9章 ー みされぽ ー
文字数 8,662文字
ミーンミーンミーン。
ちりんちりん。
ぅぅぅぅぅぅぅん…。
夏休みの半分が過ぎた。扇風機が静かに回っている。
昼下がり、自室のベッドに体を仰向けに放り出して、右手の甲をひたいに乗せた格好でぼんやりと思い出す。
暑い。
あづい。
美沙の部屋にはクーラーがない。夏の間に熱帯夜が1週間あるかどうかの仙台ではクーラーは必ずしも必需品ではなく、扇風機だけでも十分何とかなる。ちなみに熱帯夜でどうしても眠れない時は、唯一クーラーがある1階のリビングにみんなで布団を持って降りていって寝るのである。
今日は、暑い。湿度も高い。やる気が出ない。
横になりながら考える。じんわりと汗がにじむ。
意識して考えようとしたわけではないが、これまで起きた事をぼんやり思い返していた。
教会訪問をして、メッセージをうまくまとめられなかった。
もう一度行った教会で台湾人チームのダンスに号泣し、ナンシーさんと話して慰められた。
父と話して、地下鉄サリン事件のことや、祈りを通して病気が治った事を聞いた。
静まって祈る中で愛子ちゃんの事を思いだし、その直後に愛子ちゃんの手紙を母が見つけ出した。
街中で高校生5人組に絡まれ、偶然休みだったタカさんが通りかかって救出された。
今までタブーだった性について、母親と正直に話すことができた。性欲それ自体がきたないんじゃなくて、自己中心な心が性を汚すと知った。
ここ最近、泣くことが多くなった。悲しみや苦い涙ではなく、心がほぐされ、安心し、束縛が解けていくような涙ばかりだった。
考えようとか祈ろうとかしたわけではなく、ぽつりと心から言葉が出てきた。
神。主。イエス・キリスト。それまで自分の人生に何の関係もないと思っていた存在が、急に自分の人生に存在感を持って入りこんできた。自分はそのことをどう感じているのだろう……?
正直言うと、起こったことは迷惑だった。心の底に沈殿していたものを引っかき回され、今まで封印してきたものを見ざるを得なくなる感じだ。
しかし、起こったことは同時にありがたくもあった。結果はいつも良いものだったことも認めざるを得ない。手放しに歓迎したいことばかりではないが、それらを通して確実に回復と成長が自分の内側に起こっている事を、美沙は感じていた。
尋ねてもいないのに母が答える。
そう思ったが目ぼしいもはもなく、麦茶で手を打った。大きめのグラスにたっぷりと注いで、コースターを敷いてパソコンデスクに置く。気分的には鉢巻でも締めたい所だが、暑いので省略。代わりに冷凍庫から小さな保冷剤を取りだし、タオルにくるんで首の動脈に当てる。暑さ対策だ。
ヘッドフォンを着けようとして、蒸れそうだと気付く。
「おかあさーん、牧師さんのメッセージ、スピーカーから聴いてもいい?」
母、一呼吸置いて「いいわよー。」と台所から答える。タブレットでレシピを見ながら夕飯の仕込みをしているらしく、鼻歌が聞こえてくる。美沙はタカに教えてもらった聖書放送のホームページからメッセージのページに飛ぶ。
クリックしたメッセージは、いつもの増田牧師ではなく、たまたまその日教会を訪れていた別の牧師のメッセージだった。
メッセージは旧約聖書イザヤ書61章の朗読から始まった。
「神である主の霊が、わたしの上にある。
ヤハウェはわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、
心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
ヤハウェの恵みの年…を告げ…」
「福音、つまり良いニュースとは、創造主ヤハウェ様とのあるべき関係に帰る道が開かれた、ということです。これを別の言葉で表現すると、私たち人間が創られた本来の姿に回復されること、と言うことができます。人間本来のおるべき立ち場にもう一度返り咲くことができる、とも言うことができます。
私たちは、私たちの命の源であられるヤハウェという神と永遠に愛し合う関係へと回復されます。また、本来の姿に回復した人たちの間には健全で互いに活かし合う関わりへと変えられて行き、調和が生まれます。この命の源であるお方によって、私たちは互いを活かし合い、地域を活かし、国を活かし、環境を活かし、この地上にヤハウェ様が本来意図された調和のとれた世界を実現していきます。」
「人が創られた本来の姿、それは創造主に似て美しいものです。愛するがゆえに自らを犠牲的にささげて相手を生かし、全てに調和をもたらすのです。私たちの救い主イエス・キリストはまさにその自己犠牲を実践し、私たちを愛してくださっていることを身をもって示して下さいました。
みなさん、私たちはみな、愛されているのです。人は、自分が愛されていることを知る時、過剰な自意識から解放されて、自分のことを忘れて人のために尽くすことができるようになるのです。私たちが愛されている、そして自分のことを忘れて愛に生きられるようになる、これが聖書の語る福音、グッドニュースです。」
「では、なぜ神は私たちを愛しているのでしょうか。どのようにしたら、私たちが愛に生きられるようになっていけるのでしょうか。聖書のイザヤ書の言葉からその理由と根拠を見ていきましょう。
冒頭のイザヤ61章は紀元前2700年頃書かれた預言ですが、それから約700年後にイエス・キリストによってその預言が実現しました。では、一つずつ見ていきましょう。
