太田神社
文字数 1,486文字
2021/03/02 08:40
太田神社に祀られている応神大王の御治世は、堤方権現台古墳より一つ前の古墳時代中期に遡ります。当時「倭国」と呼ばれた我が国を統治していた、奈良を中心とする大和朝廷は、あの『三国志』(魏志倭人伝)に伝わる「邪馬台国」と同じく、元来は呪術を重んずる宗教国家(神権政治)でした。しかし4世紀後半、倭国は高麗半島へと進出するようになり、鉄鉱石の資源が産出する韓国南部の任那府に上陸し、西韓国の百済と同盟する一方で、東韓の新羅や北朝鮮の高句麗とは戦争状態に突入しました。こうした情況下で、5世紀前半に在位された応神帝は(祈るだけでは戦いに勝てないので)従来の大和朝廷よりも軍事力を重視し、普及した鉄器を用いて大坂河内平野を開発し、御自身も没後、大仙仁徳陵に次ぐ前方後円の誉田御廟山古墳に埋葬されました。また、騎馬民族の王国である高句麗との戦闘経験により、この時代には鉄製武器・馬具などの騎馬民族的な古墳文化が見られるようになります。そのため、応神帝を中心とする軍事政権を「河内王朝」などと呼ぶ説も提唱されています。そしてこの河内から、後に鎌倉幕府を開闢する河内源氏が台頭します。
2021/03/02 08:48
2021/03/02 08:54
応神大王は『記紀』によって第十五代天皇「応神天皇」と称号され、宇佐神宮を中心に八幡信仰と呼ばれる崇敬を集め、仏教にも取り入れられて「八幡大菩薩」と讃えられるようになりました(神仏習合)。この太田神社も、隣接する日蓮宗の覚応長勝寺と結び付いていました。応神帝は、武士からも軍神として信仰され、鎌倉幕府を開いた源氏や、『平家物語』に登場する野州の那須 与一 宗高 、更には琉球王国と深き縁のある倭寇からも尊ばれました。その那須宗高が屋島・壇ノ浦の戦いに際し、御本尊として身に付けていた八幡大菩薩像が、ここ太田神社に御神体として安置されており、市野倉の高台は「那須原」と呼ばれます。1945(昭和二十)年の東京大空襲で、太田神社は一度焼失してしまいますが、長勝寺に遷されていた那須氏の八幡神像は、奇跡的に難を免れたとの逸話まで語られています。そんな太田神社(古くは八幡社・八幡宮)は、文献史料や松の年輪(樹木の幹に1年ずつ増える模様)から推測すると、江戸時代17世紀頃には鎮座していたようです。例大祭は5月。
2021/03/02 09:23
「正確な由来は不詳だけど、この地域に居た太田氏という人物の苗字に基づくと言われる。かつて市野倉などを治め、八幡社を祀っていた人物の名前が『太田新六郎』だと伝わる。また、室町時代に太田
2021/03/02 09:29
池上本門寺などで勝海舟と西郷隆盛が会談したのは、江戸城での決戦を回避するための和平交渉でした。言う迄も無く江戸東京城は、今も昔も麹町に存在しますが、六百年前の太田道灌の判断次第では…私達の郷土である大森のどこかに、徳川幕府や皇居御所が建てられて、激動する歴史の舞台になっていた…のかも知れませんね。
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