第二章①

エピソード文字数 1,083文字

 それからというもの、ニコルはデイヴィッド警部に付き添われ、毎日のように聖ニコラオス孤児院に通う羽目となった。
 おかげで日々ヘトヘト。だからこうして狭い研究室で好きなダージリンを飲んでいる時が、唯一の心安らぐ時間となっていた。
 だが、キャッスルトン茶園の極上の香りを楽しんでいるそんな至福の時に、その凶報は舞い込んできた。
「四件目の事件が起きやがったぞ!」
 その顔に怒りの色をにじませながらデイヴィッド警部が飛び込んできたのは、三件目の事件から五日後の、十二月四日の朝だった。
「今度はどこなんですか?」
 凶報に顔を曇らせつつも、ニコルは訊ねた。
 むろんだいたいの察しはついている。要はイースト・エンドのどこであるか、ということである。
 しかし、デイヴィッド警部の口からは、とんでもない情報が飛び出した。
「テムズのほとりだよ」
「テムズ川ぁ?」
 この答えには、さすがのニコルも驚かずにいられなかった。手にしていた紅茶も、机の上で思わずカチャンと鳴った。
 テムズ川はロンドンと海とを繋ぐ水運のメッカ。当然イースト・エンドにもテムズ川は流れている。
 だが、それほどまでに水運が盛んなテムズ川のほとりともなれば、人の往来も多く、当たり前のように目撃の可能性も増える。それがたとえ日常的に治安の悪いイースト・エンドでも、である。
 誰もそんなところで犯罪を起こそうなんて、ふつう思いもしないだろう。
 それゆえスコットランドヤードの警戒網も、テムズ川周辺は若干手薄にしていた。つまりはまんまと警戒網の裏をかかれた訳である。
 この事件に直接当たっている警官たちの苛立ちは、如何ばかりのものだろうか。
 それは目の前にあるデイヴィッド警部の形相を見れば、火を見るより明らかだった。
 だからこそ、もはや苛立ちを隠せないほど焦れていたデイヴィッド警部は、
「そら、行くぞっ!」
 言うやいなや、ニコルの研究室を一目散に飛び出しもしたのだ。
「ど、どこへですか?」
 ニコルは慌ててその後を追う他はなかった。
「決まってるだろ。現場だよ、現場!」
「現場って言ったって、たしか警部はスティーヴ警視に邪魔をするなって釘を刺されてたんじゃあ……」
「んなこと、知ったことかぁ!」
 言って、および腰のニコルの襟首をむんずとつかんだデイヴィッド警部。そのまま嫌がるニコルをズルズルと引きずって、スコットランドヤードを後にした。
「ちょっ、ちょっと、そんなところ引っ張らないでぇぇぇ……」
 そんなニコルの困惑した叫び声は、無情にも遠くかき消えていくだけだった。

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登場人物紹介

●ニコル・クロムウェル(Nicol=Cromwell)


グレーター・ロンドン庁からスコットランドヤードに嘱託検死医として派遣されている、第二検死課の医師。しかし、派遣以降、ニコルに回ってくる仕事は、第一検死課の手伝いか、最近実験的に導入されたばかりの指紋照合の研究をさせられるぐらいで、後は若手警官が医務室代わりに第二検死課へと来るぐらいのもの。だが、デイヴィッド警部に巻き込まれ、急きょ連続殺人の捜査に駆り出されることになるのだった。

●デイヴィッド・ターナー(David=Turner)


スコットランドヤードの熱血警部。5年前の切り裂きジャック事件で、新米警官として事件にあたった経験から、「今回の一連の事件は、やつのしわざじゃねえ!」と捜査本部の方針に猛反発。しかし、単身捜査をするのには限界があるため、前々から目を付けていたニコルを巻き込むことに。

●マリア・フローレンス(Maria=Florence)


聖ニコラオス孤児院で孤児たちの世話をする修女(シスター)。

もともと彼女自身も捨て子であり、ニコルと同じ聖ニコラオス孤児院で育った過去を持つ。性格は明るく、ニコルに頼まれ、同じシスターのマギーとともに街のうわさを聞きこむことに。なお、マリアに一目ぼれしたデイヴィッド警部から、それとなくアプローチを受けるが、本人はいたって気づいていない。

●スティーヴ・マルサス(Steve=Malthus)


スコットランドヤードのエリート警視で、デイヴィッドの上司。捜査の手法の違いからデイヴィッドと対立することが多い。新たにロンドンを恐怖の渦に巻き込んだ連続殺人犯を、切り裂きジャックの再来と信じて疑わない。

●マギー・フランクリン(Maggie=Franklin)


聖ニコラオス孤児院のベテラン修女。おしゃべり好きで、かつ、うわさ好きな性格なので、今回の事件のこともいろいろとニコルやデイヴィッド警部に聞き込んでくるが、その反面、町で聞き込んだうわさもいろいろと話してくれる、迷惑であり、ありがたい人物。


●ミネルバ・ファーガソン(Minerva=Ferguson)


聖ニコラオス孤児院の筆頭修女。真面目な性格で、厳格なクリスチャン。マリアやマギーが事件に首を突っ込むことをこころよく思っていない。

●ウィリアム・スチュワート(William=Stewart)


聖ニコラオス孤児院のあるイースト・エンド教区に務める優しき老牧師。孤児院に常駐しているのは修女たちで、ウィリアム牧師は週一回礼拝のときに孤児院を訪ねている。

●連続殺人の被害者 case1

アニー・スコット(Annie=Scott)


27歳。第一の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのセントキャサリン地区で夜明けに死体が発見される。18箇所に及ぶ切り口が見られた。

職業は売春婦。

事件日は十月十四日。

●連続殺人の被害者 case2

ローズマリー・ジョーンズ(Rosemary=Jones)


23歳。第二の被害者で、死因は頚部を掻き切られたことによる窒息死。

イースト・エンドのホワイトチャペル地区で悲鳴を聞きつけた巡査がかけつけるも、事切れた状態で発見された。切り口は、死因となった頚部の一箇所と、腹部の七箇所の刺し傷。

職業は売春婦。

事件日は十一月十五日。

●連続殺人の被害者 case3

アイリーン・コックス(Irene=Cocks)


24歳。第三の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのホワイトチャペル地区で夜明けに死体が発見される。29箇所に及ぶ切り口が見られ、ずたずたに腹まで割かれていたが、内臓はすべて揃っていた。

職業は売春婦。

事件日は十一月二十九日。


●連続殺人の被害者 case4

メアリー・リトル(Mary=Little)


21歳。第四の被害者で、死因は頚動脈の切断。

テムズ川のほとりで死体が発見される。腹がずたずたに割かれていたが、内臓はかろうじてすべて揃っていた。

職業はメイド。

事件日は十二月四日。


●連続殺人の被害者 case5

マーガレット・ウォルポール(Margaret=Walpole)


22歳。第五の被害者で、死因は失血死。

イースト・エンドのセントキャサリン地区で、夜明けに死体が発見される。腹がずたずたに割かれており、内臓の一部が持ち去られいた。

職業は教師。

事件日は十二月五日。


●連続殺人の被害者 case6(未遂)

フェアリー・コールズ(Fairy=Coles)


第六の被害者になりかけた女性。3件目の被害者アイリーン・コックスと顔見知りであり、その遺体の第一発見者でもある。

職業は売春婦。


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