第54話 卓球部顧問の茉莉先生

文字数 1,609文字

 洋一が脇田茉莉先生と初めて出逢ったのは高校二年に進級した新学期だった。先生はその年の春に大学の国文科を卒業して赴任して来た二十二歳の新米教師だった。彼女は薄暮の庭に佇む女神像と言った愛らしい顔立ちだった。背筋がピンと伸び、足早に歩く、溌溂とした若さ溢れる美人だった。
 教室では厳格であったが、生徒たちにはとても親しくて人気があった。時折、幸せそうな表情を浮かべ、生徒たちも先生の幸せを諸に感じた。
茉莉先生は手を後ろで組み、心に浮かんだ話題を早口で喋った。
或る時、既に亡くなった作家の人生に関して奇妙なエピソードを創り上げ、作家と同じ家に住んでその私生活の秘密を全て知っている人間が語るような調子で話した。生徒たちは何処と無く混乱して、作家が直ぐ身近の街に住んで居たのだろうと思った。
また或る時は、波乱の人生を送った彫刻家を愛すべき男に仕上げ、生徒たちは笑いに笑った。彼女はこの昔の芸術家を、自慢屋で騒々しく、勇敢な男としてでっち上げた。そして、有名な音楽家が、東京で、この彫刻家のマンションの上階に住んで居たという話は生徒たちの関心を大いに集めた。
 卓球部の顧問になった茉莉先生は練習には毎日顔を出した。長い髪を首の後ろで束ね、白いジャージーのウエアにライトブルーのトレーニングパンツ、足元のシューズは真っ白だった。
最初の三十分程は女子の練習をじっと眺め、時たま選手を呼び寄せてフォームの注意をしたりアドバイスを与えたりした。
それから男子の練習を視察に回って、強打のスマッシュやそれを上手く拾い上げた好プレイに拍手を送ったり、「ナイスプレイ!」と声を掛けたりした。
一時間ほど練習を眺めた後、良し、というような仕草をして出入口へ向かい、一礼をして体育館を出て行った。生徒たちは男の子も女の子も茉莉先生がやって来ると心が浮き立ったし、帰って行くと少し気落ちして一息入れる状態になった。
 夏休みの夏季練習が始まって間も無くのことだった。部員との練習試合を終えた洋一を茉莉先生が手招きした。
「藤木君、君のフォアハンドには凄く良いものがあるわね。身体の際に来た球を廻り込んでフォアで打つのも上手い。でもねぇ、その分フォアサイドが大きく空いて、其処を攻められると忽ち取り切れない。今はフットワークの良さで何とかカバーしているけれども、それは大きな弱点になっている。バックハンドを練習しなさい。ショートだけを徹底的に練習しなさい、良いわね」
「はい、解りました、先生」
洋一は眼を輝かせて頷いた。
チームはそれまでも県下の大会で常にベスト五位に名を連ねる強豪だったが、急成長した洋一がレギュラーに加わったことで更にその力強さがアップした。そして、遂に、全国高校卓球選手権の県大会で優勝を果たし、初めての全日本大会への出場が決まった。みんなが歓喜に小躍りしている中で、洋一は独り、体育館の隅の椅子に腰かけてしゃくり上げるように泣いていた。
茉莉先生が彼に近づいて肩に優しく手を添えた。不意に立ち上がった洋一が先生にしがみ付いた。一七八センチの男子生徒に覆い被さるように抱きつかれた茉莉先生は支え切れなくて、二人は重なるように床に倒れた。洋一は、若さ溢れる二十二歳の女先生の、豊かな胸の谷間に顔を埋めて、辺り憚らずにおんおん泣いた。
大きく眼を見開いて驚愕し、狼狽した茉莉先生だったが、部員達が駆け寄った時には、洋一の背中に両腕を廻して優しく撫でてやっていた。
それから数週間と言うもの、部員達は洋一を揶揄い続けた。
「茉莉先生の胸は大きく柔らかくて、弾力があって、気持良かったのか?」
「良い目をしやがってこの野郎!」
女生徒までが洋一を揶揄した。
「茉莉先生の胸は私たちのよりもずっと大きいでしょう。はち切れそうでぷりんぷりんだったの?」
洋一は顔を真っ赤にして、体育館の中を逃げ回った。
「知らねえよ」
「ハッハッハッハ」
「解らねえよ」
「ふっふっふっふ」
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