2 星状硝子の霊眼《ハイリゲス・アウゲン》

文字数 11,721文字

 ベルリンのフリードリヒスハイン区に位置するフレデルセンハウスは、八十階を超える超近代(ズーパーモダーネス)高層鉄塔(ホーホハウス)である。解析機関が生み出した繊維状に組み込んだ鉄骨の上に、剛性煉瓦を積み上げる事によって、その異様な景観は築き上げられている。
 三十階建ての二つの尖塔と、屋上に翔翼機(オーニトプター)を止めるエアポートの付いた八十階建ての本館からなるその巨大な鉄塔は、曲線を束ねて組み合わせたような複雑な鉄筋がむき出しになっている。さらにその上から無数のガーゴイル(ヴァッサーシュパイアー)が針のように突き出して、絶えず濁った雨水を吐き出していた。
 霧状の雨が降りしきる寒い夜、一台の黒い馬車がフレデルセンハウスのエントランスの前で止まった。
 馬車の中から降りてきたのは、黒い外套に身を包み、腰に大きなクロスボウと散弾銃(シュロートフリンテ)を身につけた長身長髪の男と、詰め襟の黒いブラウスに、胸を覆う黒いジャンパースカートを着た東洋人の少女だった。
 黒髪を眉の上と肩の辺りで綺麗に切り揃えたその美しい少女は、常に眼を閉じて、どこか曇りのある表情をしていた。
 そしてその腰には細身の刀(シュヴァート)を収めていると思しき鞘を、大小二つ、帯で括りつけていた。
 先に降りた男は少女を気遣うように言った。
「エントランスまでまだ少し距離があるな。傘を持ってくれば良かった。その格好では寒くないか? カスミ」
「平気です」
「そうか、では行こう」
「はい」
 二人は冷たい雨の中、頭上にどす黒くのしかかる異形の塔へと向かっていった

 異様な外観とは裏腹にエントランスの内部はロココを思わせる奢侈な、しかしそれのよく出来た模造品のような、あまり品の良くない内装で覆われていた。五階まで吹き抜けになった頭上には巨大なシャンデリアが並び、床には黒と白の人造大理石が交互に敷き詰められている。
 そこで二人を待っていたのは、燕尾服を着た小綺麗な紳士だった。黒髪を後ろに撫で付け、細いカイゼル髭を蓄えた神経質そうな男である。
「初めまして、私はこの近代鉄塔(ホーホハウス)の管理を任されているハインツ・メルダースです」
「初めまして、私は薄明(デマーシャイン)のクレメンス・ルフトマイスター。こちらは同じく薄明(デマーシャイン)のカスミ・イチジョー。……二人とも戦闘修道士です」
「おお、お二人とも黒い聖者(シュヴァルツハイリゲン)ですか。これは心強い」
「それはどうも」
 クレメンスは『黒い聖者』という呼称にどこか引っかかる様子で眉をひそめたが、それ以上はなにも言わなかった。
「このお嬢さん(フロイライン)中国人(ヒネージン)ですかな?」
「いえ、彼女は日本人(ヤパーネリン)です」
「ほう、日本人(ヤパーネリン)! そういえば日本の刀鍛冶が造るゼンマイバネ(シュプラングフェーダー)は本当に素晴らしいですな! あれがなくてはもはや西欧の文明社会は成り立たないとまで言われております。……おや? もしやお嬢さん(フロイライン)の腰にあるのは、その日本刀ではないですかな?」
「ヘル・メルダース、我々を呼んだのは世間話をする為ではないでしょう」
 クレメンスは表情ひとつ変えずにメルダースをたしなめた。
「おお、これは失礼、すでにお聞きになっていると思われますが、この所、夜な夜なガーゴイルが動き出すという事件がこの塔に起きておりまして。……信じて頂けるかどうかはわかりませんが……」
「このベルリンで、いや、ドイツ帝国で不可思議な出来事というものは日常茶飯事ではないですかな?」
「確かに、確かにその通り。しかしまさかこのビルでそんな事が起こるとは夢にも思いませんでした」
「被害は? 誰かが犠牲になったとか、物が壊されたとか」
「犠牲者はいません。なにせ動き出すのが夜半過ぎた頃のようなので、しかしそれを目撃した警備員が軽傷を負ってます。また時折オフィスがひどく荒らされまして」
