遊びの終わり

文字数 16,773文字

 いつも通り、おれたちは待ち合わせ場所を決めて一旦別れた。
 サチとカナエとユキ、シンイチとジロウとおれの三人ずつだ。
 曇った天気だった。ジロウはボールをぽんぽん蹴りながら歩き、シンイチはゲームを操作しながら、おれはそれを横から覗きながら歩いた。
 腰におもいっきり衝撃を受けて、吹っ飛ばされた。
 ずざざっ、とアスファルトの上をおれは転がった。
 自転車に轢かれたのだ。
「隙だらけだな」
 とジロウが笑う。
「……気づいてたなら、いえよな、おまえ」
 おれは起き上がりながら恨みがましくいった。痛みはすぐに消えてしまった。
 シンイチは気にせずゲームをやっていた。
 乗っていた男も横倒しになったが、倒れた自転車をほったらかしにしてそそくさと去っていった。
 轢かれることも多いけど、自転車はおれたちもよく使う。轢くことも多い。
 車を運転しようと試してみたこともあったが、四方八方からメチャクチャに衝突されてしまうので、あまり挑戦しなくなった。
 認識されない身としては自転車の方がまだ使い勝手がいいようだった。
 しかしあんなにもろにぶつかられるとは……。
 意識しているわけではないけど、夜と比べると格段に注意力が落ちているようだった。昼間の危険には限度があるので、そうなってしまうのだろう。
 カラオケボックスにおれたちは入った。
歌っている若い男女を横眼にマイクで格闘する。
「なんだ、それ?」
「フェンシングの構え」
 シンイチは右手でマイクを前に伸ばし、左手を後ろに上げていた。
 すこんっ、とあっさりとジロウがマイクでシンイチの頭を叩いた。
「面ありっ!」
 とおれはいった。
「剣道だったのかよ、これ」
 ジロウが首をかしげる。
「いや、いってみただけ」
「頭狙わなくてもいいじゃん」
 とシンイチがうなった。おれはシンイチからマイクを受け取った。
 女がマイクのないまま歌を歌っていた。
 ごんっ、ごんっ、とジロウを相手に剣尖を交わし、おれが横から払おうとしたところで、すこんっ、と頭を叩かれた。
「二人抜き」
 と得意げにジロウはいった。
 何度か勝負してからやめて、ぼんやりと歌を聴いた。
 画面に表示される歌詞をシンイチが読み上げているので、おれも歌詞を読んでみた。歌声とおれたちの朗読が混ざって、わけがわからない感じになってしまっていた。ジロウはテーブルに置いてあるお菓子を歌っている人の口に投げ入れだした。
 カラオケボックスから出ると、黒々とした雲はさらに増えていた。
「来るかな、これ」
 とおれはいった。
「来そうだね」
 とシンイチは答えた。

 あたしたちはあてもなくうろついていた。
 橋を渡っていると、欄干にカラスがとまった。
「悪賢そうよねー、この子らって」
 ちょんちょんと指でつついて、あたしはじーっと見たりする。眼玉をついばんで食べたりする残酷なイメージもあるけれど、なんだかカラスは嫌いになれない。
 ユキがノートになにかを書きはじめた。
「なんか見かけからぬけぬけとしてる感じ」
「胡桃を道路に置いて車に割らせるなんて行動は、やっぱりおどろきよね。まわりを利用する術に長けているのかしら」
 カナエの敬服するような口ぶりがおもしろかった。
「ははっ、たくましいわね。ていうかふてぶてしい。どう思ってんのかしら、人間のこととか」
「なんとも思ってないんじゃない」
「うーん、ふてぶてしい。小憎らしい」
 ユキがノートをこちらに見せた。文字を書いてるのかと思ったら、カラスの絵を描いていたようだった。
「熊も描いてたし、カラスも描いて、どんどんにぎやかになるわね」
 生きた歩行者が近くに来るとカラスは羽を開いて飛び立った。
「いっちゃった」
 とあたしがいうと、ユキはカラスに向かって手を振った。
 あたしたちはまた歩き出した。
 ユキが空を指さして、なにかを訴えた。
 見ると空模様があやしくなってきている。
「うん。来るかもね」
 とあたしはいった。

