1.大樹の夢
文字数 2,526文字
振り返りし過去の夢 ~プロローグ~
──眠る子よ。
誰かがそう言う声がした。心の中へと沁みるように響く温かな声だ。
──時を司る眠る子よ。
ふわりと風が吹き、花の香りが柔らかく鼻孔をくすぐる。
季節は春なのか、新緑の鮮やかな光が風に溶け、さわり、さわりと嬉しそうに踊る。木漏れ日が大地を照らし、下草の花が笑うように蕾を弾けさせる。世界は生きて、そして、回っている。
──夢に不確かな時を映す眠る子よ。
また声がする。
ふらりと影が揺れ、現れた小さな人がぼくを見つめた。青いローブを身に纏い、その深い灰色の髪を風に揺らす。すべてを見通すような青い瞳がぼくを意味ありげに見つめ、そして、ゆっくりと微笑んだ。
「私は、ここに」
微笑みながら歌うように言葉を奏でる。
「そう、私はここに」
再び影が揺れた時、小さな人の後ろに大きな木が現れた。小さな人は再び言葉を奏でる。
「虚実の間 に漂い生きる我が半身よ。世界を見つめ、同時に世界である我らの大樹よ、私は、
そう言いながら、すぐにその小さな人は苦笑を顔に浮かべた。「だが、次の器はまだ未熟。私のすべてを託すには若すぎる」
これは夢だとぼくはわかっている。そして、この夢の中でぼくは空気と同じだ。ただそこにあり、ただそれを眺め、そして、何もできない。
──見つめなさい。
木の葉がこすれる音がする。
──感じなさい。
甘い香りが世界を満たす。
──そして、選びなさい。
「運命は再び回った」
小さな人がぼくを見つめながらそう言った。「運命は再び零れ落ちた」
さあ、と、ぼくを促すようにその小さい人は言う。
「汝 、時を駆け抜けよ。真実の夢に世界を映し、夢幻の時を従えよ」
その時、誰かがぼくを抱きとめたことをぼくは感じた。ぼくは何かに包まれている。周りは何も見えない。けれども、ぼくに不安はなかった。
「大丈夫」
しばらくして、柔らかい声がそう言った。窓から差し込む冬の光のような声だった。「だからもう少しだけお眠りなさい。その小さな体では、まだ目覚めるには早すぎる」
言葉に促されるようにぼくの意識は霞の中を漂い、そうして気が付いたとき、ぼくは無機質な部屋の中に一人で立っていた。中央には女性を思わせる巨大な顔があり、頭と首を何本もの黒く太い管に繋がれている。
それもまた、ぼくと同じように眠りの中にあった。
──識女 。
ぼくの頭の中で声が響いた。
不思議なことにぼくは最初からこれを知っていた。ぼくらの時代の真逆にあった世界の頭脳。世界の中心。世界の指導者。人の創りし無機なる者。そして、滅びし遺産。甦りし呪い。
ぼくの意識は再び虚空を彷徨った。
そうして最後に、巨大な聖堂の中にぼくは立つ。目の前の少女が歓声を受けながら戴冠している。彼女はぼくらの時代の世界の中心。呪いを打ち破りし聖女にして、新たなる世界の指導者。曙光の王カサンドラ。
歓声を聞き流しながらぼくは視線を遠くに飛ばした。そう、ぼくは見つめた。ぼくは認識した。目が合った。声を出そうとして、目が覚めた。
「……あら、起きた?」
優しい声に目を開けると、ミクの青い瞳が心配そうにぼくを見つめていた。ぼくは大きく伸びをして、ゆったりと欠伸をする。からかうようなミクの柔らかい笑いがぼくに降り注ぐ。
「もう、この頃寝てばかりなんだから。暢気なものね」
こんな日に、と、ミクは言いたいのかもしれない。もちろん、今日がどんな日なのかはぼくだってわかっているけど、抗えない眠気というものだってあるのだから仕方がない。
伸びをした体を元に戻して座り直し、ぼくは無言でミクを見つめた。
ミクは本当に綺麗になったとぼくはしみじみ思う。学校に行き、教養を身に着け、教師としての仕事を得て、そして今や素晴らしい夫を見つけた世界一幸せな花嫁だ。彼女は今日という日にこの村を旅立ち、遠くの土地で新しい生活を始めることになる。
花嫁衣装に身を包むミクはとても幸せそうだった。