「目撃者は警備員だけですか?」
「時間的にそうなりますな」
「警備員がやった可能性は?」
「我々も最初はそれを疑いましたが、警備員の力だけでは不可能な荒らされ方なのですよ。二トンもある解析機関が片っ端からひっくり返されていたり。……バベッジの最新型だったのに……いやあれはひどい損害でした。。それにここには二百名の警備員が交代で二十四時間常駐してますが、皆ここの勤務に不満はないようです。他所よりよほど賃金が良い、とね」
 メルダースは少し自慢気にそう言ったが、クレメンスは興味を示さなかった。
「わかりました。さっそく仕事に移りましょう」
「この鉄塔は広い。今夜だけで仕事を終えるのは無理でしょうが、なるべく手短にお願いしたい。貴方達への報酬は日当ですし、被害がこれ以上増えるのも……」
「御心配には及びません。一晩あれば充分です」
 メルダースはクレメンスの言葉を聞いて安堵の表情を見せたが、カスミを見ると一転、その神経質そうな顔を曇らせた。
「このお嬢さん(フロイライン)はいつも目を瞑っておられますが?」
「ああ、彼女は目が見えないんです」
「……」
 カスミは終始無言だった。
「このお方、……ええっと、カ、ス、ミ様でしたかね? 彼女も黒い聖者(シュバルツハイリゲ)と仰っておられましたが、本当に大丈夫なのですか?」
「……彼女は、私などよりも遥かに有能です」
 クレメンスはメルダースに向かって初めて笑みを見せた。

クレメンスとカスミはまず蒸気エレベーターに乗って最上階まで行く事にした。手動のドアを開けて中に入ると無数のボタンが両側にびっしり並んでいる。
 クレメンスが最上階のボタンを押すとエレベーターはガタガタと音を立てながら上へ登って行ったが、動きは遅く、頂上までは相当な時間が掛かりそうだ。
「あの男、『貴方達への報酬は日当ですし』ですって。あいつからすれば私達への報酬なんてただ同然の金額なのに」
 クレメンスと二人きりになった途端、カスミが愚痴をこぼし始めた。
「ははは、カスミは彼がお気に召さなかったか」
「クレメンスはどうなんですか?」
「初対面でもっと感じの悪い人間なんていくらでもいるさ。いくら安い日当でも、日にちが嵩めば金額は膨らむ。少し大目に見てやれ」
「……ごめんなさい。少し愚痴が過ぎました」
「本当は報酬の事より誇り(シュトルツ)を傷付けられたんだろ? 盲目だという理由で侮られて」
「……あなたはなんでもお見通しですね……」
「……あの男の『(ガイスト)』、どんな色だった?」
「邪悪じゃないけど、嫌な色です」
「そうか」
「色ってものが未だにピンと来ないけど、こういうのを表現する時は黄土色だって」
「へえ、黄土色ね。なるほどわからんでもないな」
 最上階に着くにはおよそ十五分掛かった。その間も二人はさらに他愛のない会話を続けていたが、頂上に着く頃には二人揃っていささかばかり憔悴した様子だった。
 チーンというベルの甲高い金属音が目的地に着いた事を示すと、カスミは勢い勇んでドアを開け、地上七百二十フィート(約二百四十メートル)の空気を吸い込んだ。
「ふう、八十階となるとさすがに掛かりますね……」
「この遅さも売りの一つなのさ。天辺に上がるのにこれだけ時間と手間が掛かります、というのが高層鉄塔の一つの付加価値になる。とはいえ私はあまり乗りたくないがね」
「同感です」
 カスミとクレメンスが辿り着いたのは一面硝子張りの大きな展望台だった。フレデルセンハウスは四十階と八十階を有料の展望台にしていて、これだけで鉄塔の管理費を充分賄える程度には稼いでいた。 
 クレメンスが硝子越しに外を除くと、眼下には深夜だというのに煌々と明かりの灯ったベルリンの町並みが、また、前を見渡すとフレデルセンハウスに匹敵、いやそれ以上の高さを誇るミッテ区の超高層鉄塔群がやや遠方に聳えていた。世紀末のバロックと呼ぶに相応しいその異様な建物の数々は、雨に打たれる硝子の向こうに揺らいでより一層頽廃の色を濃くし、クレメンスの心にこの上なく蠱惑的な感情を想起させた。