 おれたち三人は待ち合わせ場所の映画館に早めに向かった。
 するとあとの三人ももう着いていた。
「また早々に集まったね」
 とサチが笑った。
 おれたちは映画館に入った。
 やっているアクション映画はあまりおもしろいものではなかったけれど、銃撃戦で盛り上がってきたので、おれたちもポップコーンを投げ合って戦端を開いた。
 まわりの人々は暗がりにすわって黙然と殺し合いを眺めている。
 おれとシンイチはさっきの挽回というわけでもないけど、共同でジロウを追いかけまわしてポップコーンの砲撃を浴びせていた。
 スクリーンのすぐ前でカナエとサチがユキのそばにすわって何かしていた。
 おれとシンイチもそこに集まる。
「なにしてるの?」
 とシンイチが訊いた。
 しーっ、とサチが口に指を当てて制した。
 ノートを床に広げてユキは寝そべっていた。カナエが文字を書いたあと、ユキに油性ペンを手渡した。ユキが文字を書き、サチに手渡す。
 どうも筆談だけの会話というのをしているらしい。
 なにもこんな暗いところでしなくても、と考えたが、まあ、スクリーンの明かりで文字を読みとることはできた。
 おれとシンイチも参加し、まだポップコーンを座席の人たちに投げていたジロウもこっちに来て、六人でノートを囲んだ。順番なんかもばらばらに、ただ何か言葉を書いていった。
(銃ってうるさいわね)
(そういう道具だろ)
(どういうドウグだよ)
(ばんばん、どんどん、て道具ね)
(ばんばん どんどん だんだん がががが)
(またなにかいうのかと思った)
(僕もそう思った)
(なにかって)
(理屈とか)
(いいじゃねーか別に)
(悪いなんていってないわよ)
(あまり考えごととかしないからね)
(それはさすがにウソじゃないか?)
(ウソってなにが)
(ウソがどういう意味かってこと?)
(ちがう)
(静かなシーンになったぞ)
(なんだつまらない)
(ほんとね)
(さっきうるさいっていってたじゃねーか)
(平和なシーンね)
(会話してるな)
(撃ってるときも話してたわ)
(ツワモノだなそりゃ)
(ツワモノ)
(真似じゃないこと書いていいんだぞ)
(そういえば漢字あまりわからないのかな)
(あ、そうなの?)
(読める)
(読めるってよ)
(僕 ボク ぼく)
(なんだそれ)
(フリガナふろうか)
(そうね)
(もうアクションシーンないのか)
(少しは待ちなさいよ)
(外でるか)
(もうちょっと見ない?)
(そうしようぜ)
(どっちの意味)
(もうちょっと見るって意味だよ)
(みようよ)
(ほら こういってるし)
(そうだね)
(そうだな)
(そうしよう)
(そうね)
 みんなで書き、読んで、ページをめくった。いつも通りの大した内容もない会話だ。読み返しても誰がどの文を書いたのかわからなくなるようなその筆談は、映画が終わるまで続いた。

 六人の幽霊が映画館から出ると、外ではもう雨が降り出していた。
「雨だ!」
「雨!」
 と幽霊たちは口々に歓喜の声を上げた。
 雨は幽霊たちの心を躍らせた。それは激しい遊びへの誘いであり、合図なのだ。
 まだ消滅の恐怖を知らなかった頃にその習慣は出来上がった。
 日照りが続いたとき、生者は祈雨の儀式を行う。
 雨を求める必要は死者にはないが、降りそそぐ水には底知れない喜びを感じさせるものがあり、彼らは動きまわらずにはいられなかった。死者には死者なりの儀式がある。
 それは寄る辺ない幽霊たちの、ささやかな祭りだった。

