第8話 眼鏡を外したら美少女だなんてそんなベタな

文字数 3,668文字

 何にしても物事には終わりがある。

 ポテトチップスの袋を開けて食べ始めたら、いくらペースを落としても食べている限り必ず袋の中身は空になる。

 小学校は入学したら普通は六年後に卒業だ。

 かぐや姫は竹から生まれてやがて月に帰る。

 何事も終わりはある。

 大好きな彼女がいつも見ているドラマからいなくなったとしても、それは仕方ないことだ。

 そう、仕方ないのだ。

 無力な高校生にはテレビ局にもドラマの製作会社にも彼女のオールアップをひっくり返すだけの力はない。

 ましてや彼女は殺されてしまう役。

 現代日本を舞台にしたごく一般的な推理ドラマでは死者を生き返らせるなんてあり得ないし、あったら視聴者から苦情がくる。それもわんさかくる。

 昨夜、僕の杏ちゃんが死んだ。

 正確には彼女の演じる桐谷花蓮が殺されたと言うべきか。

 それもまさか生き別れになっていた兄に殺されるだなんて……。

「だぁーっ!」

 朝、リビングのソファーに横たわったまま僕はわめく。最悪の目覚めだ。

 今、杏ちゃんを殺した兄が目の前に現れたら間違いなく仇を討っていただろう。

 そのくらい悔しかった。

 キッチンでは早起きしたみるくとあずきが朝食の準備をしている。トントンと小気味よいリズムで何かを切っているのはあずきだろう。

 その指示のもと、食器を用意したり簡単な調理をしたりしているのはみるくだ。

 さすがに昨夜のこともあるからあずきもみるくを野放しにはしまい。

 リビングにまで美味しそうな匂いが漂ってくる。

 傷ついた僕の心を完全に癒やすには程遠いが、それでも少しは回復した。

 ★★★

 クッキングタイマーが鳴り響く。

 足音がこちらに近づき、やがてみるくの声に変わった。

 僕は寝たふりをする。

「空、朝よ」

 そんなことはわかっている。

 僕は「あと五分」を決め込む。昨夜は僕のベッドを使わせてやったのだから多少手を焼かせても文句はないだろう。

 みるくの手が僕のお腹のあたりを揺さぶる。

「ほら、起きて起きて」

 無視。

 みるくの嘆息。

 声のトーンが一段上がった。

「ほーら、朝ですよ! あなたのみるくちゃんが起こしに来ましたよ」

 ぞわっと背中に嫌なものが走った。

 おいおいおいおい。

 みるくにしてはおかしな真似をしてくれるじゃないか。

 てか、気持ち悪いぞ。

 みるくがそっと僕の顔に触れる。

 ……何をするつもりだ?

 だが、ここで目を開けたら負けな気がする。

「空」

 ささやくように。

「起きないとあずきを呼ぶよ」

 一気に目が覚めた。

 あずきを呼ぶってことは僕を起こす役を交代するのと同義だ。それはすなわちみるくがキッチンに一人で立つことを意味する。

 昨日の夕食の二の舞は御免だ。

 それと、朝っぱらからあずきに絡まれるのも避けたかった。いくら杏ちゃんを亡くしたとはいえ……いやいや、亡くしたわけではないか。

 うん。

 白旗だ。

 僕は目を開けた。

 間近にみるくの顔。

 近い近い近い近い!

 こいつ、僕が目をつぶっていたのをいいことに何をしようとした?

 しかも赤面してるし。

「みるく」
「……」

 みるくが目を閉じる。

 ゆっくりとその唇が……。

「お姉ちゃん!」

 ビクッ、と音こそしなかったけど僕もみるくも反応した。慌ててみるくが顔を離す。赤みが倍加したのは言うまでもない。

 あずきが駆け寄ってきた。

「あたしの目を盗んで何するつもり?」

 やばい。

 いきなり怒ってらっしゃる。

「あ、あのーあずきさん。とりあえず落ち着きません?」

 口調が丁寧になってしまう。

 みるくが答えた。

「べべべ別に何もしようとなんてしてないんだからね」
「嘘、空にキスしようとしてたでしょ」
「そそそそんなことないわよ」

 みるく、絵に描いたようなうろたえっぷりだぞ。

 あずきが追求する。

「あたし見たもん。お姉ちゃん、空にキスしようとしてた」

 みるくの赤みはピークに達していて茹でだこちゃん状態だ。それはそれで可愛いのだけど熱気が伝わってるようでちょいと暑苦しい。

 みるくが首を振った。ツインテールの髪が踊る。ついその動きに心惹かれたのは内緒だ。

「ききききききききキスなんてしようとしてないわよ、そそそそんなこと……あ、あれあれ、空の鼻毛が伸びてないかなぁって」

 同様しすぎておかしなこと口走ってないか?