 しかしクレメンスは経験上、そうした感情が『冥きもの(フィンスターレ)』を呼ぶ事も知っていた。彼は努めて笑顔を作ると、カスミに向かって言った。
「この夜景を君に見せられないのが残念だよ。どうやらこのベルリンにもまだ美しいものが残っていたようだ」
「出来たばかりのベルン大聖堂に登った時は私に『見てごらん!』って言ってはしゃいでたのに、少しは学習したんですね」
「まだ根に持ってたのか。もうその事は忘れてくれよ」
 クレメンスは少年のように屈託のない顔で笑った。
「忘れません。……良い思い出ですから」
 カスミは優しい声でそっとつぶやいたが、クレメンスにその声は届かなかった。
「ん? なにか言ったかね?」
「いえ、なんでもありません。……なんでもないの」
「そうか。……(ガイスト)、ガーゴイルの『(ガイスト)』、もっともそんなものがあるとすればだが、それらしきものは見えるかな?」
「少し待ってて」
 カスミはツカツカと音を立てながら窓際に近づくと、まるで見えているかのようにその目と鼻の先でピタリと止まり、大きく深呼吸して外を眺めた。
 カスミは瞼の裏に、暗がりの中をゆらゆらと蠢く、炎とも影とも付かないゆらめきを感じた。しかしそれは人のそれと比べるとあまりに曖昧で、数すら判別できなかった。
「この硝子、いくらぐらいするのかしら?」
 カスミは目の前の展望硝子をそっと触りつつ言った。
「解析機関が分子構造を割り出した最新の強化硝子だ。結構良い値段するだろうね。……カスミ? まさか、早まった真似はしないでおくれよ?」
「……」
 カスミは日本刀の帯を解くと、その鞘を硝子に向けて水平に構えて、勢い良く突き出しだ。だが、硝子はゴォンという鈍い音と共に激しく振動したのみで、傷ひとつ付くことはなかった。
「ハハハ、いくらカスミでも無理だよ。ダイナマイトでもビクともしないって話だ」
「……」
 クレメンスの話が聞こえないのか、あるいは聞いていないのか、カスミは微動だにせず硝子に向かって直立したまま、なにか考えている様だった。しかしやがて大きく一息つくと、再び硝子に向かって鞘を向けた。
「……やめるんだ、カスミ。外の見える他の場所を捜そう」
「……ごめんなさい!」
 カスミが再び鞘で硝子を激しく打つと、それはドシンという通常の硝子とは異なる鈍い音を立てて粉々の破片となった。破片は塔の外へ飛び散り、小さな星の粒をばら撒くようにようにパラパラと地表へ吸い込まれていった。
「馬鹿な!」
 長年彼女と共にいる彼ですら、まだこの盲目の少女に驚かされる事が残っていたようだ。クレメンスは目を丸くして思わず叫んだ。
 ゴウゴウと冷たい風とともに展望台に雨が飛び込んでくる。カスミはその場に屈みこむと、なんの躊躇いもなく破った窓から頭を出し、外を覗いてみた。
「まさか強化硝子を破るとは……、さすがと言いたい所だが、君の給与で弁償してもらうよ、それ」
「かまいません」
 カスミは窓の外を見ながら言葉を返す。
 外には迷路のように張り巡らされた雨樋を経て、無数のガーゴイルがサボテンの針のように塔から突き出し、その口から雨水を吐き出していた。雨水は遥か下方に吸い込まれて、靄の掛かった地上へ溶け合うように消えていくが、カスミの眼はその奇妙な、それでいて幻想的な光景を捉える事はなかった。彼女に見えたのは黒い、冥い、炎のような、無数に揺らめく影だけである。
「いました。(ガイスト)は、……一つ、二つ、……ここから確認できるのは四つです」
「何階だ?」
「……」
 カスミは全神経を揺らめく影の方角へ集中した。
「およそ二百フィートほど下でしょうか」
「ここから二十階以上は降りる必要があるな……」
「あの優雅な貴族用エレベーターより、足を使うほうがよっぽど早そうですね」
「そうしよう。しがない労働者階級に幸あれだ」
 クレメンスがカスミに向かって言ったちょうどその時、警報ベルがけたたましく鳴り、階下に繋がっているといると思われる無数の集合管の中の一つに混じった、大きな拡声管ががなり声を上げた。