 ジロウが水たまりにスライディングした。しぶきが飛び散り、かわすようにシンイチが宙に飛び、そのまま通行人にぶつかった。
 おれは倒れた通行人の靴を脱がして、片方をジロウに、もう片方をシンイチに投げた。
 シンイチが珍しく機敏にかわし、ジロウはキャッチして、投げ返してきた。
 おれは拳ではねのけたが、サチが開いた傘を二本、両手でブンブン回転させながら突っこんできて、おれたちはなぎ払われた。
 ノートや文庫本を鞄に入れてカナエとユキも参加した。
 カナエはサチから傘を一本受け取り、ふたりして突撃してきた。
 おれたちはそれを手で受け、押し返す。鍔迫り合いだ。
 ユキは傘の持ち手側にいたのだが、おれたちの方がおもしろそうに見えたらしく、一緒に押し返しだした。
 ぐぐぐっ、と膠着したままふんばったが、均衡は破れてカナエとサチのふたりが倒れ、勢いあまっておれたちも倒れた。
 全員が水たまりをばしゃばしゃと転げまわった。
 おれとジロウとサチは底が抜けたように笑い、ユキもニカニカした。
 シンイチは「メガネ、メガネ」と探しまわっていて、カナエが拾ってあげた。
 雨降りのときのおれたちは、狂躁的に、破壊的に、嵐のように遊んだ。
 なぜそうなのかはわからない。自然に湧き上がる衝動がそうさせた。果てしなく続くような単調な日々に、刺激を与えて活性化させているのか。
 理由を探しはじめるとどんなことにも理由がないような気がしてくるのと同じで、この行動の理由もよくはわからなかった。
 例によって鬼ごっこをすることになった。
 ジャンケンをして、鬼を決める。
 グー、チョキ、パーの三つの選択肢があるのに、なぜかジロウはチョキばかり出して、あっさり負けた。
 激しい雨の中で鬼から逃げまわる。
 ジロウはタッチというよりもタックルをしかけてきた。鬼になったおれは、おざなりに数を数え終わると、追いかけて走り出した。
カナエもこのときとばかりするする器用に逃げまわった。
 鬼ごっこをしながら、あてもなくおれたち六人は移動していく。もう映画館からは離れてしまっていた。
 ユキが鬼になると、みんなでまわりをくるくるまわって挑発し、頃合いを見てタッチされた。
 通りすがりの年配の集団を盾にしていたサチにおれはタッチして、一目散に逃げた。
 ジロウは性懲りもなく、バス停のそばにある街路樹に登っていた。高鬼じゃなくて普通の鬼ごっこなんだから、もちろんすぐにとっつかまった。
 おれも高いところに乗りたくなり、ゴミ箱に飛び乗った。
 木の上で数を数えて、ジロウは飛び降りた。
 おれはゴミ箱からガードレールに飛び移ろうとしたが、すべって失敗してしまい、また腰を強打した。
「んな所に乗ろうとすんなよ!」
 と笑ってるジロウにつかまった。
 ユキとカナエもガードレールの上に立とうと試みていた。
 少しのあいだ鬼ごっこを中断し、ガードレールで遊んで、また再開して、おれは追いかけた。
 通りすぎていく人々はさまざまだ。
 鞄を頭の上にかざしながら走っていく男。濡れながら家に帰っていく女子高生。傘をさしながら自転車に乗ってるおばさん。
 雨なんかで浮かれているのはおれたちだけだ。
 そう思っていたら、傘をさした子どもの集団が騒ぐように歩いていたので、傘をすべて奪って振りまわして、ブン投げた。
 住宅街のなかにある猫の額ほどの公園にさしかかり、すべり台をかけのぼったりブランコに飛び乗ったかと思うと、すぐに通りすぎてしまった。
 その間にも鬼は代わっていく。
 意味もなくインターホンを連打して、雑草が生えほうだいの家の庭に入り、植木鉢を蹴倒しながらかけまわった。
 鬼のシンイチから逃げている最中、急にカナエが珍しく声を立てて笑った。
 サチがカナエに「どうしたの?」と訊いた。
「うん、私にもわからないんだけど……いままでに見たことのない人を見たの」
「えっ! 幽霊?」
「あっ、違う、そうじゃないの。そうじゃなくて──いや、やっぱりただの勘違いかもしれないわ」
「うーん、気になるなー」
「気にしないで。でも、嬉しかった」
「だから、そのいい方だとよけい気になるってば!」
 ……ちんぷんかんぷんな話をしていた。
濡れた髪って綺麗に見えるな、とか考えながら逃げまわった。
 おれたちの身体は疲れなかった。限界はなかった。雨でどこまでも高揚していくようだった。
 ただし〝襲撃〟には至らないようになっていた。
 家々の垣根を突っ切りながら、めまぐるしく鬼ごっこが続く。
 カナエが鬼になってみんなを追いかけまわしていた。
 逃げていたジロウが細道に出ると、飛び出して来た車にはねられて吹き飛んだ。
 ジロウはひっそりとした小さなラーメン屋の扉を、がしゃがしゃーん、と派手な音をさせながら突き破って、店内に消えていった。
 華麗に飛んでいったなー、と間の抜けた感想を浮かべていると、サチがけたたましく笑いだした。
 ああ、やっぱり根に持っていたのかな、とちょっと怖くなる。
 ジロウがぱらぱらとガラスの破片を振り払いながらでてきても、まだサチは笑っていた。
 笑われている当人なのだが、それを見てジロウもにやにやしだした。痛かっただろうに、こいつは笑うのだった。
 しかしさすがにちょっと心配してみんなでジロウを囲み、大丈夫かよ、と声をかけた。
 そのときにふと見まわしてみると、ユキがいなかった。

