詩小説『永久欠番』3分で想い出を。全ての大人へ。

エピソード文字数 956文字

思い出した。子供の頃転んで膝を擦り剥いた坂だ。
思い出した。鼠色蛇の曲がりくねった坂だ。
思い出した。甘酸っぱい黄色の細道だ。
ここに在るのは僕の故郷だ。
救急車で運ばれた祖母が退院して間もないこの頃に。18でこの島を飛び出して故郷へは足が遠のいていた僕。ふたり歩いて坂の上の実家を目指した。
歩をひとつ前へ進める度に「よいしょ」と零れる祖母と、その後ろを着いて歩き、小さな背中を心で押した僕。
少しずつなにかが変わり始めていた。
祖母のリハビリを兼ねて歩いている。僕の胸に在る宝物の話がしたくて歩いている。祖母は三分目で息を切らしてしまった。その乱れてしまった呼吸を落ち着かせるべく、何度も石段に座り込み休んだ。その息づかいに僕の心は乱れてしまった。
この坂道を下って通った学校は廃校になっていた。久しい帰郷はオリーブの香りがした。道にはサイクリングの自転車が増えた。
少しずつなにかが変わり始めていた。
うんと昔に祖母は言った。家に居たままどこにでも行けたらいいのにと。幼かった僕は笑った。空飛ぶ家。大人になった今、祖母のその言葉は違う色で、違う表情に見えた。
息を切らしまた座り込んだ。振り返れば海が見えた。波は風におじぎする稲穂に見えた。牡蛎いかだはクジラに見えた。山に囲まれた海はダイヤみたいに光っていた。伝えたくて、眺めたくて僕も隣へ座り込んだ。
「優しすぎる子だから心配なんよ。損ばっかりしてきたじゃろ。正月には帰ってきんさい。待ってるから」
僕は黙って海を見ていた。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。胸の中で繰り返した言葉。たったひとつでも良いから伝えることが出来たなら。僕は後悔せずにすんだのに。
祖母は味噌汁の作り方を忘れていた。畑は荒れ果てていた。
少しずつなにかが変わり始めていた。
平坦な道のりで波風立たない空模様なら、痛すぎる優しさにも出逢わずにすんだのに。いったい何を返せば心は許されるだろう。
海って手のひらですくえば透明なんだ。きっと空の青を写してるから青いんだ。工場の煙は毎日、雲を作っているんだ。
海って広いんだ。海って青いんだ。どこでも行けそうな気がする。謝らなくたってなんでも許してくれそうだ。
永久欠番を背中に背負って、変わることのない記憶に花束を。 
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登場人物紹介

主人公はあなたです。それぞれの恋愛模様を『詩小説』で。

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