まず、『主がわたしに油を注ぎ』とあります。ここの『わたし』とはイエス・キリストのことです。『キリスト』という言葉の意味は『油注がれた』という意味です。だから、『油注がれた』というのは簡単に言うと『神に任命された者』という事です。つまり、イエス・キリストというのは苗字ではなく、『神に任命された者・イエス』という、いわゆる称号みたいなものなのですね。」
「次に『貧しい者に良い知らせを伝え』とあります。『貧しい者』とは誰のことでしょう?お金がない人のことでしょうか。それもあります。しかし、別の側面もあります。貧しい者とは、『自分の貧しさを自覚している人』のことです。必ずしもお金がないという事だけでなく、『お金があっても友だちがいない』『自分や人を心から愛することができない』『自分自身をコントロールできない』『神の御前に立った時、私は貧しい者だ』など、自分の貧しさを自覚している人のことを指しています。
『私は十分満たされている、もう何も必要はない』という人は、裕福な人です。そういう人は、救いを必要としません。求めていない人に、神さまは無理やり何かを押し付けるはなさいません。信じて救いの手を求める人を、神さまは救ってくださるのです。
では、貧しい人に伝えられる『良い知らせ』、グッドニュースとは何でしょうか。」
「それを理解するためには、冒頭でお話しした『罪』について理解する必要があります。囚人、つまり牢獄に入っているからには、何かしらの法律に触れる行いをしたはずです。
と言われても、私たち覚えがありません。警察のお世話になるような事をした人というのは、全体的に見ればごく一部の人たちでしょう。」
「どんな法律を破ってしまったのか。結論を言いますと、『神の法律』を破ったから、私たちは囚人なのです。聖書はこの『神の法律』を破ることを『罪』と呼びます。
では、『神の法律』とは一体どんなものなのでしょうか?聖書には613の守るべき教えがありますが、それをたった一言でまとめることができます。それは『愛に生きること。』これだけです。すなわち、神を心から愛し、隣人を愛する生き方を実行することこそが、『神の法律』を完全に守る道なのです。」
たとえば、人を殺したことのある方、いらっしゃいますでしょうか。……おそらく、この中にはいないでしょうね。しかし、イエスさまはこう教えられました。『人を実際に殺さなくても、人をバカにしたり心の中で憎しみを持った時点で、【実際に殺人したのと同罪である】』と。イエスさまはそう断言されました。」
「非常に厳しい教えだと思いますか?私も非常に厳しいと思います。守れるはずがない、と思います。しかし、この世界の殺人や悲劇というのは、実はこの『心の中の憎しみ』がスタート地点なのです。この憎しみを取り去ることなく肥え太らせ続けた結果、人は本当に殺人を犯してしまうのです。神さまは殺人の果実だけではなく、その果実を生む種自体も取り去りなさい、と教えているのです。
人を殺したことはなくとも、人を心の中で憎んだりバカにしたりしたことが一度もない、という方は……もしいましたら手を上げてください。……ああ、みなさん正直でいらっしゃいますね。もしも、心の中を全て覗かれたとしたら……私たちの中で、胸を張って神の前に立てる人などいるのでしょうか。」
ちなみに、罪を犯している人は、決まりやルールから【自由になっている】と錯覚します。しかし実態はむしろその逆の、罪の【奴隷】なのです。なぜなら、自らの力でその悪い習慣を断ち切ることができないからです。自ら選ぶことのできない人生、これは自由ではなく奴隷の姿です。罪に捕らえられ、囚人として生きているのです。」
みなさん、イエス・キリストは愛にあふれた、力あるお方です。人生の早い時期に、ぜひこの方を探し求めてほしいと思います。」
ヤハウェというのは神さまのお名前の一つです。古代イスラエル社会は、神から与えられた律法に従って国が回っていた、宗教と政治が一体となった国家でした。神さまは50年に一度、ヨベルの年、別名【大贖罪の年】というものを制定されました。この年には、全ての借金は帳消しにされ、自分が先祖から相続した土地は、売却された後でも自分の元に返却されるのです。奴隷として身売りした者も自由の身とされて自分の故郷に帰れる、という素晴らしい仕組みでした。
ちなみに一説によると、国家の貨幣や金融のしくみは50年が寿命、と言われているそうです。不思議ですね。寿命が来たら一度リセットすることで、富の一極集中や貧富の差が抑えられ、皆がしあわせになれる社会が継続していくのです。いいですね。神様のあわれみ深さを感じます。」
その後、牧師のメッセージはいくつかのまとめと勧めをして終わった。今度はメモを取れた。レポートも、多少疑問や質問を多く含みそうだけど、なんとか書けそうだ。よかった。美沙はそう思った。
……けど、なんだかすっきりしない。最初はレポートを書くのが目的だった。だけどレポートが書ければ、後は忘れてもいい話なのだろうか。
もし神さまに
「美沙の人生のレポートを提出しなさい」
と言われたら、私は胸を張って神さまの前に立てるのだろうか。
人を憎んだ事がある。
赦せない思いもある。
自己中心的な思いで異性を見た事もある。
その場を切り抜けるために嘘をついたことも、人を裏切ったことだって、ある。
そんな私が神さまの前に立った時、私は何と言われるのだろう……。