〈クレメンス様! カスミ様!〉
「!」
〈出ました! ガーゴイルです! 五十五階で大暴れしています! 至急向かっていただきたい! 早くっ!〉
 クレメンスは集音管に向かって負けじと叫んだ。
「了解した! 直ちに向かう!」
 クレメンスはカスミの方に向き直って、子供のような笑みを浮かべた。
「思ったよりずっと有能だな、あの男。……カスミ、硝子は割り損になってしまったね」
「びっくりした……」
 カスミは胸を押さえて、心臓の鼓動をどうにか早く鎮めようと努めている。
「ハハハ、怪物が突然現れても平然と対処できるカスミ殿も大きい音は苦手かね。さあ行こう、ガーゴイルが待ってる!」

 蒸気エレベーター以外で下に降りる手段は、大きな螺旋階段があるのみだった。
 一階降りる毎にドアに面した大きな踊り場があるものの、それは階下へと果てしなく続いており底が見えない。小さなガス灯が並ぶ中で暗闇にうっすらと浮かぶ螺旋階段は、まるで二度と戻ることができない深い迷宮への入り口のように、カスミとクレメンスを奥へ奥へと吸い込んでいった。
 カスミは目は見えないものの、この高層鉄塔(ホーホハウス)の普通で無さはそれとなく肌で感じていた。その『見えないが歪な何か』が醸し出す漠然とした不気味さは、徐々に大きくなりながら、翳りのような物となって、カスミの心をよぎった。
「なんだか、この塔自体が『冥きもの(フィンスターレ)』のように思えてきました……」
 呼吸一つ乱さずにカスミが言った。
「す、すまない後にしてくれ、今それどころじゃない」
 クレメンスが息を切らしながらそれに返す。
「もう若くないんだから、ちゃんとトレーニング積んだほうがいいですよ?」
「説教も後にしてくれ、頼む……」
「さっきまでの威勢はどこにいったんですか?」
 クレメンスはもうそれ以上カスミになにも答えなかったが、そのやりとりはカスミの心を軽くするには充分だった。

 ようやく五十五階に着き、踊り場とフロアを隔てる重いドアを開くと、二人のすぐ目の前で翼を持った悪魔のような姿をしたガーゴイルが暴れていた。
「います!」
「これはまた、派手にやらかしてるね……」
 クレメンスはあえぎながらも呆れた表情でフロアの惨状を見渡した。
 ついさっきまでどこかの会社の事務所(ビューロー)だったはずのフロアは、煩雑なガラクタ置き場と化していた。巨大な解析機関はいとも容易くひっくり返され、無数のパンチカード(ローホカルテ)や記録用の筒型記録器(シャルローア)が散乱している。解析機関のみならず、書類も、机も、皆元の場所が判別できないほどに掻き回されていた。
「メルダースの表現は控えめだったようだ。ここまで質が悪いとは思ってなかった」
「この鉄塔のガーゴイルは石ですか?」
「窓から目が届くものは石造りの彫刻だと聞いている。それ以外はコストも考慮して合成樹脂で出来ているらしい」
「そうですか……。ものは試し、いきます!」
 カスミは日本刀を引き抜くと、自分の眼の位置にそれを構え、切っ先をガーゴイルに向けた。刃は濡れた氷のように冷たく光り、見る者の視線を捉えて吸い込むような、妖しい美しさと魅力を放っている。それが普通の剣でない事は誰の目にも明らかだった。
 カスミは目の前に倒された机を軽々と飛び越え、その先にいるガーゴイルになんの躊躇もなく斬りかかった。
「ガアアーッ!」
 ガーゴイルは鵞鳥のような耳障りな叫び声を挙げ、後ろに飛び上がってカスミの刃をかわした。その切っ先は僅かに届かなかったが、カスミは追撃の手を緩めなかった。
 着地と同時に再び剣を構えて一息でガーゴイルの間合いに踏み込むと、カスミは凄まじい速さで剣を水平に振りぬいた。刃はそこになにもなかったかのようにガーゴイルの胴体通り過ぎ、その身体を瞬時に真っ二つにしてしまった。
「ギャアアアーッ!」
 ガーゴイルは断末魔の叫びを挙げると腹から二つに分かれて床へと転がった。
