第4話
文字数 5,521文字
ミイ姉ちゃんと出会ってから、わたしのなつやすみの過ごし方が変わった。
できるだけ早く宿題を片付けて、できるだけ早くミイ姉ちゃんの待つ公園に行く。
毎日毎日、夏の間中、そうしていた。
一人だったときは、家の中で、重くのしかかってくるなつやすみの流れに身を委ねるしかできなかったが、ミイ姉ちゃんがそばにいれば、話は違った。
ミイ姉ちゃんはわたしと違い、「なつやすみ」の流れの中を自由自在に泳ぐことができる子どもだった。
そしてわたしも、ミイ姉ちゃんの後を追うことで、初めて、なつやすみを堪能することができるようになったのだ。
ミイ姉ちゃんはいつもジーンズのショートパンツに、白いタンクトップかTシャツを着ていた。そしてつややかでふっさりとした黒髪を、アケビのツル枝のように自由奔放にうねらせていた。
一緒に行動するようになって改めてわかったのだが、なつやすみを大胆不敵に泳ぎ回れるミイ姉ちゃんは、わたしが最初で最後に出会った、色んな色をもった子どもだった。
例えるなら、太陽だ。太陽みたいに輝いている、という意味ではなく、ミイ姉ちゃんは太陽のように気温、時間、空気、その他もろもろの外影響で色が変わる女の子だった。
たとえば、朝焼けや夕焼けのように、ミイ姉ちゃんが真っ赤なとき。
それは、ミイ姉ちゃんが何かに熱中しているときだった。どんどん、どんどん赤くなって、ミイ姉ちゃんの全身が赤い光で輝くのだ。
ミイ姉ちゃんが赤く染まっている中で一番記憶に残っているときがある。それが、団地の裏の林で、サンコウチョウの巣を見つけたときだ。
団地の裏の林の奥に優雅に尾をなびかせる親鳥と、赤茶の手鞠のようにふわふわとした三羽の小さいひな鳥がいた。
ミイ姉ちゃんは団地の塀によじ登って、何時間でも巣が良く見える場所に陣取っていた。
わたしは体がまだ小さかったから、自力で塀によじ登るのは大変だった。うんしょんしょと顔を真 っ赤にしながらがんばるわたしを、ミイ姉ちゃんはいつも手伝ってくれた。おかげで、毎回なんとか塀のてっぺんまでよじ登ることができた。
「なっちゃん見える?」
小さな声まで真っ赤にしながら、ミイ姉ちゃんがささやく。
「うん、みえるよ、かわいいね」
「ねえ、可愛いねえ……すごいねえ、みんな、すっごく可愛くて、頑張ってるね」
「そうだねえ……」
頑張っている、という言い方がまさにぴったりで、わたしは目の前のサンコウチョウの姿をしばらく無言で堪能していた。
頑張っている…。
頑張るって、すごく簡単で、すごく難しいことだ。
「ミイ姉ちゃんは、なにかがんばってることってある?」
サンコウチョウを見ながら、何気なしに、ミイ姉ちゃんに聞いてみた。すると、ミイ姉ちゃんは、ふふっと笑った。
「あるよ。なっちゃんはあるの?」
「え? わたしぃ……?」
がんばっていること、がんばっていること……。
サンコウチョウの姿を見ていたら、宿題を毎日やっていることも、ラジオ体操に毎朝行っていることも、頑張っていることではないような気がしてきた。
頑張ること。
しばらく考えた結果、わたしはミイ姉ちゃんにこう答えていた。
「ミイ姉ちゃんとあそぶのに、がんばってるよ」
それまでサンコウチョウを見つめていたミイ姉ちゃんのかしばみ色の大きな瞳が、ぱっとわたしを見た。
「ほんとに?! うれしい!」
それから、ミイ姉ちゃんは「わたしがね」と言葉をつなげた。
「わたしがね、頑張っていることはね」
「うん、なに?」
「んー…たくさんあってね……なっちゃんと遊ぶことも頑張ってるし、あとは、実は毎日お祈りを頑張ってる」
「おいのりぃ?」
変な声がでて、それを聞いたミイ姉ちゃんがふふふっと心底楽しそうに笑った。
「夏休みが終わっても、楽しい日々が続きますようにってお祈りしてるんだ」
