第131話 藍の話

文字数 1,582文字

 しばらくの間、藍はふさぎ込んでいたが、ある朝、ダイニングルームで、料理を並べ終えた久美が退出した後、おもむろに口を開いた。
「二人に聞いてもらいたいことがあるの」
「何?」
 翔は、手に取ったティースプーンを元に戻し、横を向いて、隣に座っている藍を見る。基樹も、手を止めて、藍を見つめる。
 藍は、いったんうつむいた後、意を決したように話し始めた。
 
「私は、翔と二人、教祖の子供として守られ、育てられながら、二度もそこから逃げ出そうとしたの。しかも、自分だけ」
「でも、それは……」
 翔の言葉に、藍は首を横に振る。
 
「確かに、救急車が襲われたことも、拉致されたことも、私のあずかり知らないことだわ。でも、ここに帰って来ようと思えばいつでも出来た。
 私は、監禁されていたわけでも、引き止められていたわけでもない。自分の意思で、あの家に留まっていたの。
 あの家で、ずっと暮らして行くつもりだったのよ。教祖の娘という身分を捨てて、すべてを翔一人に押しつけて……!」
 
 藍は、両手で顔を覆った。翔は、藍の肩に手を置く。やがて藍は、顔を上げて言った。
「ごめんなさい。冷静に話そうと思ったのに」
「いいよ。気にしないで」
「ありがとう……」
 藍が、肩に置いた翔の手に、手のひらを重ねる。
「翔は、いつも優しいのね。私、何度も翔にひどいことをしたのに、怒っていないの?」

 翔は、即座に答える。
「怒ってなんかいないよ」
「でも、軽蔑しているでしょう? 私、性懲りもなく、また男の人と深い仲になって……」
 翔は、じっと藍の目を見つめる。
「僕は、そんなふうに思ったことは一度もないよ。いつだって藍は、僕の大切な妹だよ」
「翔……」
 藍の目から、涙がこぼれ落ちる。
 
「でも」
 藍は、涙をぬぐって基樹を見る。
「基樹くんは私のこと、馬鹿な女だと思っているでしょう?」
 基樹は苦笑する。
「藍、自分を責め過ぎだよ。俺も、藍がそこまでひどいことをしたとは思っていない。
 立場は違うけど、俺も、親に見捨てられて、ずっと孤独だったんだ。だから、藍が誰かとつながりたいと思う気持ちは、よくわかるし、ずっと閉じ込められて生きていたら、そこから飛び出したいと思うのもうなずける。
 ……なんて、俺の勝手な思い込みだったら謝るけど」
 
「でも……」
「なんだよ、まだあるのかよ」
「私、みんなに心配や迷惑をかけたし、あなたの大切な翔を苦しめたわ。私のこと、怒っていないの?」
 翔が目を向けると、基樹もこちらを見て、二人の目が合った。基樹は、視線を外さないまま言う。
「そりゃあ、翔は苦しんでいたさ。藍の行方がわからなくなったときは、ろくに食べられず、泣き暮らして、ひどく痩せた」

 基樹は、藍に視線を移す。
「今だって、翔は苦しんでいる。でもそれは、藍が苦しんでいるからだよ。
 翔にとって、藍が大切な存在なのはもちろんだし、翔はいつだって、藍の幸せを願っている。……だから、藍がこれ以上翔を苦しめるなら、温厚な俺もさすがに怒るけどな」
 そう言いながら、にやりとする。
 
「過去に戻ってやり直すことは出来ないけど、今の状況で、出来る限り藍の望むようになることが、翔の望みでもあるんじゃないのかな」
 再び、基樹と目が合う。翔は、藍に向かって言う。
「基樹の言う通りだよ。藍は、どうしたいの?」
「私は……」
 藍は、涙に濡れた頬をぬぐう。

「二人が許してくれるなら、また以前のように、ここにいさせてほしい」
「そんなの、当たり前だろ」
 翔の言葉に、基樹もうなずいている。
「そして、赤ちゃんを産んで、ここで育てたいの。養子に出すなんて、絶対にいや!」
 そう言ってから、藍は二人の顔をうかがう。
「やっぱり、わがままかしら……」

「いや、そんなことない。母親が、自分の手で子供を育てるのは当たり前だし、子供は、母親のそばで育つのが一番だろ」
 基樹が、力強く言った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み