「さすがだね」
 クレメンスは頭を掻いた。
「この手応え、肉を斬った時のものです!」
 カスミはクレメンスの方に振り向いて叫んだ。
 クレメンスはガーゴイルに近づくと、その二つになった片割れを覗きこんだ。
「ただの石だ。石造りの彫像だ」
「そうですか……」
「まあなんにしても、これで私達の武器が通じるとわかったな」
 再び奥のほうで何かの気配がする。カスミはゆらめく二つの黒い影を、今度はハッキリと感じ取った。クレメンスの視界にも充分届く位置だ。
「あそこにも!」
「ああ、次は私にやらせてくれ」
 クレメンスは腰に下げたクロスボウを持ってガーゴイルの方へゆっくり向かった。
 瓦礫と化した事務所の残骸の中から、二体のガーゴイルがひょっこりと顔を出す。カスミが真っ二つにしたものと同じ姿だ。
「なにが目的かは知らないが、あまり人間を怒らせるなよ……」
 クレメンスはクロスボウをガーゴイルに向かって構えた。
 クロスボウは上下に射出台の付いた二連装になっており、ふいごのようなカートリッジから聖成された矢を交互に射出する連射式になっている。片方が自動で弓を引く間に、もう片方が矢を撃つ。射速は後年の機関銃には遠く及ばないが、敵を威圧するには充分な量の矢を撃ちだす事ができる。
 クレメンスはろくに狙いも定めず、手当たり次第にガーゴイルのいる方向へ矢を撒き散らした。最初は特に何の反応もなかったガーゴイル達だが、矢の一つが方に当たると、不快な叫び声を挙げて二体が別方向へ逃げはじめた。
「逃がしません!」
 カスミは左手の出口へ向かうガーゴイルに目を留めた。そして悪鬼が自ら荒らした事務所の残骸に手間取る隙に、山積みになった机や椅子を軽々と飛び越えてあっという間に追い付くと、それの脳天に向かって激しく剣を打ち下ろした。
「ギイーッ!」
 ガーゴイルは断末魔の叫びを挙げると真っ二つに別れて再び石となった。
 クレメンスはもう一体のガーゴイルを部屋の角に追い詰め、ありったけの矢を叩き込んでいた。ガーゴイルにはハリネズミのように矢が刺さり、もはや抵抗する気力もないようだがまだ生きている。クレメンスは動きを止めてうずくまるガーゴイルを見て得物を散弾銃に持ち替えた。
「害がなけりゃ放置するんだけどな……。悪く思わないでくれよ」
 クレメンスはそう言って散弾銃を二発、ガーゴイルに向けて撃った。一発目ではガーゴイルの腹に血しぶきが飛んだが、二発目はその哀れな石の精を粉々に粉砕してしまった。
「ふう、君が確認したのが四体だとすると、残りは一つか……」
「クレメンス様! カスミ様ー!」
 拡声管から再びメルダースの声が響いた。
「今度は四十八階です! 大物です! 今警備員が銃で応戦していますが、歯が立ちません! 早くっ!」
 クレメンスは集音管で応答した。
「奴らに普通の武器は効かない! すぐにそこを逃げるよう全員に指示しろ!」
 メルダースからの応答は無かった。拡声管から聞こえてくるのは男達の悲鳴と、何かが荒らされる激しい物音がガタゴトと鳴り響くだけだった。
「急ごう、どうも私達が対峙した小鬼達より遥かに危険なものがいるらしい」
「はい」
 二人は机や椅子を掻き分けながら、再びあの異界への入り口を思わせる不気味な螺旋階段へと向かった。

 四十八階のドアを開けると、すぐ目の前で長さが四十フィートはあろうかという大きな白い、蜥蜴のような怪物が、発砲する警備員に向かって口を開けていた。数人の警備員がまだ銃を発砲していたが、怪物は堪える様子がない。
「逃げるんだ君たち! 後は私達に任せろ!」
「しかし管理人が……」
 クレメンスが怪物を見ると、メルダースが尻尾の辺りに巻きついている。
「助けてくれえええ!」
 メルダースは裏返った声で叫び声を上げ、必死でもがいていた。その姿からはもはやクレメンス達と初めてあった時の慇懃な物腰は微塵も感じられない。
「いいから去れ! 彼は私達が必ず助ける!」
「は、はいっ」
 警備員達が逃げまとう中、クレメンスは改めて怪物の姿を見た。