おいのり。お祈り。
わたしも、と声がでた。
「わたしも、ミイ姉ちゃんがたのしいって、ずっとおもえるように、おいのりするね」
「なっちゃんは優しいなあ。じゃあ、今度一緒にお祈りしようね」
ぽんぽん、とミイ姉ちゃんの白く細い手がわたしの頭をなでた。柔らかいミイ姉ちゃんの指先や手のひらを感じ、わたしはほっこり温かくなった。
すぐ近くで少女二人がそんな会話をしているとはつゆしらず、サンコウチョウのひな鳥は相変わらず元気いっぱいに、バタバタと羽を動かしていた。三羽のサンコウチョウは親鳥の美しさとは全く違った愛らしさを見せている。
三羽が懸命に小さな巣の中で動く姿は、もふもふとした茶色の鞠がはねているようだった。
と、次の瞬間、目を覆いたくなるような出来事が起きた。
目の前で、巣の中から一羽のひなが転げ落ちたのだ。
「あっ」
裏山の雑木林の中にわたしの声が響いた。ミイ姉ちゃんを見ると、目を見開いてひなが落ちた場所を見つめている。
わたしとミイ姉ちゃんはしばらく、ひな鳥が落ちた付近の地面を見下ろしていた。わたしとミイ姉ちゃんは今、塀に登っているから、巣と同じ高さにいる。つまり、かなり高い場所にいるのだ。加えて、団地は少し丘の上にある。
塀を超えた先を見下ろすと、かなり下の方に地面があることが容易にわかった。塀から飛び降りて無事に着地できる高さでは到底ない。
わたしもミイ姉ちゃんもしばらく無言だった。
ミイ姉ちゃんはどうするのだろう……。
ミイ姉ちゃんの次の動きに従うつもりだったわたしは、ミイ姉ちゃんが何事もなかったようにあっさり視線を巣のほうに戻したので、面食らった。
「仕方ないんだよ。なっちゃん」
いつまでもいつまでも、ミイ姉ちゃんの顔を見たり、塀の下を覗き込んでひなの無事を確認しようとしたりしていたわたしに、しびれを切らしたようにミイ姉ちゃんが声をかけた。
「あの子は弱かったから落ちちゃったんだよ。わたしだって助けてあげたいけど……この高さじゃ絶対に地面に降りられない」
「でも、ロープとか、つかったら」
「降りられたとしても、ロープ掴んでひなを抱えて塀を登るのなんてできないよ。なんとか登れたとしても、塀からあの巣にひなをもどしてあげるのは、手がとどかない」
わたしは今いる場所から巣があるところをじっと見つめた。自転車一台分くらいはゆうに離れている。
わたしは黙ってミイ姉ちゃんの言葉を反芻していた。
そのあと、わたしもミイ姉ちゃんも小腹が空いたので、団地の裏口の方へ移動することにした。
実はこのあいだ、裏口近くにある駐輪場付近にキイチゴの低木があるのを見つけたのだ。ざっと見た感じ、だいたいがもう完熟を過ぎてしまっていたが、中にはちょうど食べごろのものもあった。キイチゴの存在を思い出して、わたしとミイ姉ちゃんは空腹を満たすため、団地の裏口のほうへと急いでいた。
角を曲がれば、もうすぐに駐輪場が見えてくるというちょうどその時、目の前に赤黒いものが遊歩道脇に落ちていた。
わたしの足が止まった。ミイ姉ちゃんも、わたしの視線の先を見て何があるか把握したようで、足を止めてくれた。
本当に、はじめは全くなにかわからなかった。
その次に思ったのは、人を驚かすためのふざけたおもちゃ、ぬいぐるみだろうか、という疑問だ。趣味の悪い本物そっくりの、血塗りのひな鳥のぬいぐるみのように見えた。
「さっきの子だね」
ミイ姉ちゃんの一言で、自分の考えが違うことを知る。
ミイ姉ちゃんは潰れたサンコウチョウのひな鳥をじっと見つめていたが、そのうちそっと近寄った。それから、間近にしゃがみこんで、まじまじとサンコウチョウのひな鳥を観察した。
「死んじゃってる。たぶん、巣から落ちたあとに、カラスに食べられちゃったんだと思う。だからぐちゃぐちゃなんだよ」