「──ユキ?」
 あたしたちは、最初はそんなにうろたえていなかった。
 どこか物陰にでも隠れているのだろうと思った。その辺の角を曲がればすぐにでも見つかるような気がしていた。
 でも、探してみたが、見当たらない。
 ざあざあと降る雨で視界は悪かった。
「……いつからいないの?」
 あたしは訊いてみたが、みんなはっきりとはわからなかった。
 あんなにメチャクチャをやっていれば、当然かもしれなかった。疲れることはなくても、注意は散漫になる。
 遊んでいたガードーレールの辺りに戻った。ここで遊んでいたときは、まだいたはずだ。
 ──見当たらない。
「……映画館に戻っているんじゃないかしら」
 とカナエがいった。
 はぐれた時は、最後に遊んでいた場所へ。
移動しながらの鬼ごっこなんかはカウントされないから、この場合最後というのは映画館だ。
「二手に分かれた方がよくないか」
 とジロウが提案した。
「……そうね。あたしたちは映画館を見に行くから、三人はここやさっきの通りを探してみて」
 あたしとカナエは雨の降りしきる中、映画館への道を逆戻りした。
 中に入るとそこではまた別の映画を上映している。今度は恋愛映画のようだ。その暗がりにもユキは見当たらない。念のため周囲を探してもみたけれど、やはりいなかった。
 あたしたちは落胆した。
 もうすでに不安は全身を浸していた。
「いない……」
「……さっきの場所に、やっぱりいたのかな」
 もう一度館内を見まわりながら、あたしは後悔でいっぱいだった。
 なぜあたしはユキから眼を離してしまったのだろう。
 ミキオへの不安がとりあえずは晴れたことで、気を抜いてしまったのか。ユキに関してはなにも解決していないといえばいえたのに……いつものように雨ではしゃいで。
 でも、はぐれたことなんて、これまで何度もあったじゃない。
 男連中が勝手に動いたとき。独りになりたくてあたしが隠れたとき。〈歯車〉への試みで三ヶ所に散らばったとき。
 そのたびに必ず再会できた。言葉にできないような不思議な記憶の在り方や、偶然のおかげで。なにかに導かれているようですらあった。それが、こんな状況でも平気で離れていられるような安心を抱かせた。なら今回も……。
 ──一つの例外が思い出される。一人は、もう永遠に帰ってこなくなってしまった。
 ……気がつくと首をさすっている。
 あたしは、なぜ際限なく不安を膨らましてしまうのだろう。
 功志くんのなにかが、ミキオのなにかが伝わらなかったように、あたしのこの思考も他人には伝わらないのだろうな。
 根拠のない希望にすがりながら、あたしたちはとりあえず映画館を出た。
 道行く人に訊くわけにもいかない。当たり前だ。彼らはあたしたちをまったく認識していないのだから、会話すら不可能だ。そもそもユキが見えていない。
 幽霊であるあたしたちのつながりのかぼそさが突然露わになるようだった。
 ……そうだ、あそこは?
「──いた?」
 とシンイチくんがガードレールのそばで訊いた。答えはもうわかっているのだろう。
 あたしは首を振った。
「ミキオくんとジロウくんは?」
「ジロウはさっきのラーメン屋だけど──そう、それで、ミキオが心当たりを探してみるって、いっちゃったんだよ!」
「心当たり?」
 シンイチくんが語ったミキオの心当たりは、あたしもいま思いついた場所だった。
 ユキへの不安は、そこから始まったんだ。
「僕も行こうとしたけど、ユキが戻ってくるかもしれないから、残ってろって……」
 確かにその場合もあるかもしれない。
 ここで待っていた方がいいのだろうか。でも待っていてもユキは戻ってこないような気がした。
 こんな嫌な予感に包まれたまま、あの不安なふたりがいないまま、じっと待つ。そんなの耐えられるだろうか。
「──もう、勝手な──あたしたちにも相談してから、行きなさいよね!」
「……余裕がない、っていってた」
 雨は止みそうだった。空を見る。
 今日は天気が悪く朝から暗いので時刻がわかりにくかったのだが、もう、どうやら、危険な時間が近づいているようだった。
「おい、いたか? ──ミキオは?」
 ジロウも戻ってきた。
 シンイチくんが、今度はジロウに説明している。
 ……もしもあたしたちがいないところで、あのふたりに何かあったら……。
 知らないところで消えてしまい、どれだけ待っても、帰ってこないふたり。──永遠に。
 そんなの想像するだけでも嫌だった。
 どれだけ麻痺しても、そのことだけは悲しいことのはずだった。たとえ、悲しみというのが、もうなんなのかよくわからないものになっていたとしても。
 ──とはいえ功志くんのときを思い出すなら、一晩にふたり消されることはないだろうし、誰かが消えたのなら、おそらく遠くでもわかるはずだった。そんなふうにわかってしまったら、たまらないけれど。
 そうやって、いてもたってもいられない不安にじれているあたしを見かねたのか、
「私たちもいってみない?」
 とカナエがいった。
 せっぱ詰まっていくような状況であっても、カナエの声には少しだけ好奇心も混じっているようだった。

 おれは自転車を全力でこいでいた。いつもは遊びとして楽しむような、生きている人との衝突もいまは焦燥をかき立てた。
 しかし……あのマンションに、ユキはいるだろうか?
 もしかしたら、ユキは雨のなかであの双子の柄梨という子を見かけたのではないか。
 そして、またおかしくなって、ふらふらとついていった──そんな可能性におれは思い至った。
 この前の通学路は通っていないけれど……あるいは学校とは関係なく、別の場所からの帰り道か。
 車に乗っていたのを通り際にちらりと見たなんてこともあり得る。
 それとも双子は関係ないのか?
 不可解な状況に囲まれて不可解な事態が起きていて、可能性はいくらでもあるような気がするし、どれが正しいのかわかりようがなかった。
 自分の行動ももしかしたらとんでもない見当違いなのかもしれない。ただの直感以上の確信はなかった。
 柄梨という子を見たとしてもそれがあのマンションへの帰り道とは限らないんじゃないか。どこかへの往路だったとしたら、無駄骨だ。
 そうだとしたらやはり待っていた方がよかったのだろうか。
 ──いや、だめだ。
 もしもまたユキがあの状態になっているとしたら、〈歯車〉から逃げるだろうか?
 あの子のそばでぼんやりとしたまま、追いつかれてしまう──そんな怖ろしい図が浮かんだ。
 もしもいま向かっている見当が外れていて、ユキを夜になる前につかまえることができなかったら……。
 雨はもう止んでいた。
 狂躁的な馬鹿騒ぎが不安にとってかわったのと歩調を合わせるように、雲は穏やかになっていった。
 そうして、あの灰色のマンションが見えてきた。
「──いた!」
 遠眼だが確かに見えた。マンションの方へ、ベージュ色の鞄を背負ったユキはふらふらと歩いている。
 柄梨という子はいなかった。
 もう九階の部屋に帰ってしまっているのか──とにかくユキが引きよせられているのだから、ここにいるはずだ。
 ユキは以前のおれたちの軌跡をなぞってなのか、表の入口ではなく、非常階段の方に向かっているようだ。
 おれは自転車のスピードを上げようとして──横合いから出てきた自転車と激突した。
 倒れながらおれは、あんなふうに歩いているユキはぶつかられたりしなかったのかと考えた。しなかったような気がした。夕ぐれの世界が悪意を持って導いていくような、そんなとりとめのない妄想に、倒れるほんのわずかのあいだふけった。
 起き上がると、横倒しになった自転車をよそに走りだした。
 もうずいぶん暗かった。さし迫っていた。
 もう遠眼にちらちらとエメラルド色の光が見えてしまっていた。
 おれは非常階段へ辿りついた。
 ユキを追って蛍光灯の点った階段を上り、そして──おれの行く手をふさぐように、見慣れた緑色の死神は現れてしまっていた。夜が、来てしまったのだ。