「あれは……リヴァイアサン(レヴィアタン)か?」 
 全身に光る鱗を纏い、ギラギラした黄色い目と鋭い鉤爪を持つそれは、東洋の龍に似ていた。うねるその長い胴体の背には、刃物のように光る背びれが並んでいる。。
 カスミにはその姿は見えないが、なにか黒い、邪悪な(ガイスト)がその場で巨大なとぐろを巻いている事だけは分かった。
「先のガーゴイルとは比較になりません。……危険な存在です」
「メルダースの(ガイスト)は見えるか?」
「はい」
「まず私が牽制する。君は隙を見てヤツの尻尾を叩っ切れ」
「了解」
 クレメンスはクロスボウを構え、リヴァイアサンの頭部に向けてそれをがむしゃらに撃った。警備員の所持する拳銃よりは効いたのだろう。リヴァイアサンは煩わしげに顔をしかめたが、その直後、クレメンスに向かって炎を吐き出した。
「!」
 クレメンスは床に転がりつつ、間一髪でそれを避けた。
「クレメンス!」
「私に構うな! 早くメルダースを救い出せ!」
 肩を少し焦がしたようだが、外套も真っ黒なので目立つ様子はなく、クレメンス自体にも怪我はなかった。戦闘聖者(カンプ・ハイリガー)は再び立ち上がってクロスボウを撃ちまくった。
 クレメンスは散弾銃に持ち替えたかったが、絶えず火を噴くリヴァイアサンは彼にその暇を与えなかった。
 カスミはクレメンスを気にかけながらリヴァイアサンを見た。
 不快な(くら)い影が長く伸びる中、その端に黄土色の(ガイスト)が絶えずくっついているのが見える。
 初めて見た時は嫌な色だと思ったが、黒い影の魔獣と比べるとなんと優しい色だろう! カスミはその黄土色の(ガイスト)を振り回す長い影を注意深く見つめながら剣を構えた。
「待て! なにをする気だ! 君は目が見えないんじゃないのか!」
 カスミの日本刀を見たメルダースが叫んだ。
「安心して。必ず助けます」
「頼むからそんなもの振り回さないでくれ! 私は死にたくない!」
 メルダースはリヴァイアサンの尻尾に振り回されつつ必死に叫ぶ。
「いいから私を信用しなさい!」
 カスミがその機会を伺う中、リヴァイアサンはメルダースを巻きつかせた尻尾を、彼女目掛けて猛然と振るった。
「ひゃああああああ!」
 盲目の戦闘修道女(カンプ・ノンネ)はその瞬間を見逃さなかった。
 人の(ガイスト)、怪物の(ガイスト)が交じり合うことなくこちらに向かってくる、
 それは目に映る像のように、近づくにつれハッキリ見えるという事はない。しかし彼女にしか感じる事のできない感情のうねりとなってカスミの脳髄に迫って来た。
 純粋な生への欲求と、微塵の躊躇いもない純粋な暴力。
 二つのうねりがカスミの心を駆け巡り、彼女はそれに答えるように静かにつぶやいた。
「……救う」
 メルダースの悲鳴が響く中、カスミの剣は今やすっかりボサボサに乱れてしまった彼の頭を文字通り間一髪で掠めて、海獣の尾を一撃で叩き斬った。
「グオオオーッ!」
 リヴァイアサンの悲鳴が響く。
 クレメンスは魔獣の気がカスミに向いた隙に散弾銃に持ち替えた。
「よしカスミ! もう遠慮はいらない、ヤツを細切れにしてしまえ!」
「はい!」
 クレメンスがリヴァイアサンの頭部に散弾銃を打つと同時に、カスミの剣は胴回りが小柄な女性ほどもあるそれの体を一つ、二つと、瞬く間に解体していった。クレメンスの二発目の散弾は頭部を吹き飛ばし、リヴァイアサンは断末魔の叫びを上げる間もなく、粉々になった石塊と化してしまった。
「ふう……」
 カスミが大きく息を吐く。
「さすがだな。君がいないとこう簡単にいかない相手だったよ」
 クレメンスが散弾銃をしまいながら言った。
「いえ、そんな……」
「うわあはああああああ!」
「!」
 メルダースは号泣しながらカスミに向かって突進してくると、彼女の華奢な身体を力いっぱい抱きしめた。
「ありがとう! ありがとう! 君は命の恩人だ! 一時はもう駄目かと思ったがこれでまた妻と娘の顔が見られる!」