そう、大丈夫。ミクの未来は何も心配ない。
「おおい、ミク、準備はいいか? そろそろ時間だぞ」
扉が開く音と同時にバズの声がした。ミクの兄のバズ。ぼくは無言のままで彼も見つめた。うん、彼もずいぶんと立派になった。士官学校を経て今では立派な軍人だ。本当に勇ましい。
ぼくは静かにこの兄妹 を見つめ、そして、静かに微笑んだ。
あれから何年が過ぎ去ったのだっけ。ふと考えたけど、すぐには思い出せなかった。
バズやミクに注がれた歳月はぼくに注がれたよりも遥かに緩やかながら、それでも着々と彼らを未来へと運んでいる。ぼくにはその事実がとても嬉しい。
部屋に入ってきたバズは、ミクの横にいるぼんやりとした顔のぼくを見つけて、
「おお、起きたのか?」
と、にやりと笑いながらぼくたちに近付いてきた。「大事なことを寝て過ごす気かと思ったよ」
まったく、それはひどい。ぼくだって大事な場面ではちゃんと起きている。
ぼくは抗議の気持ちを態度で示してつんと横を向いた。
「なんだよ、怒ったのか?」
バズが困ったように苦笑する。そういう顔をするときのバズは子供の頃の面影を残していて、それだけでぼくはとても懐かしい気持ちになるんだけど、そんなことを言ったらバズは嫌がるだろうか。照れるだろうか。でも、すっかりと大人の女性になったミクがこういう顔をすることはないんだよね。きっと、こういうところが違うんだ。男と女って。だから、ああ、まあ、いいや。今はそんなことを考えている時ではない。
ぼくはもう一度うんと伸びをして、ようやく立ち上がった。
「なあ」と、バズがミクを見ながら言う。「早く外に出てみろよ。バジリオがすげえ虹を作ってくれたからさ」
「ああ、それで」と、ミクが笑う。「さっきから忙しなく雨が降ったりやんだりしていたから何かと思ってたのよ」
ぼくたちは連れだって外に出た。一目見ただけですぐに彼の仕事だとわかる虹。空から降り注ぐ慈愛の魔力をぼくは浴びるように感じながら、ふうっと息を吐いてもう一度空を見上げた。
何度褒め称えても飽きることはないだろう。
──眠る子よ。
誰かがそう言う声がした。心の中へと沁みるように響く温かな声だ。
──時を司る眠る子よ。
ふわりと風が吹き、花の香りが柔らかく鼻孔をくすぐる。
季節は春なのか、新緑の鮮やかな光が風に溶け、さわり、さわりと嬉しそうに踊る。木漏れ日が大地を照らし、下草の花が笑うように蕾を弾けさせる。世界は生きて、そして、回っている。
──夢に不確かな時を映す眠る子よ。
また声がする。
ふらりと影が揺れ、現れた小さな人がぼくを見つめた。青いローブを身に纏い、その深い灰色の髪を風に揺らす。すべてを見通すような青い瞳がぼくを意味ありげに見つめ、そして、ゆっくりと微笑んだ。
「私は、ここに」
微笑みながら歌うように言葉を奏でる。
「そう、私はここに」
再び影が揺れた時、小さな人の後ろに大きな木が現れた。小さな人は再び言葉を奏でる。
「虚実の
まだ
、ここに……」そう言いながら、すぐにその小さな人は苦笑を顔に浮かべた。「だが、次の器はまだ未熟。私のすべてを託すには若すぎる」
これは夢だとぼくはわかっている。そして、この夢の中でぼくは空気と同じだ。ただそこにあり、ただそれを眺め、そして、何もできない。
──見つめなさい。
木の葉がこすれる音がする。
──感じなさい。
甘い香りが世界を満たす。
──そして、選びなさい。
「運命は再び回った」
小さな人がぼくを見つめながらそう言った。「運命は再び零れ落ちた」
さあ、と、ぼくを促すようにその小さい人は言う。
「
その時、誰かがぼくを抱きとめたことをぼくは感じた。ぼくは何かに包まれている。周りは何も見えない。けれども、ぼくに不安はなかった。
「大丈夫」
しばらくして、柔らかい声がそう言った。窓から差し込む冬の光のような声だった。「だからもう少しだけお眠りなさい。その小さな体では、まだ目覚めるには早すぎる」