「カラスに……」
わたしが助けなかったから。でも、ミイ姉ちゃんは助けようがないって言ってた。でも、さっきまであんなに元気に鳴いていた子が、カラスの硬いくちばしで突かれて、皮膚が破けて、食べられて。わたしは……。
どうすることもできないまま、カラスに食い散らかされたサンコウチョウのひな鳥を見つめる。
あんなに愛らしかった生き物は、今目の前で、心底気持ちの悪いものに成り果てていた。
気持ち悪い。触りたくない。そんなふうに直感で思ってしまった自分にも、ショックだった。
「なっちゃん、見なくてもいいよ」
ミイ姉ちゃんはぽつりとつぶやくと、その後なんのためらいも見せずに両手でひな鳥だったものをすくい上げた。
驚きのあまり固まっていると、ミイ姉ちゃんはキョロキョロあたりを見渡して、それから決心した顔でキイチゴの低木の方へ歩いていった。
ミイ姉ちゃんはキイチゴの低木の根本に、そっとひな鳥だったものを置いた。それから、両手でガシガシと土を掘り始めた。一心不乱に土をほって、小さな穴をつくった。キイチゴの下にぽっかりと空いた穴ができると、近くにあった塀にツルを巻き付けていた大きな葉っぱをむしり取った。その葉を、今ほった穴の中にいれる。それからミイ姉ちゃんは土で汚れた手をなるべく綺麗にはらってから、両手でひな鳥だったものをすくいあげ、優しく穴の中の葉っぱの上に置く。
このくらいになって、ようやっとわたしの体が動いた。
ミイ姉ちゃんのそばにそっと近づく。穴の中には、ぐちゃぐちゃにつぶれ、血も内蔵も飛び出ているひな鳥だったものがある。
ミイ姉ちゃんはまたキョロキョロあたりを見渡して、それから美味しそうなキイチゴを見つけては、穴の中に入れた。
わたしもミイ姉ちゃんのあとに続いて、ちょうど食べごろのキイチゴを見つけては、穴の中にそっといれる。だんだんと、ひな鳥だったものは真っ赤なキイチゴに隠れていく。
「本当はお花もいれたいんだけど、ないねえ」
ミイ姉ちゃんがぽつりとつぶやく。わたしもあたりを見渡してみたが、雑草とキイチゴくらいしか植物がない。
穴の中にみっちりキイチゴがつまると、ミイ姉ちゃんはもう一度大きなツル草の葉っぱを上にかぶせた。それからその上にそっと土をかぶせていき、穴を埋めた。
ミイ姉ちゃんは両手をぱんぱん、と払うと、すくっと立ち上がった。わたしもミイ姉ちゃんと糸でつながっていたかのように、つられて立ち上がった。
「手、洗いに行っても良い?」
「あ、うん」
ミイ姉ちゃんは平気な顔をして、公園の方に歩いていった。公園に到着すると、水道へ向かって一直線に進んでいく。わたしは小走りになってミイ姉ちゃんを追い抜き、それから蛇口をひねってあげた。水が勢いよく流れ落ちる。
ミイ姉ちゃんの手についた土やら血やらが透明な水で流されていく。あっという間にいつもの色白のミイ姉ちゃんの手のひらが現れた。ミイ姉ちゃんは最後まで爪の隙間に埋まった土や赤黒い血を気にしていたが、やがて諦めて水を止め、両手をぱっぱっと振った。冷たい水しぶきが少しだけ飛んできた。
「おしまい」
ミイ姉ちゃんがつぶやいて、ふうと息を吐いた。それから、わたしをじっと見つめた。
「ご、ごめんね……とちゅうからしか、おてつだいできなくて……」
ミイ姉ちゃんの無言の視線が怖かった。
ミイ姉ちゃんの視線の中には、呆れと軽蔑があるような気がしたのだ。わたしは、ひな鳥の死体を前にして、まったく動けなかったから。ミイ姉ちゃんに見込み違いの人間だと思われてしまったように感じた。
わたしが謝ると、ミイ姉ちゃんは驚いたように目を見開いた。
「なんで。なっちゃんが謝ることなんて全然ないよ」
それから、少し黙って、またしばらくミイ姉ちゃんはうかがうようにわたしを見つめていたが、やがてポツリと、ありがとう、とつぶやいた。