 ぎ……ぎ……ぎ……
 頭部の歯車がゆっくりと回転していた。例によって片手に刀のようなものを握っている〈歯車〉はおれに背中を向けて歩いていた。こいつは、ユキを狙っているやつだ。
 夜になったとき、おれたちが固まらずに離れていると、それぞれの近くでそれぞれを狙う〈歯車〉が実体化する。
 つまり、おれの背後にも、おれを狙っている〈歯車〉が現れているはずだ。
 〈歯車〉は不気味にしずしずと階段を上っていた。
 おれは為すすべもなく、その背中にぴったりとついていく。あの気持ち悪さがこみあげないぎりぎりの距離を保って。
 もしこいつが突然ふり返ったら──おれはおしまいだな。
 しかしそんなことはしないはずだ。こいつらはターゲットへ……実体化するときに定めたターゲットの方向へだけ追跡する。
 それは最初の数日間、初期の試行錯誤でつかんだ事実だ。
 下方からも、ぎ……ぎ……ぎ……という音がしていた。おれをターゲットに定めた〈歯車〉だ。
 平板で硬質なジグザグの階段の内で、おれは〈歯車〉に挟まれてしまっていた。
 前方の〈歯車〉がゆっくり歩いたままで下のやつが走りだしたら、そのときもおれは終わるわけだ。
 ぎ……ぎ……ぎ……
 四階を通りすぎた。
 いや、そんなことはない。その前におれが通路に逃げこめばいいだけだ。だがそうすれば九階に向かっているユキにはもう確実に追いつけない。
 エレベーターは? しかし待つことになったら……そのあいだに〈歯車〉が走りだしてユキに追いついてしまったら……〈歯車〉を引き離して狭い箱の中で新手が現れてしまったら……。
 ぎ……ぎ……ぎ……
 五階を通りすぎた。
 階段は狭い。十分な距離を保って追い越すことなんてできない。触れるほど近くを通るしか道はない。
 〈歯車〉の横手をすり抜けて前に出たおれの背中を、あの刀が串刺しにする──そんなイメージだけが脳裏に浮かんでいた。追いつかれようとしていたくせに、おれはそれが怖ろしくてたまらないようだった。
 だが、それじゃあ、このままついていっても何になる。
 ぎ……ぎ……ぎ……
 六階を通りすぎた。
 階段を出て、部屋に通じる通路でなら、あの外廊下でならすり抜けられるか。
 けれどあそこもそれほど広さに変わりはない。そんな場所で〈歯車〉の刀を避けられるというのだろうか。こんなことは試みたことがない。まだ動きはじめていない新手のそばを通るのとはわけがちがう。
 ぎ……ぎ……ぎ……
 七階を通りすぎた。
 ……いや、避けられなくてもいいのかもしれない。おれが消えれば済むことだ。
 功志が消えた夜につかんだ事実──一晩に一人だ。それで〈歯車〉は止まる。
 そうすれば少なくともユキは助かる。おれは──消える。
 それが望みだったんじゃないのか?
 ぎ……ぎ……ぎ……
 八階を通りすぎた。
 ……笑いがこみ上げてきそうになる。なにもかも他人事のように思えて、眼の前の危機が、葛藤が、馬鹿げたものに感じられた。遠くから眺めていた。
 なぜこんなに必死になってまで他人なんかを助けなくちゃならないんだ? みんなとっくに死んでいるのに、こんなことに何の意味があるっていうんだ? そうしなければならないというのなら、功志は助けられなかったのか? 本当は全部どうだっていいことじゃないのか?
 おれが消えようが、ユキが消えようが、それが何だというのだろう。
 もしかしたらまた新しいやつが現れて──ただ、それだけのことじゃないか。
 ぎ……ぎ……ぎ……
 九階に辿りついた。
 ……また、サチに怒られそうなことを考えているな。
 階段を抜けて通路に入った。もう選択はさし迫っている。
 部屋々々がならんでいた。そして〈歯車〉の肩越しに、ふらふらとユキが歩いていくのが見えた。人気は他になかった。
 ユキは扉の前に着いた。
 鍵が閉まっていたとしたら、ユキはもうおしまいだな、と考えた。
「────っ!」
 気がつくと走りだしていた。
 おれは〈歯車〉の横をすれすれに通った。
 頭をあのとんでもない痛みが襲ってくる。視界がかすむような吐き気。身体中をかきまわされるようなその悪寒の内で、おれは本能的にしゃがんだ。
 ひゅっ、と頭上で風を切る音がした。
 わけのわからないまま転がるように前へ進んで、跳ね起きた。
 頭痛も、悪寒も、吐き気も──それらすべての一瞬の感覚は過ぎ去った。
 あれほどためらっていた行動を呆気なくやってしまって、そして信じられないが、おれはまだ存在していた。
 ユキとのあいだにもう障害はない。
 部屋の中へユキは入った。鍵は開いていたのだ。
 ふり返りたくなるような背後への恐怖を押しやり、おれも急いであとを追った。
 玄関に上がる。居間へ通じる廊下を進もうとして、そうだ、と引き返して鍵を閉め、チェーンをかけた。
 これで〈歯車〉をせきとめることができるかもしれない──そう考えたそばから、無理だろうな、と予想してしまう。
 ユキのあとを追って居間へ入った。
 そこでは宮下柄梨という女の子と、年配の女性がテーブルに置いたケーキを囲んでいた。
 そのそばでユキはたたずんでいた。
「ユキ!」
 おれはユキの肩をつかんで、ゆさぶった。なんともいえない虚ろな表情を浮かべているユキ。もしかしてまたあの熊や鶴の演技を見なければ目覚めないのだろうか。
 しかしそれは杞憂だった。
 ぶるっ、とユキは震えたかと思うと、おれの顔を見た。
 虚ろな表情に感情がさしこめ、みきお、というふうに唇を動かした。
 おれは安堵したが、ユキが柄梨に眼を移したので、またどきりとした。
 しかしユキは自分そっくりの顔を眺めて、眼をパチパチさせているだけだ。様子が変わるような気配はない。双子の得体のしれない力というのがあったとしても、それは二度きりでおしまいのようだった。
 きんっ、かちゃり、と音がした。
 廊下の向こうの扉を見ると──やはり、鍵なんて効果はなかった──どうやったのかは知らないが〈歯車〉はなんということもなくドアを開けていた。
 静止していた。これは前ぶれだ。
 ぎ……ぎ……ぎ……
 ……どうする。
 〈歯車〉が走りだそうとしている。移動の限られた室内。もう余裕はいくばくもない。
 そこしか、逃げ道はないように思えた。