言葉に促されるようにぼくの意識は霞の中を漂い、そうして気が付いたとき、ぼくは無機質な部屋の中に一人で立っていた。中央には女性を思わせる巨大な顔があり、頭と首を何本もの黒く太い管に繋がれている。
それもまた、ぼくと同じように眠りの中にあった。
──
ぼくの頭の中で声が響いた。
不思議なことにぼくは最初からこれを知っていた。ぼくらの時代の真逆にあった世界の頭脳。世界の中心。世界の指導者。人の創りし無機なる者。そして、滅びし遺産。甦りし呪い。
ぼくの意識は再び虚空を彷徨った。
そうして最後に、巨大な聖堂の中にぼくは立つ。目の前の少女が歓声を受けながら戴冠している。彼女はぼくらの時代の世界の中心。呪いを打ち破りし聖女にして、新たなる世界の指導者。曙光の王カサンドラ。
歓声を聞き流しながらぼくは視線を遠くに飛ばした。そう、ぼくは見つめた。ぼくは認識した。目が合った。声を出そうとして、目が覚めた。
「……あら、起きた?」
優しい声に目を開けると、ミクの青い瞳が心配そうにぼくを見つめていた。ぼくは大きく伸びをして、ゆったりと欠伸をする。からかうようなミクの柔らかい笑いがぼくに降り注ぐ。
「もう、この頃寝てばかりなんだから。暢気なものね」
こんな日に、と、ミクは言いたいのかもしれない。もちろん、今日がどんな日なのかはぼくだってわかっているけど、抗えない眠気というものだってあるのだから仕方がない。
伸びをした体を元に戻して座り直し、ぼくは無言でミクを見つめた。
ミクは本当に綺麗になったとぼくはしみじみ思う。学校に行き、教養を身に着け、教師としての仕事を得て、そして今や素晴らしい夫を見つけた世界一幸せな花嫁だ。彼女は今日という日にこの村を旅立ち、遠くの土地で新しい生活を始めることになる。
花嫁衣装に身を包むミクはとても幸せそうだった。
そう、大丈夫。ミクの未来は何も心配ない。
「おおい、ミク、準備はいいか? そろそろ時間だぞ」
扉が開く音と同時にバズの声がした。ミクの兄のバズ。ぼくは無言のままで彼も見つめた。うん、彼もずいぶんと立派になった。士官学校を経て今では立派な軍人だ。本当に勇ましい。
あの頃
とは違い、今のバズなら優しさと勇気を実力に変えて果敢に敵と戦うことができるだろう。ぼくは静かにこの
あれから何年が過ぎ去ったのだっけ。ふと考えたけど、すぐには思い出せなかった。
バズやミクに注がれた歳月はぼくに注がれたよりも遥かに緩やかながら、それでも着々と彼らを未来へと運んでいる。ぼくにはその事実がとても嬉しい。
部屋に入ってきたバズは、ミクの横にいるぼんやりとした顔のぼくを見つけて、
「おお、起きたのか?」
と、にやりと笑いながらぼくたちに近付いてきた。「大事なことを寝て過ごす気かと思ったよ」
まったく、それはひどい。ぼくだって大事な場面ではちゃんと起きている。
ぼくは抗議の気持ちを態度で示してつんと横を向いた。
「なんだよ、怒ったのか?」
バズが困ったように苦笑する。そういう顔をするときのバズは子供の頃の面影を残していて、それだけでぼくはとても懐かしい気持ちになるんだけど、そんなことを言ったらバズは嫌がるだろうか。照れるだろうか。でも、すっかりと大人の女性になったミクがこういう顔をすることはないんだよね。きっと、こういうところが違うんだ。男と女って。だから、ああ、まあ、いいや。今はそんなことを考えている時ではない。
ぼくはもう一度うんと伸びをして、ようやく立ち上がった。
「なあ」と、バズがミクを見ながら言う。「早く外に出てみろよ。バジリオがすげえ虹を作ってくれたからさ」
「ああ、それで」と、ミクが笑う。「さっきから忙しなく雨が降ったりやんだりしていたから何かと思ってたのよ」
ぼくたちは連れだって外に出た。一目見ただけですぐに彼の仕事だとわかる虹。空から降り注ぐ慈愛の魔力をぼくは浴びるように感じながら、ふうっと息を吐いてもう一度空を見上げた。
何度褒め称えても飽きることはないだろう。