その日、ミイ姉ちゃんとわたしはいつもより早くその日の遊びを終わりにした。
なんだか二人ともひどく疲れていたし、結局キイチゴを食べなかったから、お腹がすっかり空いてしまったのだ。
別れ際、ふたりとも黙ったままぼんやりと地面を見つめていた。ミイ姉ちゃんとわたしは二人とも沈黙に耳を傾けながら、乾いた土を見つめていた。キイチゴの下に埋まるひな鳥に思いを馳せていた。
「大丈夫、あの子は頑張っていたから、かわいそうじゃないよ」
ミイ姉ちゃんが小さく、でも、力強い声で囁いた。
「一緒に見たよね、頑張っていたの」
ひな鳥が連日、餌を頑張って食べて、いつか一人で飛ぶために頑張って翼を羽ばたかせる練習をしていたこと、確かにわたしは見ていた。
ミイ姉ちゃんと一緒に、目を輝かせながら成長を見守っていた。
「あの子は頑張ってた。誰も悪くないよ」
わたしも、なっちゃんも、カラスも、巣にいた他のひな鳥も。
ミイ姉ちゃんが力強くささやく声を聞いて、やっとわたしもうなずくことができた。
「また、わたしといっしょに、すにのこってる、ほかのひなどりをみにいってくれる?」
ミイ姉ちゃんは、わたしの質問にもちろんと力強く頷いてくれた。
「キイチゴもたべにいってくれる?」
「行く行く。一緒にキイチゴ食べに行こう」
「じょうろも、もってくから」
「じょうろ?」
わたしはミイ姉ちゃんの言葉にうん、とうなずいた。
「おうちにね、じょうろがあるの。じょうろでキイチゴに、おみずをいっしょにあげたいんだけど……」
ミイ姉ちゃんの目が大きく見開いた。頬が紅潮し、嬉しそうに体全体を赤く光らせながら、満面の笑みを浮かべた。
「いいね。そうしよ。毎日お水あげよう。絶対そうしよ」
それから、ミイ姉ちゃんは小指を差し出した。
「約束ね」
ミイ姉ちゃんの細い小指と、わたしは自分の小指を絡めた。ミイ姉ちゃんの小指はあたたかく、しっとりとした柔らかさを持っていた。
できるだけ早く宿題を片付けて、できるだけ早くミイ姉ちゃんの待つ公園に行く。
毎日毎日、夏の間中、そうしていた。
一人だったときは、家の中で、重くのしかかってくるなつやすみの流れに身を委ねるしかできなかったが、ミイ姉ちゃんがそばにいれば、話は違った。
ミイ姉ちゃんはわたしと違い、「なつやすみ」の流れの中を自由自在に泳ぐことができる子どもだった。
そしてわたしも、ミイ姉ちゃんの後を追うことで、初めて、なつやすみを堪能することができるようになったのだ。
ミイ姉ちゃんはいつもジーンズのショートパンツに、白いタンクトップかTシャツを着ていた。そしてつややかでふっさりとした黒髪を、アケビのツル枝のように自由奔放にうねらせていた。
一緒に行動するようになって改めてわかったのだが、なつやすみを大胆不敵に泳ぎ回れるミイ姉ちゃんは、わたしが最初で最後に出会った、色んな色をもった子どもだった。
例えるなら、太陽だ。太陽みたいに輝いている、という意味ではなく、ミイ姉ちゃんは太陽のように気温、時間、空気、その他もろもろの外影響で色が変わる女の子だった。
たとえば、朝焼けや夕焼けのように、ミイ姉ちゃんが真っ赤なとき。
それは、ミイ姉ちゃんが何かに熱中しているときだった。どんどん、どんどん赤くなって、ミイ姉ちゃんの全身が赤い光で輝くのだ。
ミイ姉ちゃんが赤く染まっている中で一番記憶に残っているときがある。それが、団地の裏の林で、サンコウチョウの巣を見つけたときだ。
団地の裏の林の奥に優雅に尾をなびかせる親鳥と、赤茶の手鞠のようにふわふわとした三羽の小さいひな鳥がいた。
ミイ姉ちゃんは団地の塀によじ登って、何時間でも巣が良く見える場所に陣取っていた。