 その灰色のマンションを改めて見てみると、あたしは墓石を連想した。急いでやって来て、そこまであと少しのところで、夜を迎えてしまった。
 あたしたちの後ろを〈歯車〉が追ってきていた。
 〈歯車〉が現れてからは、あたしたちは自転車を降りた。あまりスピードを出すとどんどん速い新手を出現させてしまう。
「……間に合わなかったわね」
 とカナエが後ろを見ながらいった。
「うん……」
「あの辺りを探すのに時間かけすぎちまったな」
「もうすぐのところでかあ」
 とジロウとシンイチくんが残念そうにいった。
 あたしたちの行動はやっぱり間違いだったのかもしれない。もしマンションにユキがいるのなら、ミキオに任せて待っていたほうが正しかった。〈歯車〉が出現してしまったいまとなっては、いってどうなるものでもない。そんなことはわかっていたはずなのに。
 ユキは……ユキはどうしているだろう。
 気落ちしながらあたしたち四人はマンションに着いた。
 そして〈歯車〉が追いかけてきているので屋内に入るのをためらっていると、
 ──ぐしゃっ、と近くで奇怪な音がした。
 はっとして、あたしたちは音の方に向かうと、マンションの敷地内の地面に赤いものが広がっていた。
 しかしそのどす黒い赤はまたたくうちに消えてしまい、倒れている人影だけが眼に映った。
「──ミキオ!」
 それはミキオだった。そばにかけよると、ミキオはユキを抱きかかえたまま倒れていた。
 ふたりとも意識が飛んでいるようだった。
 あたしはミキオを、ジロウはユキを抱えて起こそうとする。「──うっ……」とミキオがうめいた。
 とにかく、あたしたちは追ってきている〈歯車〉から逃げなければならなかった。
 ミキオに肩を貸し、ジロウがユキをおぶって、〈歯車〉が来る方向の反対側へ歩きだした。
 ──すると目前に緑色の光が発光して、〈歯車〉が瞬時に実体化した。こちらを向いている。
 あたしたちはぎょっとして、たたらを踏んだ。
 さっきの音は、ミキオたちが飛び降りてきた音だ。そしてこれはミキオたちを標的にした新手。
 そんな新手など、棒立ちになっているあいだにさっさと通りすぎてしまえばよかったのに、向かい合った〈歯車〉に挟み撃ちにされるような位置に予期せず陥ったことで、あたしたちは戸惑ってしまった。
 あたしたちはその瞬間、自分たちの置かれている状況を完全に見失っていた。
 とんっ、と背後でなにかが降り立つ気配がした。
 ミキオの肩を抱いたまま、あたしはふり返った。
 シンイチくんも、ユキをおぶったジロウも、ふり返っていた。
 しんがりにいたカナエは不思議そうに自分の胸元を見下ろしている。
 カナエの胸からは、尖った枝のようになにかが突き出ていた。
 ぎ……ぎ……ぎ……
 後ろにはおぞましい〈歯車〉が立っていた。
 カナエは、死神に追いつかれてしまっていた。

