い瞳を心配で潤ませた淡雪に、白桃は急に音の出るようににっこり笑い、抱きつくそぶりで兄の手をとってじゃれついた。
「それならば! ……わらわを兄上のお嫁にしていただけるならば、何の問題もございません」
 淡雪は心底気の抜けてしまったように、細い眉根をきゅうっと寄せてはにかんだ。それから姫をかき抱くしぐさで近づいて、その口もとに手を伸ばし……。
 そのままずるずるとくず折れた。初めての口づけを目を閉じて待っていた白桃は、不思議に思って兄と同じに赤くなった目を開いた。淡雪丸の細い背に、幾本(いくほん)も矢が突き立っていた。倒れ込む兄の赤い瞳は、白いまぶたにおおわれていた。
 兄の背の遠い向こうから、武器を携えた追っ手が幾人(いくにん)も駆け寄ってきた。
「姫さま! ご無事で!?」
「う、うわ! 姫の瞳が赤いぞ! 髪も白くなっていく!」
「おのれ、魔性の者の邪気にあてられて妖魔と化したか! この上は容赦無用、こやつはもはや姫ではない! 討ち取れ、討ち取れい!!」
 赤い瞳からぽろぽろと涙を流していた姫が、ぬるりと綺麗な顔を上げた。白いまつ毛に彩られた瞳には、まぎれもない純粋な殺気があふれている。
 姫の姿がかすむように大きくなり、ほんの二三瞬で白桃色のうろこの大蛇が追っ手の前に現れた。大蛇は赤い瞳に殺意の炎を燃え(たぎ)らせ、逃げ惑う追っ手の群れを真紅の天鵞絨(びろうど)を張ったような口で一呑みに吞み込んだ。
 と、淡雪丸の体もすうっとかすみ、見る間に崩れて大きくなって、雪のようなうろこを持った白い大蛇の姿になった。矢の刺さった部分から細く赤く血が出ているが、まぎれもなく生きている。その体に刺さったままの、大蛇の体には楊枝(ようじ)のように細い矢を、白桃の蛇はかいがいしく口で抜き取り、捨ててやった。
「やあ、すまない。心配をかけた……ところで我が妹姫、白桃の蛇の白桃姫よ。これからは我と共に、泉に棲もうてくれようか?」
「兄上は、いじわるなことをおっしゃいます。たとえ人型(ひとがた)になろうとも、赤い瞳に白い髪……屋敷の人間を手にかけたわらわが、屋敷に帰れるとお思いですか?」
 そこで二匹の兄妹蛇はくすくすと互いに笑み交わし、もつれるように絡まるように寄り添って、泉の中へと入っていった。そうしてそのまま、二度とは戻って来なかった。
 泉のほとりには長いこと、二匹の蛇の残していった青くさい、何とも生臭い、「すかすかと青竹を切ったような」臭いが色濃く漂っていた。
 そうしてそれ以上、屋敷から追っ手もかからなかった。死体の一つも見つからず、「水神の棲まう泉」に血矢ばかり落ちていたのを目にして、屋敷の主人も「白桃は泉の主の嫁になったに違いない」と、泣く泣く娘を(あきら)めたのだ。
 泉は今日も澄んでいる。
 広く深く、水の重なりに青く黒く見えるまで。
 そうしてあまりに泉の主の水蛇夫婦の

ものであろうか……。
 泉には毎日毎晩、桃色のうろこと白いうろこが(おお)きな花びらの散るように、浮いては流れて泉のほとりを彩るようになったのである。
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