第27話 エッセー、『自転車に乗るわたし』

文字数 1,112文字


 一時間ほどコタローに店内を引きずり回され、パーツの名称からメンテナンスの方法まで叩き込まれた。クロスバイクだけでなく、ロードレーサーやマウンテンバイクに至るまで。
 わたしはふと、一言訊いてみた。
「色々教えて貰ったけど、結局、自転車の最終形はロードレーサーってことなの?」
 途端にコタローがマジ顔になる。
「シズル、馬鹿言ってんじゃないよ。あらゆる自転車のことを知った上でクロスバイクに乗るってことに意味があるんだ」
「でも、コタローだってお金とメンテの時間があったらロードレーサー買いたいでしょ?」
「ロードレーサーだけが凄い訳じゃないんだよ。クロスバイクをなめるな!」
「なめてないよ。わたし、自分のクロスバイク大好きだし。同じ自転車だからママチャリだって別になめたりしないよ」
「問題をすり替えるな!」
 ふだん、気だるそうで何事に対してもやる気のなさそうなコタローが自転車のことになるとやたらムキになる。もっともわたしもその癖がうつったのかな。自転車なんてめんどくさい、車ですーっと行けばいいじゃん、なんてクラスの子から言われて自転車の素晴らしさを力説したことがあった。コタローみたいに怒りはしないけど。
「わたし何か、自転車の本、買おうかな」
 何気なくカタログや教則本のコーナーで手に取ってパラパラ見てると中野社長が声をかけてきた。
「シズルさん、これなんかいいですよ」
 それはいわゆる教則本ではなかった。
『自転車に乗るわたし』っていうタイトルのエッセー。ママチャリとクロスバイクの中間のようなマンガっぽい自転車のイラストとその後輪の辺りの地面に小さな花が描かれた表紙。
「表紙がきれい。著者は女の人なんですね」
「でも、この著者はもういないんだよね」
「え、どうしたんですか?」
「筋肉が委縮する難病で若くして亡くなったんだ。5年ほど前かな。この本はこの著者の最初で最後の本だよ」
「そうなんですか・・・・」
「タイトルに‘自転車’ってついてるけど自転車のことばっかりの本じゃないよ。この本を書いたのは病気がかなり進行してしまってて、口述筆記ができる限界くらいのタイミングだったらしいね。この人が亡くなったことは悲しいけれど、そんな時に自然に‘自転車に乗るわたし’っていうフレーズがこの人の中に浮かんできたってところがなんだか嬉しくてね。嬉しい、なんていうとちょっと不謹慎かもしれないけれど」
「いえ、なんとなく分かります」
 中野社長・・・不思議な人だな。でも、そういう社長の店で働き始めるコタローも不思議な奴なのかもしれないな。単なる変なヤツ、ってだけじゃなくて。
「これ、買います!」
 意味もなく中野社長に向かって‘!’マークを付けてみた。
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