わたしは体がまだ小さかったから、自力で塀によじ登るのは大変だった。うんしょんしょと顔を真 っ赤にしながらがんばるわたしを、ミイ姉ちゃんはいつも手伝ってくれた。おかげで、毎回なんとか塀のてっぺんまでよじ登ることができた。
「なっちゃん見える?」
小さな声まで真っ赤にしながら、ミイ姉ちゃんがささやく。
「うん、みえるよ、かわいいね」
「ねえ、可愛いねえ……すごいねえ、みんな、すっごく可愛くて、頑張ってるね」
「そうだねえ……」
頑張っている、という言い方がまさにぴったりで、わたしは目の前のサンコウチョウの姿をしばらく無言で堪能していた。
頑張っている…。
頑張るって、すごく簡単で、すごく難しいことだ。
「ミイ姉ちゃんは、なにかがんばってることってある?」
サンコウチョウを見ながら、何気なしに、ミイ姉ちゃんに聞いてみた。すると、ミイ姉ちゃんは、ふふっと笑った。
「あるよ。なっちゃんはあるの?」
「え? わたしぃ……?」
がんばっていること、がんばっていること……。
サンコウチョウの姿を見ていたら、宿題を毎日やっていることも、ラジオ体操に毎朝行っていることも、頑張っていることではないような気がしてきた。
頑張ること。
しばらく考えた結果、わたしはミイ姉ちゃんにこう答えていた。
「ミイ姉ちゃんとあそぶのに、がんばってるよ」
それまでサンコウチョウを見つめていたミイ姉ちゃんのかしばみ色の大きな瞳が、ぱっとわたしを見た。
「ほんとに?! うれしい!」
それから、ミイ姉ちゃんは「わたしがね」と言葉をつなげた。
「わたしがね、頑張っていることはね」
「うん、なに?」
「んー…たくさんあってね……なっちゃんと遊ぶことも頑張ってるし、あとは、実は毎日お祈りを頑張ってる」
「おいのりぃ?」
変な声がでて、それを聞いたミイ姉ちゃんがふふふっと心底楽しそうに笑った。
「夏休みが終わっても、楽しい日々が続きますようにってお祈りしてるんだ」
おいのり。お祈り。
わたしも、と声がでた。
「わたしも、ミイ姉ちゃんがたのしいって、ずっとおもえるように、おいのりするね」
「なっちゃんは優しいなあ。じゃあ、今度一緒にお祈りしようね」
ぽんぽん、とミイ姉ちゃんの白く細い手がわたしの頭をなでた。柔らかいミイ姉ちゃんの指先や手のひらを感じ、わたしはほっこり温かくなった。
すぐ近くで少女二人がそんな会話をしているとはつゆしらず、サンコウチョウのひな鳥は相変わらず元気いっぱいに、バタバタと羽を動かしていた。三羽のサンコウチョウは親鳥の美しさとは全く違った愛らしさを見せている。
三羽が懸命に小さな巣の中で動く姿は、もふもふとした茶色の鞠がはねているようだった。
と、次の瞬間、目を覆いたくなるような出来事が起きた。
目の前で、巣の中から一羽のひなが転げ落ちたのだ。
「あっ」
裏山の雑木林の中にわたしの声が響いた。ミイ姉ちゃんを見ると、目を見開いてひなが落ちた場所を見つめている。
わたしとミイ姉ちゃんはしばらく、ひな鳥が落ちた付近の地面を見下ろしていた。わたしとミイ姉ちゃんは今、塀に登っているから、巣と同じ高さにいる。つまり、かなり高い場所にいるのだ。加えて、団地は少し丘の上にある。
塀を超えた先を見下ろすと、かなり下の方に地面があることが容易にわかった。塀から飛び降りて無事に着地できる高さでは到底ない。
わたしもミイ姉ちゃんもしばらく無言だった。
ミイ姉ちゃんはどうするのだろう……。
ミイ姉ちゃんの次の動きに従うつもりだったわたしは、ミイ姉ちゃんが何事もなかったようにあっさり視線を巣のほうに戻したので、面食らった。
「仕方ないんだよ。なっちゃん」
いつまでもいつまでも、ミイ姉ちゃんの顔を見たり、塀の下を覗き込んでひなの無事を確認しようとしたりしていたわたしに、しびれを切らしたようにミイ姉ちゃんが声をかけた。