 その夜も六人の幽霊たちは歩いていた。
〝なあ、頼むから轢かれてみせてくれよ。電車で死んだんなら、自動車ぐらいわけないだろ? なあ、退屈なんだよ。笑えるような光景を見物したいんだよ。なあ、聞いてんのか?
 なあ?〟
 なあ、というたびに功志はシンイチの肩を金属バットで小突いていた。
 シンイチは黙ったままだった。
 やめとけよ、とミキオは弱々しく止めた。サチはうつむきがちに歩いていた。ジロウはつまらなさそうに一瞥して、足下のボールに注意を戻した。カナエは本をめくっていた。
 功志は苛立たしげになおもシンイチに金属バットを突きつけていたが、舌打ちし、後ろからついてくる〈歯車〉をふり返った。
〝毎日毎日うんざりするな〟
 足をとめて誰にともなく呟いた。
 他の五人は答えずに歩いていく。
 少し歩いたところで、ミキオだけがふり返った。
 功志はまださっきの場所に立ち止まったまま〈歯車〉を見つめていた。
 おい、功志、とミキオは呼びかけた。
 その声でミキオ以外の仲間も、ひとり残された功志をふり返った。
 功志はその呼びかけに反応しなかった。
不意に功志は〈歯車〉に向かって走りだした。
 そのまま勢いをつけて、甲冑をまとっているような胴体に全力で金属バットを叩きつけた。
 こーーーーーーーーーん、と、トンネルの中できくような、こもるような音が、虚ろに響いた。
 〈歯車〉はびくともせず、かえって金属バットの方が反動で功志の手から吹き飛ばされた。
 〈歯車〉は淡々と、静かに腕を動かしただけだった。
 功志の背中から刃先が突き出た。音もなく彼は貫かれていた。
 五人は息を呑んだまま見守っていた。
 〈歯車〉は刀を引き抜いた。
 功志は何事もなく立ちつくしているように見えた。仲間に背を向けていたので、その表情はわからなかった。
 記憶に永く焼きつく張りつめた時間が流れた。
 ぎ……ぎ……ぎ……
 回転していた歯車が徐々にその動きを止めて、やがて完全に沈黙した。
 功志の輪郭が崩れた。
 頭が、腕が、足が、身体のすべてが崩れ去り、砂のように塵のように、さらさらと風にかき消えてしまった。

「──カナエ!」
 意識の戻ったミキオが叫んだ。
 〈歯車〉はカナエから刀を引き抜いた。それきり動かない。
 カナエはいまにも崩れそうに思えた。不思議そうな表情のまま──功志くんのように。
 ところが、カナエは何事もなかったように歩きだした。どこへともなく。
 あたしたちは呆然とそれを眺めていたが、とにかくあとを追った。
 ユキもいまは意識を取り戻し、心配そうにカナエを見ている。
 三体の〈歯車〉は功志くんのときと同じく、こちらをもう気にもかけずに、その場で壊れた機械のように佇立していた。ただ、歯車は止まらずに回転を続けている。
 静けさに包まれたままあたしたちはカナエを囲むようにして、どこへいくのかもわからず歩いていた。
 やがて、
「……大丈夫だったのか、カナエ?」
 とミキオがおずおずと訊いた。
 カナエは黙ったまま歩いている。その沈黙はカナエもユキと同じように、声を失ってしまったのではないかと思わせる、たまらなく不吉なものだった。
「刺されたように見えたけど、刺されていなかったのね……?」
 とあたしはいった。自分でも間抜けな言葉に思えた。明らかに、刺されていたのだから。
 ようやくカナエは口を開いた。
「──いや。ダメみたい」
 そういって、自分の指先をかざした。
 カナエの指先は──少しずつ、薄れていこうとしていた。透けていた。
 おどろいたミキオがカナエの腕をつかもうとすると、その手はカナエの身体をつきぬけてしまった。
「あ……」
 と力なくミキオは声をもらした。
 あたしやユキもカナエに手を伸ばすが、触れることはできなくなっていた。
 幽霊が幽霊に触れられないという奇妙な現象が、取りかえしのつかない事態を告げていた。
「──どうも、消えてしまうみたいね」
 カナエはいった。平静な声で。
 カナエの身体はゆっくりと失われていくようだった。
「そんな……そんな……」
 シンイチくんは愕然と呟いていた。
「おれが──」
 とミキオはいったが、その後に言葉は続かなかった。
「あたし……あたしが、ユキから眼を離したから……」
「──やめとこうよ。誰のせいか、なんて」
 とカナエは慰めるようにいった。
「でもよ、功志のときと──」
 とジロウが戸惑いながらそのことを口にした。
「……そうよ、なんで違うの? 一瞬にして消えるわけじゃないじゃない。功志くんとは明らかに違ってる。まだ間に合うんじゃないの? なんとかなるんじゃないの? どうにかならないの?」
 あたしは誰にともなく疑問をぶつけた。答えを知っている誰かがいるのなら、ひたすら問いつめたかった。
 答える人がいた。
「──消滅の仕方が違うのは、私が変わった死に方をしたからじゃないかな」
 カナエはそういって、自分の過去を語りはじめた──。