 あずきが露骨に疑ってくる。

「本当?」
「ほほほ本当だって」

 いや、だいぶ嘘くさいぞ。

「怪しいんだけどなぁ」

 あずきがジト目になる。まあ、みるくくらい挙動不審だとやむなしか。

「ねぇ、空」

 あずきがたずねる。

「お姉ちゃんの唇って柔らかいでしょ」
「うーん、そうだな」
「……したことあるの?」

 ないです。

 もちろんあずきともないけど。

「そ、空、はっきり否定してよ」
「あ、でも、間接キスなら何回か」
「それは今持ち出さないで!」
「間接キスくらいならあたしだってあるもん」

 そうですね。

 あずきの口に合わなかった飲み残しのジュースを押しつけられたり押しつけられたり押しつけられたり……。

 あれ?

 何だか悲しくなってきた。

「ねぇ」

 あずきが身を屈めて僕に迫る。

「お姉ちゃんに奪われる前にあたしとしよっ!」
「断る」
「えーっ、何で?」
「そんな気分じゃない」

 そもそもみるくの前でできるか。

 うぅーっとあずきがうなり、僕の目を見つめてくる。僕はわざと視線を外した。

 たぶん目を合わせたらアウトだ。

「……意気地なし」

 つぶやいて身を起こす。

「もうすぐご飯だからちゃんとしてね」

 まるで母親みたいな物言いで告げるとあずきはキッチンへと戻っていった。

 リビングには僕とみるくの二人きり。

 ……気まずい。

 みるくの赤い顔をちらと見る。

 その可愛らしい唇に目がいってしまった。

 て、いかんいかん。

 僕は首を振った。そんなことに気を取られている余裕なんてなかった。

 ソファーから降りて告げた。

「今のうちにキスしとくか?」
「……!」

 みるくの表情が瞬時に華やかになる。

 照れながらもすり寄ってきた。

「べ、別に好き好んでキスするわけじゃないんだからね」
「そうか。じゃあ、またの機会にしよう」

 どうせなら杏ちゃんとしたい。

 みるくが目を丸くし、わなわなと震えだした。

「さて、とっとと支度するかな」
「……な」
「な?」
「なめんなぁぁぁぁぁっ!」

 怒声とともにみるくのグーが僕のお腹に命中した。

 クリティカルヒット!

 僕に9999のダメージ!

 崩れ落ちるようにしゃがんだ僕にみるくが言った。

「空のバカァ! 大嫌い……大好き!」

 どっちだよ。

 ★★★

 あずきの作る朝食は美味いものの、毎度しっかり分量を食べなくてはならないのが難点だ。

 ちなみにあずきは山盛りご飯を5杯おかわりした。

 あれ、全部胸にいくのか?

 ★★★

 玄関に鍵をかけ、僕とみるくとあずきは学校へと向かう。

「そういえば」

 ホールでエレベーターを待っているとみるくが口を開いた。

「うちのクラスに来た転校生ってこのマンションに住んでいるみたい」
「へぇ」

 妙な偶然もあるもんだ。

 到着したエレベーターに僕たちは乗り込む。中には誰もおらず僕たちだけだ。

 1階のボタンを押してドアを閉める。

 さしたる体感もなくエレベーターが下へと降りていった。なぜか三人そろって無口になってしまう。静かな音を除けば無音に近かった。こんなときにお腹が鳴ったりおならをしてしまったらもう言い逃れはできないだろうな。

 途中の階でエレベーターがチンと音を立てて止まった。

 ゆっくりとドアが開き、みるくたちと同じ制服の女子が入ってくる。亜麻色の髪を三つ編みにした黒縁メガネの娘だ。

「あ、明治(めいじ)さん」

 みるくが声を上げる。

 と、突然明治さんがコケた。

「危ないっ!」

 前のめりに倒れる彼女を支えようとしたのがまずかった。思いの外勢いがついていて僕を巻き込んで派手に転ぶ。

 壁と床にゴツンと頭と背中を打ちつけた。

 痛みとついでに唇に何か柔らかいものが。

 あと、片手にもむにゅっといい感触が……。

「「あぁーっ!」」

 みるくとあずきの声がハモる。

 重なっていたのは身体だけでなく唇も。

 おまけに眼鏡も飛んでいて僕の眼前にむき出しの綺麗な瞳があった。

「……」

 時間にして数秒。

 甘い匂いと息遣いと柔らかさの三重奏に僕は動けずにいた。いや、正確には彼女の豊かな胸を無意識のうちに揉んでいたのだがそこはスルーしていただきたい。

 えらく触り心地は良かったけど。

「なっなっなっなっなっなっなっ!」

 みるくの奇声。

 やばい。

 みるくに殺される!

「あっ、あたしの唇がっ!」

 あずき、いつ僕の唇がお前のものになった?

 そして……。

 明治さんが、がばっと僕から身を離した。

 わぉ、美少女だ。

 眼鏡を外したら美少女だなんてそんなベタな。

 とか考えていたら、明治さんの顔がみるみる強ばる。片手で自分の唇を隠し、僕を涙目で睨みつけてきた。

「な」

 可愛らしい、しかもどこか聞き覚えのある声。

「何すんのよ! この変態っ!」

 バチィィンッ!

 スナップのきいた素早いビンタの音がエレベーターの中で響き渡った。
 
 
 
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