「あの子は弱かったから落ちちゃったんだよ。わたしだって助けてあげたいけど……この高さじゃ絶対に地面に降りられない」
「でも、ロープとか、つかったら」
「降りられたとしても、ロープ掴んでひなを抱えて塀を登るのなんてできないよ。なんとか登れたとしても、塀からあの巣にひなをもどしてあげるのは、手がとどかない」
わたしは今いる場所から巣があるところをじっと見つめた。自転車一台分くらいはゆうに離れている。
わたしは黙ってミイ姉ちゃんの言葉を反芻していた。
そのあと、わたしもミイ姉ちゃんも小腹が空いたので、団地の裏口の方へ移動することにした。
実はこのあいだ、裏口近くにある駐輪場付近にキイチゴの低木があるのを見つけたのだ。ざっと見た感じ、だいたいがもう完熟を過ぎてしまっていたが、中にはちょうど食べごろのものもあった。キイチゴの存在を思い出して、わたしとミイ姉ちゃんは空腹を満たすため、団地の裏口のほうへと急いでいた。
角を曲がれば、もうすぐに駐輪場が見えてくるというちょうどその時、目の前に赤黒いものが遊歩道脇に落ちていた。
わたしの足が止まった。ミイ姉ちゃんも、わたしの視線の先を見て何があるか把握したようで、足を止めてくれた。
本当に、はじめは全くなにかわからなかった。
その次に思ったのは、人を驚かすためのふざけたおもちゃ、ぬいぐるみだろうか、という疑問だ。趣味の悪い本物そっくりの、血塗りのひな鳥のぬいぐるみのように見えた。
「さっきの子だね」
ミイ姉ちゃんの一言で、自分の考えが違うことを知る。
ミイ姉ちゃんは潰れたサンコウチョウのひな鳥をじっと見つめていたが、そのうちそっと近寄った。それから、間近にしゃがみこんで、まじまじとサンコウチョウのひな鳥を観察した。
「死んじゃってる。たぶん、巣から落ちたあとに、カラスに食べられちゃったんだと思う。だからぐちゃぐちゃなんだよ」
「カラスに……」
わたしが助けなかったから。でも、ミイ姉ちゃんは助けようがないって言ってた。でも、さっきまであんなに元気に鳴いていた子が、カラスの硬いくちばしで突かれて、皮膚が破けて、食べられて。わたしは……。
どうすることもできないまま、カラスに食い散らかされたサンコウチョウのひな鳥を見つめる。
あんなに愛らしかった生き物は、今目の前で、心底気持ちの悪いものに成り果てていた。
気持ち悪い。触りたくない。そんなふうに直感で思ってしまった自分にも、ショックだった。
「なっちゃん、見なくてもいいよ」
ミイ姉ちゃんはぽつりとつぶやくと、その後なんのためらいも見せずに両手でひな鳥だったものをすくい上げた。
驚きのあまり固まっていると、ミイ姉ちゃんはキョロキョロあたりを見渡して、それから決心した顔でキイチゴの低木の方へ歩いていった。
ミイ姉ちゃんはキイチゴの低木の根本に、そっとひな鳥だったものを置いた。それから、両手でガシガシと土を掘り始めた。一心不乱に土をほって、小さな穴をつくった。キイチゴの下にぽっかりと空いた穴ができると、近くにあった塀にツルを巻き付けていた大きな葉っぱをむしり取った。その葉を、今ほった穴の中にいれる。それからミイ姉ちゃんは土で汚れた手をなるべく綺麗にはらってから、両手でひな鳥だったものをすくいあげ、優しく穴の中の葉っぱの上に置く。
このくらいになって、ようやっとわたしの体が動いた。
ミイ姉ちゃんのそばにそっと近づく。穴の中には、ぐちゃぐちゃにつぶれ、血も内蔵も飛び出ているひな鳥だったものがある。
ミイ姉ちゃんはまたキョロキョロあたりを見渡して、それから美味しそうなキイチゴを見つけては、穴の中に入れた。
わたしもミイ姉ちゃんのあとに続いて、ちょうど食べごろのキイチゴを見つけては、穴の中にそっといれる。だんだんと、ひな鳥だったものは真っ赤なキイチゴに隠れていく。
「本当はお花もいれたいんだけど、ないねえ」