 生前からの記憶を仲間に語りながらも、カナエは考えつづけていた。
 偶然か、それとも結局はそういう運命だったのか、脅威ではないとさえ思っていた〈歯車〉にこうしてついに追いつかれることになってしまった。
 痛みはなかった。だからこうも落ちついていられるのだろうか。
 私は消滅してしまうようだ。
 永遠なんてものはない。みんなとの楽しかった時間も終わるときが来てしまった。それでも、恨むような気持ちはわいてこないな。
 これだけの幸福を味わうことができたのだから。心は満ち足りたまま安らかだった。
 何のためにこの世に生まれてきたのか──その疑問に自分は答えを得たのだ。ゆるぎない確信が末期(まつご)にいたっても私を支えていた。
 生前のことも、幽霊としての日々も、過ぎてしまえば夢のようだったが、それは確かにあったのだ。未練はあっても悔いはなかった。
 ……身勝手な話だな。
 でも、悪くない人生だった。

「──だから、そんなふうに魂が身体を離脱したままで死んだから、幽体の在り方が普通とは異なるのかもしれない。功志くんと消滅の仕方が違うのも、そのためじゃないかしら」
 幽霊でなければ信じられないような奇妙な過去を語ったあと、カナエはそういった。
 いつも理屈を語るときと同じ調子で、他人事のように。
 そのカナエがもう話すこともできないどこかへいってしまうということが、信じられなかった。どうすれば納得できるのかわからなかった。
 カナエがいなくなる。二度目の死。
 死者しかいないこの場においても、誰もが死という事実をつかみきれていなかった。
「私、記憶をなくしてなんかいなかったの。みんなに嘘をついてだましていたの。──ごめんね」
「──そんなの、別にどうだってよかったんだ」
 カナエの顔を見ずにミキオは呟いた。
 ミキオは泣いていた。
 頬をつたう涙は消えてしまった血のように逆さに流れて、初めからなかったものとして眼に返ろうとしたが、あとからあとからあふれ出て、止まらないようだった。
 功志くんのことを、いま、泣いているような気もなぜかした。
 何に対して泣いているとしても、それはカナエにも、あたしにも、シンイチくんにも、ジロウにも、年少のユキにさえも、もうできなくなっていることのようだった。
 ユキは鞄から、カナエがいつも持ち歩いていた文庫本を取り出して渡そうとしたが、カナエは首を振った。
「もういいの。入れたままにしておいて。遺品、てことでさ」
 ユキはそれでもしばらく渡したがっていたが、やがて諦めてしまった。
 あたしたちはただカナエについて歩いていく。
 街灯が照らす夜道を六人の死者が粛々と行進していく──どこか遠くからそんな光景を眺めているような気分になった。葬列という言葉をカナエから聞いたことがあったけれど、身を切るようなこの時間に、その言葉は当てはまるのだろうか。
 夜空には星も月も見えなかった。
 こんな寂しい夜に、誰に知られることもなく、あたしの友だちは消えてしまうのか。
「──同化っていってたけど──それ、いま出来ねえのかな?」
 ぽつりと、ジロウが思いも寄らないことをいった。
「──え?」
 カナエも含めてみんながおどろいた。
「生きた人間に、同化できねーのかな。誰かの中に。その透けた身体なら、出来るんじゃないのか?」
 確かに、他人の魂に同化しそうになったという話をカナエは語っていたが──。
 あたしたちは藁にもすがるように、ジロウのその思いつきを話し合った。
「──遠慮しておくよ。悪あがきは、趣味じゃないから」
「何いってるのよ。最後まであがきなさいよ! 大体、幽霊なんて存在自体が悪あがきみたいなものなんだから、いまさら遠慮なんて諦めなさい」
 あたしは発破をかけた。ミキオのときもそうだったけど、あたしにこんな偉そうなことをいう資格はあるのだろうか。
「そうだよ、どんな形であれ、少しでも残ることができるのなら……」
 とシンイチくんもすすめた。
「こんなふうに消えるなんて、そんな話はないよ」
 とミキオは泣きながら願った。
 カナエは黙ったままだ。
 何を考えているんだろう、と痛切に思いながら、あたしたちはカナエのあとを追って歩いていた。

 カナエはそのことを空想していた。
 誰かの魂に同化する。とりつくわけか。なんだか本当に幽霊らしいや、とおかしくなってくる。相手はさぞかし迷惑なことだろう。
 確かにいまのこの身体の感覚は、あの懐かしい夜遊びのときと似たところがある。以前は結局せずに終わったことを、やってみるわけか。
 その思いつきを検討していると、雨中で見かけたあの人を思い出した。一目見ただけなのに自分とどこかが似ているように感じたあの人。
 誰かにとりつくというのなら、あの人がいいような気がした。他に思いつく顔があるわけでもない。
 あの人の家まで私は保つだろうか。保ったとしても、そんなことが本当に可能なのだろうか。まだこの世界に残ることが。
 もちろんやってみなければわからない。
 このまま消えるか、試みてみるか──最後の選択だな。
 消えてもいいと心から思えたが、好奇心がうずくのもまた事実だった。
 それにもう歩きだしていた。
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