第23話 辞職

文字数 893文字

 鮎川は、それきり学校に来なくなった。古典の授業は連日自習になり、次の週に、彼は家庭の事情で辞職したと発表された。
 だが、生徒の間を、ある噂が駆け巡り、それは、翔の耳にも入った。表向きは辞職したことになっているが、実際は、本人が失踪したというのだ。
 その噂には、鮎川のマンションの近くに住む生徒が、ある日の夜中に、数人の男たちが、彼の部屋をあわただしく出入りしたのを見た翌日、突然、彼の姿が消えたという、まことしやかな尾ひれまでついていた。
 
 
 その噂を聞いて、翔は、あることを思い出した。それは、翔たちが、まだ小学生のときのことだ。
 その頃から、翔と藍は、ほかの子供たちと親しくしないように厳しく言われていて、私立の小学校にも、今と同じように、増永の車で送迎されていた。
 今よりもずっと純粋だった二人は、増永と久美の言いつけに、素直に従い、クラスメイトの誰とも口を聞かず、いつも二人きりで過ごしていた。
 
 だが、一定の距離を保って近づいて来ない子供たちの中に、ただ一人、今の藤崎のように、やたらにちょっかいを出して来る者がいた。
 藤崎と違っていたのは、それが悪意による行為だったことだ。今思えば、その田嶋裕一という同級生は、クラスのガキ大将で、ほかの子供たちと違って、彼の配下になろうとしない二人が憎らしかったのかもしれない。
 
 彼の嫌がらせは日増しにエスカレートし、あるとき、翔は突き飛ばされて、足首を捻挫した。藍は、恐怖と怒りで泣きじゃくり、すべてを増永に言いつけた。
 その数日後、田嶋裕一は、家族とともに、突然姿を消した。父親が事業に失敗して、夜逃げしたらしいという噂だった。
 彼の嫌がらせに辟易していた二人は、彼がいなくなったことにほっとし、喜んだ。まだ幼かったせいで、それ以上、深く考えることもなく、やがて彼のことも忘れてしまっていたのだが。
 
 
 鮎川の件が、田嶋の件と酷似していると思うのは、考え過ぎだろうか。二人に近づき過ぎた者が、ある日突然、姿を消すのは、ただの偶然なのだろうか。
 翔は考える。ショックな出来事があったせいで、自分は神経過敏になっているのだろうか……。
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