ミイ姉ちゃんがぽつりとつぶやく。わたしもあたりを見渡してみたが、雑草とキイチゴくらいしか植物がない。
穴の中にみっちりキイチゴがつまると、ミイ姉ちゃんはもう一度大きなツル草の葉っぱを上にかぶせた。それからその上にそっと土をかぶせていき、穴を埋めた。
ミイ姉ちゃんは両手をぱんぱん、と払うと、すくっと立ち上がった。わたしもミイ姉ちゃんと糸でつながっていたかのように、つられて立ち上がった。
「手、洗いに行っても良い?」
「あ、うん」
ミイ姉ちゃんは平気な顔をして、公園の方に歩いていった。公園に到着すると、水道へ向かって一直線に進んでいく。わたしは小走りになってミイ姉ちゃんを追い抜き、それから蛇口をひねってあげた。水が勢いよく流れ落ちる。
ミイ姉ちゃんの手についた土やら血やらが透明な水で流されていく。あっという間にいつもの色白のミイ姉ちゃんの手のひらが現れた。ミイ姉ちゃんは最後まで爪の隙間に埋まった土や赤黒い血を気にしていたが、やがて諦めて水を止め、両手をぱっぱっと振った。冷たい水しぶきが少しだけ飛んできた。
「おしまい」
ミイ姉ちゃんがつぶやいて、ふうと息を吐いた。それから、わたしをじっと見つめた。
「ご、ごめんね……とちゅうからしか、おてつだいできなくて……」
ミイ姉ちゃんの無言の視線が怖かった。
ミイ姉ちゃんの視線の中には、呆れと軽蔑があるような気がしたのだ。わたしは、ひな鳥の死体を前にして、まったく動けなかったから。ミイ姉ちゃんに見込み違いの人間だと思われてしまったように感じた。
わたしが謝ると、ミイ姉ちゃんは驚いたように目を見開いた。
「なんで。なっちゃんが謝ることなんて全然ないよ」
それから、少し黙って、またしばらくミイ姉ちゃんはうかがうようにわたしを見つめていたが、やがてポツリと、ありがとう、とつぶやいた。
その日、ミイ姉ちゃんとわたしはいつもより早くその日の遊びを終わりにした。
なんだか二人ともひどく疲れていたし、結局キイチゴを食べなかったから、お腹がすっかり空いてしまったのだ。
別れ際、ふたりとも黙ったままぼんやりと地面を見つめていた。ミイ姉ちゃんとわたしは二人とも沈黙に耳を傾けながら、乾いた土を見つめていた。キイチゴの下に埋まるひな鳥に思いを馳せていた。
「大丈夫、あの子は頑張っていたから、かわいそうじゃないよ」
ミイ姉ちゃんが小さく、でも、力強い声で囁いた。
「一緒に見たよね、頑張っていたの」
ひな鳥が連日、餌を頑張って食べて、いつか一人で飛ぶために頑張って翼を羽ばたかせる練習をしていたこと、確かにわたしは見ていた。
ミイ姉ちゃんと一緒に、目を輝かせながら成長を見守っていた。
「あの子は頑張ってた。誰も悪くないよ」
わたしも、なっちゃんも、カラスも、巣にいた他のひな鳥も。
ミイ姉ちゃんが力強くささやく声を聞いて、やっとわたしもうなずくことができた。
「また、わたしといっしょに、すにのこってる、ほかのひなどりをみにいってくれる?」
ミイ姉ちゃんは、わたしの質問にもちろんと力強く頷いてくれた。
「キイチゴもたべにいってくれる?」
「行く行く。一緒にキイチゴ食べに行こう」
「じょうろも、もってくから」
「じょうろ?」
わたしはミイ姉ちゃんの言葉にうん、とうなずいた。
「おうちにね、じょうろがあるの。じょうろでキイチゴに、おみずをいっしょにあげたいんだけど……」
ミイ姉ちゃんの目が大きく見開いた。頬が紅潮し、嬉しそうに体全体を赤く光らせながら、満面の笑みを浮かべた。
「いいね。そうしよ。毎日お水あげよう。絶対そうしよ」
それから、ミイ姉ちゃんは小指を差し出した。
「約束ね」
ミイ姉ちゃんの細い小指と、わたしは自分の小指を絡めた。ミイ姉ちゃんの小指はあたたかく、しっとりとした柔らかさを持っていた。