「は、はあ、どうも……」
 カスミは戸惑い、顔を赤らめながら、そう答えるのがやっとだったが、少し落ち着きを取り戻すと嗚咽するメルダースにその身を任せたまま、小さく微笑んだ。
「お取り込み中失礼だが、カスミ、君が見たのはあれで全部か?」
 クレメンスが上ずりそうな口角を必至に押し止めながら、カスミの方へ歩いてきた。
「あ、はい。少なくともあそこで見えたのは四つでしたから……」
 カスミは慌ててメルダースを引き離すと答えた。メルダースもようやく気を静めたのかボサボサになった髪を慌てて後ろに撫で付けた。
「や、や、これは失礼しました」
「無事か? メルダース」
「身体中をしこたま打ちましたが、なんとか」
「そうか、良かった。……メルダース、あのリヴァイアサン、ガーゴイル(雨どい)にしては少し大きすぎないかね?」
「あれはガーゴイルではございません。塔の天辺に飾ってある彫像です。翔翼機(オーニトプター)で屋上に乗り付ける、特別な来賓のみが見られる彫像なのです。……非常に高かったのですが」
 そういうとメルダースは力なくうなだれた。
「なるほどね、……そんな特別な彫像にお目にかかれて私達は幸運だったな、カスミ」
 クレメンスはカスミの方を向くとパチリとウインクをしてみせた。
「え? あ、はあ……」
「さて、と、では一応朝までは見回りしてみよう。ここは広い。カスミが気付いてないガーゴイルも、まだいるかも知れない」
「はい」
「全て退治したらもう出てきませんよね? ヘル・ルフトマイスター……」
 メルダースがクレメンスに不安気な表情で尋ねた。
「さあね」
「さあね、って、そんな」
「残念だがそれは私達の管轄外だな。朝になれば私達と入れ替わりに薄明(デマーシャイン)の調査班と研究班が来るから、後は彼らに任せよう」
「そうですか……」
「そう心配するな。例え調査班が原因を掴めなくとも、なにか起きたらまた私達が何度でも来るさ」
「なにか起きるのはもう勘弁願いたいものです……」
「では私もそれを神に祈っておこう。じゃあ行こうか、カスミ」
「はい」
 カスミとクレメンスが再び見回りを始めようと歩き始めた矢先、フロアの暗がりに緑色に爛々と光る二つの翠眼をクレメンスは認めた。
「おや、マリー。ザクセンに行ったと聞いてたが、もう帰って来たのか。申し訳ないけど、もう終わったよ」
「そのようね」
 暗がりから音もなく現れたのは、黒いドレスの小さな少女だった。彼女の無表情ひとつ伺えないその顔は、夜空に浮かぶ満月のように、うっすらと闇に浮かんでいた
「マリー、来たんだ」
 カスミが明るい声で言った。
「クレメンスと二人きりでいたのに、お邪魔しちゃったかしら」
「ううん、そんな事ない」
「クレメンスもこんな仕事、一人でやればいいのに」
「私は君とは違うんだ。一人だったら多分死んでたよ。念のため朝まではこの塔を見廻るつもりだが、君も来るかい?」
「そうするわ。どうせ暇だし」
「……ああ、そうだマリー、明日、ではなくてもう早朝だな。コルンゴルトから招集がかかってるぞ。聖務会院(ゲマインシャフト)で緊急会議だ。みんな君は間に合わないだろうと思っているから出なくてもお咎めはないだろうけど、一応伝えとくよ」
「それ聞いたら出ない訳にはいかないじゃない。……でもなにかしらね。あんまり良い話じゃなさそう」
「だろうね。私が聞いたのも昨日の夜だし。とにかくいる奴は全部かき集めろってさ」
「うーん」
 マリーは顎に手を当てて常磐色の目を伏せた。彼女が考えこむ時の癖だが少女のような見た目にそぐわず、どこか滑稽ですらある。
「まあここで考えていてもわからんさ。私達は今できる事を忠実にこなそう」
「そうよマリー、行きましょう!」
 カスミが顎を乗せていたマリーの右手を強引に引き離した。
「そ、そうね」
 そうして黒ずくめの聖者達は、再び塔の散策のためその場を離れていった。
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